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寝付けないから昔話をしたんだが、思った以上に花が咲いてしまってね。続きなんだが…よかったら

聞いておくれよ

深夜も深夜、こんばんは 浅葱です。あれデジャヴ←
すみません(´・ω・`)
携帯から書き込んだら、一つ前の記事が限界になっちゃいまして…

こちらは一つ前の記事の続きです! 宜しければそちらを一読いただければと思います(´`)

前回のあらすじ…
受験生だった私の話をし始めた浅葱、当時、親や大人からの小言に自身を認めてくれないと怒りを覚え、積もりに積もった怒りは、ついに周囲を嫌ってしまう危機までおちる結果となってしまう…そこで浅葱はとうとう『親や大人を信用や信頼しない』という結論にいたるのであった。


さて
受験生の私は、それから信用も信頼もしませんでした。勉強をする際には極力、友人にだけ質問をし、先生方々には質問をしに行かないように
『頑張れ』の声などには酷く苛立ちを覚えるようになったのもこの頃です。

『これ以上、何を頑張れって言うのよ!! 認める気もないくせに!! 知りもしないくせに』

しかし八つ当たりだと解っていたため、言うことはしませんでしたが、吐き出せない苛立ちを感じてしまうことがいやで大人との接点を持つことが嫌になりました。
担任や親には私だけを信じ、頼らないために、酷くあたった事もあります。
『信頼出来る証明をした訳じゃないだろうけれど、必死でやってるんだ、黙ってろ。あんた以上に私が不安なのに煽ってくるな。私は私を信じる』
的なのを常に考えていたため。比較的苛立ちを感じることは少なくともなりました

教師でも『人』として、世間話とかなら自分の中で大丈夫だったんですけどね。曖昧ですが八つ当たりをしないために口数も減ったように記憶しています。
一応いうと友人に対しても苛立ちを感じる時はありました。


此処からは記憶が鮮明なものがないので卒業式まで飛びます

卒業式の後には、懇意会的な先生方々と両親、卒業生で会場に移動し立食パーティーをするというものが企画されていました
クラスの皆は参加しましたが
私は用事があるため参加しませんでした。

と言うのは冗談で、受験生の私は試験代を自分で支払った事もあり、お金にシビアになり…両親は参加しない上に、私の合否判定は出ていない事で楽しめないだろうし、何より一人6000円くらいで 家族一人ごとにお金がかかるで(家族三人だったら18000円ってことです)ふざけてんだろと思い
用事があると拒否しました。―――落ち着いて考えると勿体ないことをしたと思いましたが…合格すると信用してないこの人達とは合格しても喜べないだろうし、最低にも、先生方々に感謝すらできず参加しても無駄に感じるかもしれない
あげくに立食パーティーで『きっと合格するよ!!』などといわれた暁には、私は、理不尽にもその人を『嫌う』だろうとおもい、参加しなくて良かったと感じてもいます。


卒業すぐに頭に浮かんだのは、二度とこの高校には通いたくないと思いました。
先生に感謝するみんなを後目に、私は、ひとりで頑張ったし、高校では嫌な思いしかさせられなかったと考えたからです。
そして、二度と会いたくない、と一瞬心をかすめて、それは言い過ぎだと自分を咎めました


―――いま、振り返っても、もうこの高校に通いたくないと思う気持ちが見え隠れしています。正直高校の事を考えると吐き気がします。
ですが、落ち着いて見れば…あぁ、良い学校だったなぁと多くの面で感じられます。一人ではなく支えてくれていたのに、気付けなかったとも思います。
ただ、自分にとってわだかまりとしていまだにあるのは
『辛かった』という八つ当たりの気持ちから生まれてしまった『憎悪』です。


本当に嫌だった記憶が多いためか。高3の記憶はほとんどありません。
だから、記憶が無かったかのように卒業後に嫌悪なく高校に行くことができました。

ですが、後輩のですが『卒業式』に行くにあたって
記載した事実を、少しではありますが、痛みと辛さ
そして、意味が解らなかったわだかまりの原因を思い出せました。

いまだに担任にあうのは恐怖ですし、当時のコトを考えるのも吐き気がするけど…理由は何だろう? と、卒業後すぐの頃は思いましたし、奥底にしまったせいか、今も少ししか分かりません。
無理に思い出さないようにしているとも言えます。

あ、ちゃんと、合格報告はしましたよ、先生に 笑


あとは、そうですね。
卒業後に同じ高校で、同じ大学の友人が私のことを担任や周囲の先生に
『浅葱ちゃん、頑張ってるよヽ(・∀・)ノ』
と言ってくれたそうで、先生は


『頑張ってるな、褒めてやらなきゃな』
『認めてやらないとな』

と、いってくださっていたそうです。
それを聞いた瞬間、受験生としては一年が過ぎようとしていた頃だったのに

『あぁ、むくわれた
この人に、やっと、見てもらえた』

と、涙がでました。
いまだに嫌悪を消すことは出来ません
それは、当時の私の苦しさが、消えない限り消えることはないでしょう。

『認めてもらえた』という事だけで、私は、少しですが、ラクになれました。本当に好きな先生だったので、最後まで嫌いにならなくて良かったと
安心しました。


当時泣く暇があったら勉強だと言っていた反動か、涙もろくなりました(´;ω;`)

良い傾向だとは思いますが
周囲が優しいためでしょうか、支えて貰わないと立っていられないのはまだまだですね。
もっと、強くならねばと感じる
浅葱でした。



ながながと付き合っていただきすみませんでした(´・ω・`)

自分の中でも整理がつきました!
八つ当たりで最後まで嫌いにならなくてほんとによかったです。というより、八つ当たりに気付けてよかったです。傷付けて、気付いたら傷付きますから。でも、気付いたら、謝れますね

知らん振りして、子供のフリをしましたが、私なりに引きずってもケリをつけれて良かったです
明日は、高校に行ってきます!わくわくです(*´`)



もし、みなさんの中にも好きだったのに嫌いになってしまった人が居たら、一度思い返してみてはいかがでしょうか?

ではでは あっさぎさんですた!!(^^)ノシ

深夜になったのに、なかなか寝付けないから昔話をしようと思うんだ。よかったら

聞いてはくれないだろうか

深夜も深夜、こんばんは 浅葱です。

明日は後輩の卒業式です(*´`)
見に行こうと思っていたのですが、私の中にわだかまりがあることに気付きました。

それと、まぁ 眠れないだけなんですけどね 笑

だから、少しずつでも、書いて忘れようとおもいましてw
お付き合いいただければと思います。


さて、受験生だった私は、先生や親を信頼していました。
良い意味でも悪い意味でも

悪い意味で信頼していたことで国公立を目指していたのは、まぁいまとなっては、下らなく思えますが、当時は本気で親を憎みました。 この話はまた違うとき記載させていただきますが……

志望していた国公立を頭の悪さやひどく揉めたコトで諦めをして、目指していた私立に力を入れたとき、周囲の大人から『もっとランクを下げろ』といった『認めてもらえない』という、勝手ながら怒りを感じていました。


――今の私なら、周囲は私を見て実力が足りないと判断し親身になってそう言ったのだろうと言えますが、受験生の私はいっぱいいっぱいで理由を考える余裕はありませんでした。
がむしゃらに頑張ろうにも、応援してくれる、という状況からは程遠かったからかもしれません。ひとえに『馬鹿』であったからだと思いますが、酷く辛かった事は覚えています。


受験生の私はなんといわれても、自分の信念で『臨床心理士』になる道のため必死に勉強をしました。ですが、周囲の大人の『諦めろ、無理だ』の声や『頑張ってない』といった声、『どうせ落ちる』という言葉に対する自身の焦り、私自身の不安を煽るだけで誰も話を聞いてくれないストレス…それらは蓄積されていき、私は

『うるせぇんだよ!!頑張ってんだろ!!いっぱいいっぱいなのに……!! っふざけんじゃねぇよ!! 認めもしないでごちゃごちゃぬかしやがって!!』

と、母や先生方々に『嫌悪』や『怒り』最後には『憎悪』が芽生えたのですよ。


―――本当にいっぱいいっぱいでした。信頼した方々は私を気遣い、奮闘させようとしたり、大学に入るために視野を広げる意味でもランクを落とした方がいいといった言葉は全て
『頑張ってる私を認めてくれない』と捕らえてしまいました。
そうです。完璧な八つ当たりですね! 一年たって大分落ち着いて考えても、いまでも『あの人たちは私を見ないで否定してきたんだ。』というなんとも言えないムシャクシャした感覚が残っています。
まだまだ子供ですね(´・ω・`)

そこで『臨床心理士』に、親や先生方々から批評が上がり『本当に行くのか』といった、私の信念を踏みにじる声が出はじめました。
その声に私自身も『臨床心理士』という職種に不安をもってしまい、不安にかられ初めて勉強中に本当にこれでいいのかと悩んで泣いたりどんどん怖くなりました。
それでも周囲からは、『諦めろ』や『本当に行くのか』とか『無理じゃないか』や『その学部に行って何があるのか』といった事を言われ続けてもだんだんと言い返す事が出来ませんでした。
それは、私が不安とストレスで苛立って物事を見ていると気づいたためです。
家族や先生方々は『心配』で私に言ってくれてること。
私が頑張れば、良いんだ。言わなくなるくらいに頑張れば、良いんだ。
しかし、結果しか認めない人達です、私は必死で足掻いてもそこに言われなくなる事が出来ませんでした。
頑張っても努力を見ない、不安にさせることしか言わないこの人達を、私は
『このままだと、酷く八つ当たりをしてしまう上に憎しみでこの人達を許せない程に嫌う』
と確信しました。
そこで、私は
『信頼しない。信用しない。自分だけを信じる』
そう思ったのです。

――確信した時は少しだけ落ち着いたからでしたが、当時の心境的には
『ほらみたことか!! お前たちはそうやって!! 私を否定し続けるんだ!! あんたたちは私が受かるとも思ってない!! なのに私を不安にさせることしか言わない!! 私を信用もしてない!! そんなあんたたちを信頼して馬鹿みたいだ!!
あんたたちなんか!! しらない!! だいっきらい!! 私が!! 私が壊れてしまう!!』

と、言う感じでしたね。不眠症なりかけでしたし、かなり追いつめられてましたw
今なら、先生も家族も私と同じくらいに不安で、私を信用してませんでしたが、頑張っては欲しかったのでしょう。だから、口をついてでたんだろうなぁ。
ですが信用はされる気もされる筈もなかったので納得ですが、当時の私は、『頑張ってるな!』の一言もないことが、ただ、苦しかったですね。
いやまぁ、わがままだといまでは解りますがw
不安定になる要因だけ与えて、支えてくれない、なのにしっかりしろ!!と言うことを言ってくる事が腹立たしく、感じたんですねw
完璧なストレスの八つ当たりですけどw

あ、しまった。次のに続きます(´・ω・`)

近況なんて言いたいけれど特に何にもしてない、いわば

体たらくな毎日を過ごしています。


こんにちわ、お久しぶりです、私です。
最近は、バイトの面接を受けるたび落ち続けて、あぁ、これが氷河期かなんて思っています。

ほんと死にそうです。まぁ、春休みにはいいって3月いっぱいまでゆっくりできるんですが、お金がないのです。本当にお仕事探さないと…死んでしまうと思います。
お出かけする予定もないんですけどね☆

皆さんはどうやってバイトやお仕事に受かるのでしょうか…。やっぱり第一心象が悪いのでしょうか・・・・。 第一印象よくしたいです。助けてほしいです。

さて、そんなことはよくて(切実によくないけど)、新年皆さんは家族と過ごしましたか?
私はある人と話してから、新年だけじゃなくてなるべく家族と過ごせる時間を取ろうと思っています。

きっと仕事に就くようになったら、私はこの家を出るかもしれません。
それは何年先かはわかりません。...
私が30歳になった時、両親はもう50後半です。
家に帰ることはきっと新年の1日や2日しかないでしょう。

もしも、母が旅立つことが20年先であっても、私が家を出てしまえばせいぜいそばにずっといれるのは4、5年なんですよ。

母は20年、もっと、生きてくれるかもしれません、でも実質私が触れ合えるのは新年の1、2回だけ
実質の時間に直してしまえば一か月ないんです。離れてしまえば、記憶で生き続けても、触れ合う時間は、たった1か月あるかどうかなんです。

そのことを考えるようになって、ちょっとの時間でも家族といるように
そう考えるようになりました。
地方組の人はどうぞ新年だけといわず、帰れる日はどうぞ、かえって顔を見せてあげてください。 それが無理なら、せめて声だけでも聞かせてあげてくださいね。 テレビ電話というのは画期的です。ですが、たまには手紙を書くのもよいでしょう。
だって、手紙は残りますもの。

高校の友達と会ってもまた余計におもわされます。
いつもいっしょにいたのにね 。って

ではでは、またちょこちょこ、顔を出したいと思いますよ!
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