「あ、兄貴。」
「…小文吾、恋人になったんだから名前で呼べばいいだろう。」
「う…えっと…現八…。」
別に今までも呼んでいたはずの名前なのに、関係が変わっただけでとても気恥ずかしくなった。
だけど呼ばれた兄貴が優しく笑うから、俺は兄貴の名前を何度も呼び続けたのだ。
…それがたった数日前のこと。
「すまないが…お前は誰だ?」
現八が倒れたと聞いて慌てて駆けつけた先には、ぼんやりとこちらを見つめる兄貴がいた。
目撃者によると誰かに階段から突き落とされたらしい。
鬼の力で傷はすぐに癒えたが、頭を強く打ったのか…兄貴の記憶は全て消えていた。
「げん…兄、貴?」
俺を見つめる優しげな眼差しはそこにはなくて、名前呼びなど出来るはずがなかった。
「お前は俺の弟なのか?」
「…本当に、忘れちまったのかよ。姉貴のことも、信乃たちのこともか?」
俺のことも…覚えてないんだな…。
ほんの少し前までの幸せは音をたてて崩れていった。
傷がないことと、日常生活を送った方が記憶が戻りやすいだろうということで兄貴はすぐに家に戻ることになった。
古那屋に戻っても兄貴はきょろきょろと物珍しそうに辺りを見回している。
「現八戻ってきたって?」
「もう大丈夫なんですか?」
そこに信乃と荘介が来た。
…正直、今の兄貴と二人でいるのは辛かったから助かる。
兄貴が忘れている、俺と兄貴の記憶を話し続けるのは予想以上にきつい。
「さっき話した、信乃と荘介だ。」
すると兄貴は信乃の顔をじっと見つめて。
「お前可愛いな。」
なんて言い放った。
以前と変わらない一言は俺の胸を抉るのには充分だった。
「おい小文吾、こいつ記憶ないとか嘘だろ!」
「え、俺は日常的にこんなことを言う男なのか?」
信乃みたいに小さくないし可愛げもない俺を、それでも兄貴は可愛いと言ってくれた。
お前が一番可愛いよ、と。
でも記憶をなくした兄貴は俺をそう形容してはくれなかった。
一般的に見たら俺は可愛いなんて言われる男じゃないのは分かってる。
分かってるのに…兄貴の一言がこんなにも痛い。
次の日から、兄貴は仕事へ行くことになった。
部下の人が迎えに来てくれるしフォローもしてくれるっていうから、記憶がなくても何とかなるだろう。
やっぱり兄貴は隊長だから…周りからも期待をされてるってことだ。
「おはよう、兄貴。」
席についた兄貴の前に朝食を並べていく。
兄貴の好きなものを作ったが本人は多分気づかないだろう。
「すごいな…これ、小文吾が作ったのか?」
「ああ。料理は得意なんだ。」
兄貴はおいしいと食べてくれた。
そのあと部下の人が迎えに来たから兄貴を送り出す。
記憶をなくす前と変わらない一コマに、涙が出そうになる。
…一晩経って俺は思った。
兄貴は記憶が戻らない方が幸せなんじゃないかって。
俺たちが鬼であることは言っていない。
俺たちがきっかけで姉貴が死んだことも。
俺と現八が恋人であることも。
何もかも忘れて、忘れたまま生きた方が兄貴にとっては幸せなんじゃないか、って。
「…大丈夫かよ?」
朝飯を食べにきた信乃が眉をひそめる。
「あ?まあ記憶がなくても体が覚えてるかもだし、仕事の邪魔にはならないんじゃねえの?」
「現八じゃなくて…お前のことだ、小文吾。」
…本当に、このお子様は。
変に鋭くて嫌になる。
「俺は大丈夫だ。つか大変なのは兄貴だろ。」
もう決めたんだ。
現八への気持ちはずっと隠して、弟として生きる。
何でもないように言ったはずなのに、信乃の表情は曇ったままだった。
兄貴が仕事から帰ってきて、信乃と荘介と四人で夕食を食べた。
そしてまだ何も思い出してないという兄貴が、自分が怪我をした場所に行きたいと言い出した。
思い出さないでほしいとは思ったけど、ここで止めるのも不自然で。
信乃たちも付き合うと言って四人、外へと向かった。
…改めてその場所を見ると、階段はかなりの高さがある。
こんなところから落ちて、ほぼ無傷であることに疑問を持たれるかもしれない気がして俺は既に帰りたくなった。
兄貴が何か言いたげにこっちを見て。
口を開こうというまさにそのとき。
「犬飼…!貴様、なぜ無傷なんだ!」
金属の棒を持った男が現れた。
何かぶつぶつ呟いてるし危ない雰囲気なのは一目瞭然だ。
すみません途中まで。