「零くん」



その名前で呼ばれたのは何年ぶりか

慣れを覚えたこの身に走る、電撃のような衝撃

全身が一瞬にして痺れた



同時に思う
その名を、ここで呼ばれては、駄目だ



「零くんだよね?」

その声の先には、8年前自らの眼差しを独占した人がいた



「久しぶり。こんなとこで会うなんて」



記憶より少し大人びた彼女は、記憶と相違ない笑顔で自分に話しかける



今の自分は零ではない

動揺と使命感の狭間、反射的に否定しなければ、と思うが
唇は思うように動かなかった
「久しぶり」



「何だか雰囲気が変わったけど…。というかその恰好は、」

幸いここで救いだったのは、彼女が元同期であるということ

「…今は違う、のね?」

自分の現状を正しく把握する頭脳があるということだ



彼女は警察学校のかつての同期が、何故今喫茶店の前でエプロンをして玄関の掃除をしているのか、正しく理解した
警察を辞め、フリーターになったかもしれないのに

昔とは変わった雰囲気と、酷い動揺加減と、持ち前の勘でわかったのだろうか

自分の現状を言い当てた彼女は、先ほどまで見せていた笑顔を隠し、神妙になり、少し申し訳なさそうな顔をした

「ごめんなさい、名前を呼んでしまって」

都合のいいことに、周りには誰もいない

彼女もそれを確認して息をつく

「離れた方がよさそうね。ごめんね」

下がった眉で再開の喜びもそこそこに、立ち去ろうとする彼女

本来ならばそれが正しいが、何故かその時背を向けた彼女の腕を掴んでしまった



驚く瞳が目に入る

忘れもしない若き衝動に駆られた



それからというもの
自分は彼女の手を離し、「ここにいて」とだけ言い残してポアロの中に戻った

シフトは丁度お昼まで
少しばかり早めにエプロンを外し、マスターに挨拶をする

出来るだけ急いでもう一度外に出れば、やはり彼女はそこにいた



夢のようだ、と思った



忘れられない記憶と共にあった彼女が、目の前に具象化したような、不思議な感覚
ただ手を伸ばせば掴まえられる

彼女は不思議そうな、不安そうな顔でこちらを見ていた

恐らく今の仕事の邪魔ではないか、と危惧しているのだ

頭の回転の速い、よく気が利く
そんな彼女は変わらないでいた

彼女の元に歩み寄り、改めて口を開く

「ちょっと場所を変えよう」



彼女はまた多少驚いたようだったが、何も聞かず提案に乗った



念のため長めに歩いて小さな喫茶店に入る
尾行は、されていないようだ

席に着き、一息つく

そして改めて彼女を見ると、眉を寄せ怖い顔をしていた

それを見て思わず笑みがこぼれる
彼女がそんな顔する必要ないのに

小さく笑った自分を見て、彼女も息をついた

おかしな間が流れる



彼女くらいだった

言葉がなくても分かり合えるような気がするのは



「久しぶり」

ただ、今は言葉が必要だ
8年間溜めていたものがある

二回目の挨拶をすれば、彼女も

「久しぶり」

和らいだ表情で答えた



言いたいことは色々ある

言えないことも色々ある

何を言うべきが迷っていると、彼女の方から問いかけられた

「今は何て呼べばいいの?」



流石だ、と思った



警察学校にいる頃にはまだ自分が公安に入り、潜入捜査をすることなど、わかっていなかったはずなのに

今、その状態だと見抜き、本名で呼ばれることが危険だと悟り、周囲を気遣いながらそう聞いた

変わらぬキレに安堵しつつ



「透」

とだけ言った



「透くん」

彼女はその名を繰り返し、「似合ってるね」と微笑んだ



彼女には全て明かしてしまいたい
ただそれは出来ない

何より彼女の身を危険に晒すことになる

何なら今現在でも
組織の奴らに見られでもしていたら、あらぬ疑いを掛けられ、調べられる可能性がある

窓のない席を選んで正解だった



「ごめん。いきなり連れてきて」

口を開けば、そう始まっていた

彼女はまた表情を変えて答える
先ほど見せた鋭い気配は消えている

「ううん、いいの。私こそ街中で容易に声を掛けてごめんなさい。つい、姿を見かけてまさかと思って…、嬉しくなっちゃって」



嬉しい
その言葉に全身が反応するのは致し方ないことだ

照れ笑いする彼女の髪が揺れる

久しぶりに見た
美しい、と思う



「今の僕は、思っている通りの状況だから、」

その次の言葉が続かない

だから何だというのか

近付くな
名を呼ぶな

言うことは簡単だが本心ではない

続ける言葉に迷っていると



「大丈夫、わかってるつもり。透くん」

彼女は平気な顔で答えてみせた



それは、もう会わない、と言っているように聞こえる



正しい選択だ

もう今は違うとは言え、昔のことが組織にバレでもしたら大変なことになる

彼女は警察学校での同期
しかし、彼女は警察にはならなかった

「どうしてここに?」

本来ならいるはずのない場所



彼女は警察学校での訓練中、大きな事故に遭い
致命的な怪我をして学校を辞めた

大きな志を持っていた人だった

「原因は、これ、かな」

その志も怪我に阻まれ追えなくなり、拾ったのが当時付き合っていた恋人だった
海外赴任の多い彼に着いて行く形で、彼女は日本を去った

最後見る時に光っていた薬指の銀



今は、ない

周りの指より一回り細いそれは、年月を感じさせる



「お別れしたの。あの世とこの世でね」



それは衝撃的な言葉だった



彼女の夫は5年前に他界していた

子供もおらず身寄りのない海外から日本に戻り、先月生まれ故郷であるこの街に帰ってきたのだという

それを彼女は淡々と話した

一生分泣いたから、と

聞いただけで胸が痛んだ



彼女は強い癖に涙脆い人だった

生前の夫の意志を汲み、一生分泣いた後は自由に生きようと指輪も外したのだという

自分がただ想っているだけの間に、彼女にこれだけのことが起きていたなんて、思いもしなかった



柔らかな表情で思い出を語る彼女は、本当に悲しみから解放されたんだろう

月日が解決することもある
月日が助長させることもある



今、仮に自分が普通の警察官であったなら
すぐにでも彼女の手を取って引き寄せたい

仕事に誇りは持っていても、今だけは、どうして、と強く思わずにはいられなかった

俯いた自分に彼女は笑う

「らしくないよ、そんな顔しないで」

暗くなっちゃってごめん、と謝る彼女は、大人びていても今でも十分魅力的で、美しかった



「今日は、会えて嬉しかった」

その言葉に思わず顔が強張る

まるでお別れだと言わんばかり



「後姿を見た時ね、本当に驚いて、まさかと思って。無事で、元気で、良かった」

言葉が途切れ途切れになる

涙脆い彼女のことだ、目が潤んでいる

「立派な、姿が見れて良かった。これからも、頑張って、ね」



その一滴がテーブルに落ちて

身体が動いた



零れ落ちる涙の源に手が伸びる



彼女は驚き目を丸くしたが構わない

その原因を指で拭い、濡れた頬を掌で包めば、温かい体温を感じた

「れ…、…透、くん」



彼女の頬に色味が付く

今ここで震える唇を奪ってしまえたら楽だが、国家の為、日本の為、そうはいかない

だからせめてもの妥協案として、指先で頬を撫でた



「僕の名前は安室透。君の名は?」