話題:創作小説


青色の月が天幕に浮かぶ不思議な夜。秋特有の枯葉色した物想いに耽りながら、誰もいないポプラ並木の舗道を散歩していると、一つの真鍮で出来た外路灯の下に四角い小さな箱が落ちているのを見つけた。

軽く屈んで拾い上げると、どうやらそれは煙草の箱のようだった。艶の消されたブラックに光沢のあるコバルト色の抽象的な紋様が浮かび上がる不思議なパッケージデザイン。恐らくは外国製の煙草だろうと思ったが、私は煙草をたしなまないので、正直その判断に自信はなかった。しかし、大きさといい重さといい箱の造りといい、それが煙草である事は間違いないように思えた。

そこで、外路灯のぼんやりとした薄ら笑いのような灯りを頼りに箱を裏返してパッケージの裏面に目をやると、そこには数行の箇条書きの文言が壊れたようなレトリック体の日本語で印字されていた。


☆これは煙草ではありません。

☆ニコチンやタールなど人体に有害な物質は一切含まれておりません。

☆煙りは出ますが、それはオゾン層を生成する煙りです。

☆ですが、これを言い表す適切な言葉が他にないので、これは煙草であるという事にします。

☆これは煙草であって煙草ではないので、マッチやライターで火を点ける事は出来ません。

☆この煙草に火を点ける為のヒントは「38万qは幻想の距離」です。

☆この煙草を一本吸うと、忘れていた懐かしい記憶が一つだけ甦ります。

☆この煙草を一本吸うと、覚えている現実の記憶を一つだけだけ失います。

☆この煙草はとても良い香りがします。


私は、昔映画館で観た古いモノクロ映画の中のジャン・ギャバンのように煙草の上側をトントンと指で軽く叩いて箱から一本の煙草を取り出した。

それはキングサイズより幾分長めで、薄いブルーの巻き紙を使って刻んだ煙草葉を巻いてある、非常に珍しい物だった。

生憎煙草をやらない私はライターもマッチも持っていなかったが、パッケージ裏の言葉を読む限り、それはどうでも良い事のように思える。ブルーの巻き紙に少し鼻を近づけると、成る程、今までに嗅いだ事のないような未知の香りではあるが、確かに良い香りがする。

私はこの煙草を吸ってみたくなった。有害物質が含まれていないのなら何も問題はないだろう。それどころかオゾン層を生成するとなれば、むしろ吸うべきものであるとも言える。しかし、問題はどうやって火を点けるか…そこにある。

☆この煙草に火を点ける為のヒントは「38万qは幻想の距離」です。

漆黒の夜空に浮かぶ不思議な青い月の夜は、この不思議な煙草のパッケージデザインそのものであるかのように見える。そして、月と地球との距離があれならば答えは既に出ていると言えた。

私は煙草を摘まんだ指先を夜空の天幕に向かって掲げた。すると…

ちょうど煙草の先と青い月が重なったところで、シュポッと小さな音がしたかと思うと、ブルーの巻き紙煙草の先端に火が点った。それは、思っていた通り涼やかな青色をした炎だった。

無視された遠近法を気の毒に思いつつも、空間の鎖から解き放たれたような自由さに体が少し軽くなった気がした。

そして、私は青い月の煙草を一本深く吸い込み、忘れていた懐かしい思い出を一つだけ取り戻した。それがどんな思い出なのか、それは誰も知らなくていい。

勿論、私はその時、何かの記憶を一つ無くしたはずだが、何の記憶を失ったのかは残念ながら判らない。記憶という物は、失われた瞬間にもうそれが記憶であった事すらも失なってしまう性質を備えているからだ。

私はその不思議な煙草の箱を元の外路灯の下にそっと戻し、もう二度と眺める事が出来ないかも知れない青い月の夜、ポプラ並木の月影の下を再び歩き出したのだった…。

舗道のところどころに散らばる小石の石英質の部分が月の灯りに照らされて星海の煌めきのようにキラキラと輝いていた。


《Fin》