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長崎の歴史:喧嘩坂騒動の検証


ここで喧嘩坂騒動の謎を考えて
みたいと思います

まず喧嘩坂でのシーンですが
二人の深堀藩士は
坂を下ってきており

高木家の番頭たちは
坂を登ってきています

深堀藩士は諏訪神社での
要件を終えて
近道をしながら長崎五島町の
深堀藩蔵屋敷に戻る途中でした


しかしそうなると
喧嘩坂を下るのは明らかに
遠回りになり
五島町とは逆方向に
なってしまいます

また高木家の番頭たちですが
泥を跳ねられただけで
武士は屋敷に押し入るほど
怒るのは
やはり違和感を感じます

そこで史料を調べてみました

すると喧嘩坂の騒動を
見た人の記録が掲載されてました


それによると騒動は
坂の途中でなく
坂の上であったようです

深堀藩士はそこさら
五島町の蔵屋敷へ戻ろうとし

高木家の番頭たちは
高木家に誕生した初孫の
お祝いを終え高木家邸屋敷に
戻る途中でした

そこで深堀藩士の深堀三右衛門が
ついてはいた杖が
折からの雪の水たまりにとられ
高木家の孫を乗せた籠に
ぶつかってしまい
籠が地面に触れ泥がつきました


祝いの席を汚された格好になった
高木家の番頭たちは
宴での酒の勢いも手伝い

坂の上で口論に発展します
その場は近くの神社の宮司の
仲裁で引きますが

やはり祝いの場を汚されたのは
許せずに
酒の勢いのままに
深堀藩蔵屋敷に押し入ります

これならば納得いく
展開になります

赤穂浪士の討ち入りは
この一年後にされ
この喧嘩坂騒動が参考にされたと
されています


(↑しらゆきちゃん
夢中でなっています)

from Itsuki
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