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長崎の歴史:日本二十六聖人 2


1957年2月5日
処刑の地へと
一行は歩いて行きます

長崎街道を南へ向かう
一行は
途中長崎の赤迫で
一度休憩を取り

後は街道をひたすら
歩いて行きます

二十六聖人処刑の地は
西坂の丘とされてますが


処刑の様子を見ていた
長崎の
外国人宣教師の記録などから

西坂ではなく隣の筑後町の
丘ではとも
いわれています

その理由として西坂の丘は
いわゆる罪人の処刑地であり

罪人ではない二十六人の
キリシタンは
筑後町の丘にして欲しいと

長崎のキリスト教徒の
訴えがあった
からと考えられています


処刑の地に着いた二十六人ですが

処刑の責任者の寺沢半三郎は
一行の中に
まだ12歳のルドビコ茨木が
いるのを発見し

「嘘でもいいので棄教してくれ
それならば処刑はしない」と
いいますが

ルドビコ茨木は
「私の心は主イエスと
共にあります」と棄教はせず
処刑を選択しました


夕方から始まった二十六人の
処刑ですが
当日は外出禁止令が出されて
いたにも関わらず
3000人の群衆が集まりました

最後の一人が処刑されたのは
実に翌日の
午前10時とされてます

二十六人の亡骸は
日本最初の殉教者として
世界各地に運ばれて
崇敬を受けました

その後この丘では
禁教令が解かれるまでに
キリシタン弾圧が続き
およそ600人の
キリスト教徒が
処刑されたとされています

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑しらゆきちゃん
姿勢を正しています
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