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長崎の歴史:高島秋帆 3


開国を迫る外国船が日本の
近海に出るようになりました

幕府は海岸防備を
迫られました

秋帆の砲術の知識を
役立てようと
老中阿部正弘は

秋帆を岡部藩預かりから
解放しました


これは秋帆が
長崎で逮捕されてから
10年10ケ月の
年月が経っていました

自由の身になった秋帆は
名前を喜平に改めます

ペリー来航から
幕府は
諸藩に意見を求めます

当時はほとんどが
「開国反対」の攘夷論でした


秋帆は「海防が不整備では
外国とは戦えない」と

再度の処罰を覚悟の上で
「嘉永上書」を
幕府に提出します

幕府は西洋式の軍隊を
作ることになり
秋帆は講武所砲術師範役
武具奉行役につきます


秋帆は幕府の砲術の
指導に尽力します

1864年には
「歩操新式」等の教練書を
編纂しました

しかしかつて10万石だった
町年寄の身分には
戻ることはありませんでした

近代砲術を築いた
高島秋帆は
1866年69歳の生涯を閉じました

from Itsuki


↑しらゆきちゃん
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