私≠ニ私2

「真っ直ぐ歩け」

「……っ、……」

グイっと、強引に身体を押される。転びそうになりながらも、足を前に進めた。後ろ手に拘束され、口元には呪力を封じる呪符が貼られている。逃げるつもりも、抵抗するつもりもない。ただ、あの人が無事かどうかが心配だった。

「……おかかッ!」

「棘、落ち着けっ」

事情を聞いたのだろうか。兄が廊下の向こう側から勢いよく走ってきた。心配と困惑、焦りが混ざった表情の兄と視線が合う。こちらへ駆け寄ろうとする兄を、真希さん達が必死に止めてくれていた。
兄の姿を見た瞬間、安堵からか泣きそうになる。同時に誰よりも優しい兄にあんな表情をさせて申し訳ない思いで苦しい。けれど理由を言葉で話すことも、ジェスチャーで伝えることも勿論出来ない。補助監督に背を押されるようにして尋問用の部屋に入った。

バタン、
背中に扉の閉まる重い音が響く。

「…………」

狭く薄暗い部屋に、床に固定された椅子が1つ置かれていた。拘束されたまま椅子に座るよう促される。言われるがままに椅子に座ると、手の拘束を1度外して今度は椅子と拘束される。

「すぐ尋問が始まるだろう。それまで大人しくしてるんだな」

「…………」

鋭い視線で睨みつけて補助監督は部屋から出ていった。扉が閉まれば、自分の呼吸音しか聞こえない静寂に包まれる。

(…………っ……)

色々なことが一気におきて、気持ちが整理できない。感情もごちゃ混ぜで、何から考えればいいのかも曖昧だ。

「…………」

こみ上げてくる涙を、唇を噛み締めてただ堪えるしかなかった。




「おかかッ!!」

「棘、止めろ」

「こんぶ!!」

今にも飛び出してしまいそうな棘を後ろから羽交い締めにする形で止めるパンダ。それすら抜け出してしまいそうなほど抵抗が強い。普段の様子からは考えられないほど青ざめた顔に、胸が痛む。だが、ここで棘を行かせる訳にはいかない。事情はよく分からないが、正当な理由もなく突入すればペナルティを食らうのは棘だ。

「今ここで争っても仕方ねーだろ、それより五条先生探した方がいい。癪だが、あの人がいればなんとかなるかもしれない」

「……ッ、」

「棘!!」

肩を掴み、鋭く名前を呼ぶ。紫の瞳が迷うように揺れた。葵希が連れて行かれた部屋の扉を強く見つめた後、一度瞼を閉じて小さく息を吐き出す。
抵抗していた身体から力が抜けた。

「………………しゃけ」

小さな、小さな声だった。 

「……よしっ、五条先生探しに行くぞ!」

「この時間だと職員室か?」

「もしくは1年の教室か……どちらにしろ、まだ高専内にいるはずだ」

「しゃけしゃけ!」

「そうだな、じゃあ手分けして行こう。棘は職員室、パンダは教室。私は外見てくる」

「おう!」

「何かあれば携帯で連絡!」

「しゃけ」

お互い顔を見合わせ、頷く。
次の瞬間には、その場に誰もいなかった。






「…………いやー、残念だよ」

ガチャリと静寂の中に響く音。反射的に視線を向ければ、白い頭の青年が見える。コツコツと軽い足音をたててこちらへ来ると、椅子の手前で止まる。口を開いたのは、五条先生だ。

見下ろす、先生。
見上げる、私。

今日会ったときは黒い布で目を隠していたのに、今はその布が外されて青い瞳が見えた。何処までも続くような晴天の空、もしくは珊瑚礁や色取り取りの魚が泳ぐ澄んだ海の色だ。サファイヤのように輝き、じっと見ていると吸い込まれそうにも感じる。

……とても綺麗な瞳だと、普段の私なら思っただろうか。

「…………」

「…………」

けれど、先生の視線は冷たく表情は硬い。
誰に言われる訳でもなく、心配したり助けに来てくれたのではないことはすぐに分かった。先生は、右手を伸ばすとビッと音を立てて口につけられていた呪符を強引に外した。

「っ、」

無理に剥がした痛みで、生理的な涙が瞳に浮かぶ。

「……きみには期待してたんだ。呪力が多く、ポテンシャルも高い。後は殻を破ってくれれば、強い呪術師になるんじゃないか……ってね」

「…………、」

「でも、それも勘違いだったのかな」

「…………」

ニコリと微笑む顔が怖い。もれ出る呪力の圧で息が苦しい。背中を冷汗がポタリと伝うのを感じた。椅子に拘束されていなければ、とっくに逃げていたかもしれない。

「……家入海月」

「っ、」

「知っているはずだ。きみが呪言を使った相手。倒れてから眠り続けていて声をかけても起きない。僕が知っている限り君たちは初対面だったはずだけど……」

「……、」

「あ、気にしないで話してもいいよ。呪言が邪魔しないように呪力で聴覚の保護をしてある。思う存分話してくれて構わない」

笑う顔は爽やかで、話す声は落ち着いているのに、雰囲気がそうではないと告げている。

「何故、家入海月を呪った?」

「……っ、」

「答えろ」

低く、鋭い声。刺すような視線が痛い。説明しようにも恐怖で身体が震える。10年以上戦闘以外で話してこなかった喉は、咄嗟に上手く動かない。圧倒的な呪力が、チリチリと肌を刺すようだ。蛇に睨まれた蛙、猫に追いかけられた鼠のように何も出来ない無力な存在だと思い知る。どんな呪霊よりも、目の前の先生が怖いと本能が告げている。

(ど……すれば……)

どこから説明して話せばいいのか、冷静に考えられない。怖い、そんな感情だけが頭の中をぐるぐると回る。

「……っ……」

口を開くだけで言葉にできない私に舌打ち1つ。スッと右手を伸ばすと、次の瞬間には身体が浮いていた。

「……っか……」

「僕はさ、気が長い方じゃないんだ」

椅子に固定されていたはずの鎖はいつの間にか外れ、喉元を掴む先生の手だけで浮いている。足すら付かず、負担は喉のみにかかる。息が思うように出来ず、苦しい。確実に締めてくる圧迫感に涙が浮かんで視界が歪む。

「……っ、……ぁ……」

「言え」

「…………ぁ、く……っ」

このまま死ぬのかな、ふとそんなことが頭に浮かぶ。

全てを1から説明した所で、きっと理解してもらえない。前世の記憶があって、もしかしたら家入海月さんに前世で会ったことがあるかもしれない、なんて。馬鹿げた話だと、どうせ苦しい言い訳だと笑われて罵倒される。

だから、こうして終わるのは仕方ない。わざとではないにしても家入さんに呪言を放ち、呪ってしまった。私のせいで傷ついた人がいる。やったことの責任は取らなくては。

(……っ、) 

涙が頬を伝って流れ落ちた。

両親は呪術師になることを反対していたし、呪言が使えるようになってからは急によそよそしくなって離れていった。友達と呼べるほど仲の良い人もいない。呪言で間違って呪うのが怖くて逃げ続けた人生だった。変わりたいと思ったけれど、端から無理だったのかもしれない。きっとだれも……あ、兄だけは悲しんでくれるかもしれないな。




夏希ちゃん=@



「っ、」

酸欠でボーッとする頭に、何故か先輩≠フ声が響く。優しい眼差しで、愛おしさを込めて口から紡がれる言葉に何度胸をときめかせただろう。不安を吹き飛ばし、幸せな気持ちにさせてくれる魔法のような声。

(最期に思い出すのが、貴方なんて)

手の力が抜ける。意識が混濁していく。
目の前が暗くなって…………。




「悟……!」




「……っ、みつき」

「止めろ、生徒相手に何やってんだ!」

突然響いた第三者の声。それと同時に首の圧迫感が一気に離されて解放する。待ち望んでいた酸素のはずなのに、むせ返り上手く吸えず身体も力が入らない。その場に倒れ込んだ。

「…っげほッ……」

「……大丈夫、もう大丈夫だからね。ゆっくり、ゆっくり息を吸ってごらん。ん、……そう、上手だ」

身体を支えてくれた人の顔を見上げる。茶色い瞳と交差した。驚きで目を丸くする。そんな私に微笑みかけると、そのまま身体を抱き上げた。驚きで身を固くするも、包まれるような温もりに自然と力が抜けていく。

(……っ……)

「……」

「……悟、彼女は連れて行く。そもそも治療の途中だった。これ以上は身体に障る」

「……海月、だけど」

「悟」

「……っ、」

短く名前を呼ばれ、動揺したような表情を浮かべていた先生は開きかけた口を閉じて、無言で一歩後ろへ下がった。

「…………上層部には僕から上手く言っておく」

「ああ、頼んだ」

「後で医務室へ行くから、待ってて」

「りょーかい」

ひらひらと手を振ると重い扉に手をかけ、廊下へと出た。





「……ごめんね」

「……!」

「悟は高専時代の同級生で、友人なんだ。最強なんて言われてるけど……本当は誰よりも仲間思いで真っ直ぐで、優しい奴なんだ。でも、あれは……怖かっただろう。ごめん」

柚子色の炎のような反転術式が、喉元を覆う。心地良い温もりにボーッとベッドに横たわったまま天井を見つめていたが、不意にかかった声に視線を向けた。頭を下げて謝る家入さんの姿に、思わず起き上がる。

「っ」

違うと言うように、必死に頭を横に振る。家入さんが謝るようなことは何もない。五条先生だって、怒るのは当然だ。むしろ謝らなきゃいけないのは……。

「……っ、」

人差し指で耳介を指さす。声を出さないように気をつけながら口を開けて、パクパクと動かした。

「……?……もしかして、聴覚を呪力で保護して欲しい?」

「!」

正解だと、何度も頷く。家入さんが呪力を耳に当てるのを確認し、拳をぎゅっと握って力を込めた。

「…………っ、」

「……」

「……ご、ごめんな、さい」

情けなく震える口元。戦闘以外で久しぶりに話す声は拙い。それでも気持ちが伝わるように、万が一でも呪いがこもらないように言葉としては不自然に区切って話す。それと同時に深く頭を下げた。許されないことをした。けど、謝罪することでしかこの気持ちを伝えられない。家入さんが先輩≠ゥどうか今は関係ない。不用意に話したせいで家入さんは倒れた。謝っても、謝りきれない。

「……っ、」

「俺は何ともないよ。むしろ最近忙しくて中々寝れてなかったから、ぐっすり眠れて良かったかもしれないな」

頭にポンと乗る温かい手。家入さんの優しさが声や温もりから伝わってくるようだ。先輩≠フ手もいつも温かかったなと思い出し、こみ上げてくる涙を堪える。

「……聞いてもいい?」

「…………」

家入さんの問う声に、顔を上げて視線を合わせるとこくんと頷いた。

「あの時キミはかいと先輩≠チて言ったけど、もしかして知り合いだった?」

「……っ……」

「俺に似てたりしたのかな」

「…………、」

(っ覚えて……ない?それとも、勘違いだった?……)

首を傾げる家入さん。その反応に愕然としたショックと、ホッとした安堵のような相反する気持ちが胸の中で渦巻いた。動揺を隠すように俯く。

「もしかして、まだ具合悪い所がある?」

「……っ、」

心配するような声に、失礼だと思いながらも顔を下げたまま横へ振り否定する。今は真っ直ぐな瞳を見る勇気がない。先輩≠ニ重なる所を見つける度、高鳴る心臓。やっと逢えたと思ったのに……。


先輩≠ヘここにはいない。


その事実だけが、ズシリと身体に伸し掛かる。
もう少し横になって休もうと促されるまま、ベッドに身体を預ける。寝れるようにそっと毛布を掛け、幼子にするようにトントンとリズムよく身体をさする大きく細い手。家入さんからは見えないようにそっと涙を拭う。今は、心地良い温もりに身を任せようとそっと目を閉じた。






「海月」

「ああ……悟か。どうし、」

彼女が寝て30分ほどたっただろうか。突然ノックもなく医務室のドアが開き、入ってきたのは白髪の友。入ってくるなり、いきなり抱きついてくる。そしてそのまま無言で、身体を預けてきた。思わず半歩後ろに下がったが、そこでなんとか踏ん張って堪える。

「…………」

「悟?」

「…………」

高身長の彼だが、何故か今は子どものように小さく見えた。名前を呼んでも応えず、代わりにギュッと回された腕に力が入って少し痛いくらいだ。

「……悟、」

「…………」

「心配かけてごめん」

応えるように腕を彼の背に回して、そっと力を込める。すると、長いため息をついた後にやっと腕の力が抜けた。

「心配した」

「だから、ごめんって」

「いーや、海月は分かってない。昔から変わってないよ、ガキの頃からずっとお人好しだ。特大のバカがつくほどのお人好しめ!」

「はぁ?」

「……ったく……もう……ホントにさ、」

「…………」

強引に頭をガシガシと掻いた手で、黒い布を取る。シュルリと音を立てて外れ、青い瞳が見えてくる。六眼と呼ばれる五条悟を最強にしている瞳が、隠し事などさせないと言わんばかりに真っ直ぐこちらを見る。

「本当に、身体は何ともないんだな」

「なんともないよ」

「狗巻葵希とは、何があった?」

「……なにも」

「海月」

「……ただ、間違えて名前を呼ばれただけだ。倒れたのは……至近距離で呪言の乗った自身とは異なる名前を聞いたからだと思う。疑うなら彼女に確認してもらっても構わない」

「……分かった」

「ただし、聞き方と態度には気をつけろよ。さっきのは……流石にあり得ない」

「……、分かってる」

「呪言師として人生の殆どを生きてきた彼女が、説明したり話すことが苦手なのは悟も了承済みの筈だ。不用意に呪わないために普段は話さないし、呪言の効きを良くするために言葉に繋がる筆談や手話は出来ない。ジェスチャーも必要最低限で行っている。まだ高専に入りたての若い芽を、潰すような真似だけはするなよ」

分かってるともう一度答えると、青い瞳がキラリと光る。じっと海月を見つめた。

「今日初めて会った割に、葵希のことよく知ってるね」

「……これでも校医なんで、生徒のプロフィールくらいは頭に入ってるさ。それに、2年に狗巻棘がいるだろ。今度妹が来るんだって、耳にタコができるほど聞かされたよ」

「おにぎり語で?」

「おにぎり語で」

クスリと、五条が笑う。つられるように海月も声に出して笑った。心地良い笑い声が医務室に響く。

「あ、そうだ。今夜暇?硝子が珍しく夜は帰れるらしくて、皆で飲みに行こうかって話してたんだけど……」

「みんな?」

「いつものメンバーだよ。俺、硝子、伊地知さんに、七海と……」

指折り数えながら名前を呼ぶ海月。笑みを浮かべながら話す海月の顔を見ながら、仕方ないなーと大きく伸びをする。

「じゃあ僕も行くよ。そのメンバー、僕が来ないと盛り上がらないでしょ!」

「はいはい、悟も参加……っと」

「あれれ?なんか扱い雑じゃない」

「よし、そうと決まればさっさと仕事終わらせるか!」

「ねぇ、ちょっと海月!」

後ろからついてくる五条を強引に医務室から追い出し、嘆息する海月。視線を部屋の奥へ向ける。そこにはカーテンで仕切られた空間の中で眠る葵希がいる。

「………………」

(これでいい)

椅子に腰掛け、そっと目を閉じる。今でも鮮明に覚えている記憶℃Yまれたときから死んだ瞬間まで、忘れることなく覚えている。まるで忘れることは許さないと言われているようだ。

「―――――」

普段話さない彼女と同じように、音を乗せずに名前を呼ぶ。愛しさ以上の苦しさがが、息と共にふっと飛び出て消えた。










「おや、今日は皆お揃いで飲み会かい?呑気なものだね」

くくっと喉で笑い声を上げて、夜空に近いビルの屋上に1人佇む男。手にした携帯にはどこかの繁華街の防犯カメラ映像が流れている。

「…………おやおや」

カメラの前を茶色い短髪の青年が横切った瞬間、高鳴る心臓。ドキドキと自分の意思とは反して心拍を早める。身体に宿る記憶から、五条悟と行動をともにする男の身元、夏油傑との関係を思い出す。

「ふふっ、そうだったね」

離反すると決めた時より、差し出した手を弾かれたときの方が何倍も辛かった。彼なら分かってくれる、ついてきてくれると思ったのに、私ではなく悟≠選んだ。そういう意味ではないと分かっていても悲しかった。

「惨めだねぇ、夏油傑」

でも、キミの身体は僕が有効活用してあげよう。だから、安心してあの世でお眠り。

「夏油、いつまでそうしているつもりだ。早く弟達の敵をとらせろ!」

「腸相、駄目じゃないか。今日は休暇だと言ったはずだよ。のんびり過ごそう」

「っ、夏油!」

「まあまあ、焦らないで。開戦の時まで……あと少しなんだから」

「……嘘ではないな」

「タイミングは重要だ。焦っては事を仕損じるってね」



携帯を見つめながら夏油傑≠ヘ、口元に大きく弧を描いた。





***

思っていたより時間がかかった上に、短めです……。
ほんのり夏油→海月。
駄文失礼しました。

私≠ニ私

「棘、今日から1年にお前の妹が転入してくるんだろう?」

「しゃけしゃけ!」

「あー、そういやそうだったな。それでこんなにテンション高いのか」

ここは日本でたったの2校しかない呪術師専門の高等学校。呪術高専だ。古い教室に3つしかない机と椅子を並べて座る男女2人と白と黒のパンダ。禪院真希、狗巻棘、そして突然変異呪骸のパンダだ。

キラリと光る銀のようにも見える白髪に、アメジストのような煌めく瞳を持つ狗巻。呪言を操る狗巻家の人間だ。口元を隠してはいるものの目元や雰囲気で笑顔なのが分かる。普段も温和なのだが、今日はいつにもまして和やかな雰囲気に包まれていた。勿論それを見守るように座る2人も、呆れ顔ではあるが穏やかである。

「しゃけ、すじこ!」

「ほうほう……お昼は一緒に食べる約束をしていると」

「しゃけ」

「いやいや、転入初日だろ?せっかく同級生達と交流を深めるチャンスじゃねーか。邪魔してどうすんだよ」

「おかか!」

「一緒に食べるのは譲らないって?とんだシスコンだな」

呆れたように言えば、プイッと顔を背ける棘。いじけたような態度に笑えば、更に頬を膨らませて怒る。

「ツナツナ」

「悪かったって、お昼ここ来るんだろ?妹来たら私らにも紹介してくれよ」

「お、それいいな。楽しみにしてるぞー」

「しゃけ」

手で丸を作り、大きく頷く。ウキウキとはしゃぐ様子の棘に、お互い顔を見合わせて真希とパンダは苦笑してみせた。

他者と自身を守るために、おにぎりの具以外の言葉を話さない棘。はじめこそ、意思疎通は難しかったが一緒に過ごしていくうちに短い言葉の中にも、沢山の感情や意思が含まれている事に気づく。思いやりの深いいいヤツだ。

(妹……か、)

禪院家に残してきた片割れを思い出し、真希はそっと目を閉じた。





「はーい、じゃあ紹介しまーすっ!今日から転入してきた狗巻葵希(きき)ちゃんでーす。みんな仲良くしてね」

いつものようにテンション高く教室に入ってきた五条悟先生。最強の名のごとくいつも忙しそうにしているが、どうやら今日は任務はないらしい。久しぶりの授業にワクワクしていたが、なんと転入生が来るらしい。先生の言葉と同時に入り口の引き戸に視線が集中するが、なかなか開かない。

隣に座る伏黒と顔を見合わせる。釘崎は呑気に欠伸をして整えられた爪を見ていた。おい、興味ないのがすぐ分かるぞ、それ。

「あれー葵希ちゃーん?」

五条先生が再度声をかければ、ようやくゆっくりと戸が開けられた。俯きながら入ってきたのは室内にも関わらずネックウォーマーをつけた少女。肩甲骨辺りまである白い髪が歩く度に揺れ、太陽に反射するとキラリと光った気がした。五条先生の隣に立つと身長差が歴然とする。まあ、俺も五条先生より小さいけどさ。釘崎よりも小さいのではないだろうか。伏せられた顔からは緊張と不安が見える。

(…………ウサギみたい)

そんな第一印象だった。

「ほらほら、挨拶しちゃって」

背中をバシッと叩きながら言葉を促すと、ようやく少女はゆっくりと顔を上げた。ネックウォーマーをつけているからか、顔の下半分は見えない。それでも、スミレのような柔らかな紫色の瞳と長いまつ毛が特徴的だった。

「…………」

ペコリ、1度深々とお辞儀をすると、再び俯く顔。
五条先生はそれでも満足そうに笑うと、俺の隣に新しく出されていた机を指さして座るように促す。

「今年の1年生は豊作だね!こんなに沢山のいるのも珍しいよ。いやー先生としては嬉しい限りだけど」

手を叩いて大げさに喜ぶ五条先生。
静かに歩いてきた少女は、そっと椅子に手をかけると腰をかけた。

「よろしくな、俺虎杖悠仁って言うんだ」

「…………」

ニカッと笑いながら右手を差し出す。少女……葵希はじっとその手を見ていたが、そろりと日に焼けていない白い手を出すと戸惑いがちに握り返した。細くて、小さな手だった。

「先生、狗巻って言うともしかして……」

「お、恵は良いところに気づくね!そうそう、葵希は2年の狗巻棘の妹だよ」

「「えぇっ!!?」」

釘崎と虎杖の驚いた声が重なって響く。突然の大きな声に驚いたのか、葵希の肩がびくりと震えた。

「棘と同様、狗巻家相伝の高等術式である呪言℃gいだ。故に普段話せないのは理解してやってね。それに葵希は棘と違ってシャイだから」 

注目されてひと回り小さくなったのではないかと思えるほど背中を丸め、顔をほんのり赤らめる葵希。首元のネックウォーマーをギリギリまで上げて顔を隠す。

「さて、自己紹介も済んだことだし……授業を始めますか!君たちにはもっともっと強くなってもらわないとだからね」

そう言って笑う五条先生。
午前中はどうやら座学らしい。




「あーやっと終わったぜ……」

「やっぱり座ってばかりだと身体痛くなるわね」

授業終了を告げる鐘がなり、大きく伸びをする虎杖と釘崎。伏黒と葵希は淡々とノートや教科書を片付けている。

「お疲れー、午後は呪術実習だよ。裏門集合」

黒板を消し、教科書を持ってさっそうと去る先生。散らかる机の上の鉛筆やノートを片付けながら、隣をチラリと見る。葵希はすでに机の上にお弁当が入っているであろう小さなポーチを出していた。

「狗巻……だと、先輩と同じだしな。葵希、って呼んでもいいか?」

「…………」

話しかければ、チラリとこちらを見て小さく頷く。それを肯定ととって、机の上に乗っているポーチを指さした。

「お弁当、良かったら一緒に食べないか」

この後いつものように皆でお昼ご飯の予定だ。釘崎と伏黒の方を見れば、構わないと肩をすくめる。しかし、誘われた葵希は少し困ったように紫色の瞳を揺らした。視線を彷徨わせ、1度俯くとゆるゆると首を横に振る。

「…………」

「ちょっと、あんたね。少しは協調性ってやつを……」

「しゃけ、しゃけ!」

拒否した葵希に対し、思わず抗議の声を上げた釘崎を遮るかのように、ガラッと大きく戸が開いて教室内に声が響いた。狗巻棘だ。

「……!」

その声が聞こえた途端、葵希の表情が大きく変わった。パァッと花咲くように明るい雰囲気になり、ポーチを手に駆け出す。駆け寄る葵希を手を広げて抱きとめた棘。少し心配そうに、顔を覗き込む。

「こんぶ?」

「…………」

葵希は顔を横へ振り、否定を伝える。それを見ると満足そうに頷く棘。そのまま手を引き教室の外へ出ようとする。葵希はそれを制止し、虎杖達の方を見ると両手を前で合わせて謝罪を伝え、頭を下げる。

「しゃけー」

それに合わせて虎杖達に向かって片手を上げる狗巻棘。まるで嵐のように去っていった2人に、ポカンと口を開けた3人だった。




「悟」

「お、学長ー。暇なの?」

「アホか。それより……今日から編入してきた狗巻棘の妹はどうだ?」

中庭でボーッとしていた五条に話しかけてきたのは、以前は担任で今は上司でもある夜蛾正道。

「どうと言われても……まだ初日だからね」

「……確か今は3級術師だったか。狗巻家で呪言持ちの術師としては低い階級だと思ったが……もしかして訳ありか」

「あー……それね、」

夜蛾の指摘に一瞬渋い顔をした後、いつもの笑みを浮かべ、手にしていた紙を手渡す。事細かに分析され、書かれた狗巻葵希のプロフィール。

「呪力も、身体能力も申し分ない。コントロールも良好。やや体格が小さめな所はあるけど、単純な呪力量だけで言えば去年の棘より多いくらいだ。すでに2級相当の実力はあると言っていい」

「なら何故……」

「……戦闘向きではないんですよ」

「…………」

「訓練ではできても、いざ呪霊を前にすると固まってしまう。恐怖に打ち勝てない。それでも、普通は何度か任務をこなすうちに慣れるもんでしょ。けど、彼女にはそれができなかった。ポテンシャルは高いのに勿体ないって思いません?」

「…………」

「けど、人間何がきっかけで変わるか分からない。ここへ来て色々な人間と関わる中で、何かきっかけがあれば……きっと化けることもあるでしょう」

どこか遠くを見つめて話す五条。夜蛾はその様子をチラリと見るとそっと息を吐いた。

「……そうだな」

きっかけ1つで、良くも悪くも人間は変わる。それなら、良い方へ変わって欲しいと願うのは傲慢だろうか。

「…………」

「……さーて、そろそろ午後の授業の始まりだ」

教室に戻りながら手を上げる五条。
何も言わず、その後ろ姿を静かに見送った。




「じゃあ、午後の実習はペアで行ってもらうよ」

裏門に集まった4人に対して指を4本前に出し、次にはそれを2本づつ前に出す五条。

「恵と野薔薇、そして悠仁と葵希」

言われた通りに別れ、近くに集まる。虎杖の隣に葵希が移動するが、人1人分間の空いた空間が少し寂しい。

「現場までは補助監督が連れて行くよ。僕は別の用事があって引率出来ないけど、まあ低級呪霊らしいから大丈夫でしょ。死なずに頑張れ!」

「軽いな、おい」

「まあまあ、じゃあ皆……行ってらっしゃい」

そういうと、片手を上げる五条先生。
隣の葵希に視線を向ければ、ネックウォーマーを握る手が微かに震えていた気がした。

「海、好きなのか?」

「…………!……」

「ずっと窓の外、見てるからさ」

「…………」

虎杖からの問いに、コクンと小さく頷く葵希。現場まで車で移動中、外を見ていた葵希は再び視線を窓の外へ向ける。何処までも続く水平線上に広がる海。今日は幾分穏やかな波に見える。白と青が混じり合い、消えていく。水面は太陽に反射してキラキラと光っていた。静かに見つめる紫の瞳に青が映る。

(海は好き)

初めて海を見に行ったのは、確か5歳くらいの時。
その頃から呪力を自覚し呪言を使えるようになって、変わりに話すことを止めた私を兄が海へ連れ出してくれた。私を喜ばせようと2人だけで電車に乗り、さらに自分のお小遣いからジュースを買ってくれたり一緒にかき氷を食べたりして1日中遊んだ。お金がなく気にする私にお兄ちゃんに任せろ、ってジェスチャーをしながら笑ってくれたけど、本当はゲームを買おうと一生懸命貯めていたお金だったって後から知った。
忘れたくない、大切な思い出だ。

(あの時兄は、私が初めて海へ来たと思ってたけど)

実は、何度も海へ行ったことがあるんだと伝えたら、驚くだろうか。それとも笑って受け入れてくれるだろうか。言うつもりもないのに想像して苦笑する。

「…………、」

私には狗巻葵希≠ニしての記憶とは別に、かつて夏希≠ニいう普通の女の子として生きてきた記憶がある。

自覚したのは、呪言を使えるようになったのと同時だった。突然頭の中に知らないはずの記憶と感情が溢れ出し、狗巻葵希である前に夏希として並盛町という所で生きてきたことを自覚した。しかし、ここには並盛町という場所は存在しない。以前の人生とは異なる世界なのだと後に知った。

夏希として過ごした日々は、とても平和で温かかった。戦闘からは縁遠く、仲の良い家族に囲まれ、信頼のおける友人と他愛もない話をして過ごす日常。そして……愛した大好きな人がいた。その人とはよく海へ行った。波打ち際を手を繋いで歩き、夕日に染まる海を隣に座って見つめた。キラキラと眩しいくらいの輝きを放つ夕日と、同じ色の瞳を持つ貴方と過ごした時間は、決して長くはなかったけれど、それでも幸せだったのを覚えている。

穏やかな日々がどうして終わりを告げたのか、それだけははっきりと思い出せない。夏希としての記憶は寒い冬の日に、別れを告げる大好きな人の声で終わる。私は……なんて答えたのだろうか。その後どう生きて死んだのだろう。気にはなるがそれを確かめる術はない。前世の記憶があるなんて他に聞いたことがないし、1番信頼のおける兄にすらこの事はずっと秘密にしてきた。最も、今は呪言師であるが故に普段は話せず、筆談もできない状況でこんな複雑な事を伝えることは出来ないけど。

それなら気にしなければいいのに、夏希として生きてきた記憶を思い出してからは、私は夏希≠ネのか葵希≠ネのか分からなくなった。どう答えて行動するのが私≠ネのだろう。

思い悩み、ずっと兄の後ろで縮こまって生きてきた。

「…………」

そんな自分を変えたくて呪術高専へ来たけど、どうすれば変われるのか。答えはまだ見えてこない。

「……、……」

「そろそろ着きますよ」

伊地知さんの声が静かな車内に響く。
葵希は、視線を窓から反らした。






「よし、これでおしまいだな!」

葵希が呪霊を呪言で止めている間に、虎杖で攻撃する。それを繰り返すとあっという間に呪霊を倒した。伊地知さんに帳をおろしてもらってから時間にして20分も経ってないだろう。

「…………」

「葵希?」

(おかしい……)

目の前で倒れている呪霊はピクリとも動かない。それでも何か違和感で身体がピリピリとする。早く気づけと、本能の部分で何かが警鐘を告げる。

呪霊の呪力、形、行動パターンを記憶から思い出す。
虫型、糸、段々鈍くなる動き、最後の何か上を見上げるような視線……。

(……っ、まさか)

「どうしたんだよ、早く帳の外へ……」

「……にげ、」

ろ、と言い終えるよりも先に虎杖の身体が後ろへ吹っ飛んだ。続いて自身の身体も宙へ浮く。虎杖と同じように後方へ吹き飛ぶ身体を空中でいなし、そのまま受け身をとって着地する。

「……っ、」

着地と同時に素早く前を見れば、先程倒したと思っていた呪霊が姿を変えて羽ばたいていた。その姿はまるで羽化した蝶にも獰猛な鳥のようにも見える。

(……っやっぱり、倒れたんじゃない。羽化するタイミングを見計らってたんだ)

背中にヒヤリと冷たい何かが伝って落ちた。不自然に手が震える。しかも、最悪なことに羽化したことで呪霊のレベルが上がっている。先程まではただの低級呪霊だったが、成長し今は恐らく2級レベル……いや、もしかするとそれ以上か。

「……っ、葵希!」

後ろから虎杖が走ってきたことを確認するが、身体が動かない。呪霊の闇のように深く暗い瞳から目が離せない。震えが手から全身へとうつる。そんな葵希をニヤリと笑って見た呪霊。ホバリングすると一気に下降してくる。

「……、ぁ……」

「葵希ッ!!」

庇うように、前に出る虎杖。呪霊の研ぎ澄まされた爪が振り下ろされるのをスローモーションのように見えた。

(っ動け……、っ動いて!!)



「……ッぶっ飛べ!」



呪言は言霊を増幅して、相手に行動を強制させる狗巻家相伝の術式だ。非常に強力な術式だが、なんでもかんでも自由に使える訳では無い。相手が格上だったり使う言葉によっては術者の声帯や舌に負担をかけ、最悪術師本人に返ってくる。だから、気をつけないといけないと兄から何度も何度も絵のフリップで説明された。

「ッ、ごほっ」

「葵希!」

喉の奥から溢れ出た血が膝をついた地面に流れ落ち、血溜まりを作る。さらに呼吸をするだけで喉に強烈な痛みが走り、再度吐血。真っ赤な血が更に地面を汚した。冷汗がポタポタと意識とは無関係に額から流れ落ちる。

「……ッ……、」

「大丈夫かッ!?」

駆け寄る虎杖を手を前に出して制し、まだ力の入らない身体を振り絞って立ち上がる。強引に口元に付いた血を服の袖で拭うと、ポケットへ手をいれる。

(確かここに……っ)

心配性の兄が持っていけとお昼にくれたのど薬*{来は、患部に吹きかけるタイプのものだが根本のキャップを捻ると蓋を取りそのまま飲み干した。メンソールの効いた薬液がすっと喉を通り抜ける。焼け爛れたような痛みが僅かだが和らぐ。体内を流れる残りの呪力全てを集め、言葉と共に出るように操作する。

(お願い……っ)

口を大きく開く。

「……っ、落ちろ!」

声が響く。
本来反射するものがない屋外は、屋内に比べて音が小さくなりやすい。それでも、必死に振り絞った声は呪力と混ざり合い、呪われた言葉として飛んでいった。

空を滑空していた呪霊が、一瞬にして下へ勢いよく落ちて潰れる。動かなくなったのを確認したかったが、それは出来なかった。全身の力が抜けてその場に倒れ込む。再び口角から血が流れ出たのを感じたが、拭う力すらなかった。

「…………」

(やっぱり……私に呪術師なんて、無理なのかな)

涙が、一筋頬を伝って流れ落ちた。

痛いのは嫌だし、血や怪我もできれば見たくない。呪霊だって見るだけで怖い。だって、あんなものはいなかった≠フが普通だったから。どうしたって足がすくんでしまう。それでも、尊敬する兄のように呪術師として人を助ける仕事につきたい。それが呪言という術式を得た私の役割りで……。

「…………、」

私≠チてなに?
何が本当の私なの……?

どうして、こんな記憶があるんだろう。
大好きな人達に囲まれて、幸せに過ごす夏希≠ニしての私。いっそ全部忘れて、ただの狗巻葵希≠ニして生きられたらいいのに。そうすれば兄に心配をかけることも、仲間に迷惑をかけることもなくなる。呪霊が怖いなんて思わず、戦うことに戸惑いを感じることもなくなる。

それに……


夏希ちゃん


(……っ貴方は、ここにいない)

どんなに思い出して想いを募らせても、
貴方はいない。

「…………っ、……」

言葉には出来ない名前。
伝えられない過去と想い。

「葵希っ!」

「…………」

虎杖の大きな声が段々と近くに聞こえてくるのに、視界が霞む。涙で揺れる景色が、次の瞬間暗転した。






「……て、……し、」

「いえ……ん、」

(な……んだろ……)

ふわふわとした意識の中、誰かの声が近くで聞こえた。まだ瞼重く、開けられない。身体に力も入らず、酷使した喉は燃えるように熱かった。

「……家入さん、お願いします。狗巻葵希、3級術師です。本日の呪術実習にて負傷。特に呪言を無理に使ったことによる喉の傷が深いかと」

「……分かりました、後はお任せ下さい」

「すみません、私は今回の呪霊の突然変異について五条さんへ報告しなくてはいけないので、先に失礼します」

「はい」

伊地知さんの声が聞こえる。
もう一人は……男の人だろうか。

「……よく頑張ったね、もう大丈夫だよ」

頭に優しく触れる手の温もりを感じる。
兄よりも大きな手が、まるで幼子をあやすようにそっと撫でる。それだけなのに、何故か泣きそうになった。

「…………、……」

ボウッ

喉元へ何か温かいものが触れた。
それと同時に、痛みがすっと……まるで雪が溶けるかのように消えていく。陽だまりの中にいるみたいな安心感に包まれる。

そっと瞼を開ける。
視界いっぱいに見えたのは、柚子色。炎のように煌めく反転術式の膜。一気に記憶がフラッシュバックした。

「っ、」

(そんな、はず……ない)


夏希ちゃん


(っ、ありえない)

心臓の鼓動が速くなる。反転術式を操る目の前の男性は短い茶色い髪に、同じ茶色い瞳。恋い焦がれた金の瞳ではない。顔立ちも、以前の彼とは全く違う。

(……けど、)

煩いくらい高鳴る心臓が、ぎゅっと苦しくなるほどの胸の痛みが彼≠ネのだと告げている。




夏希ちゃん





「…………っ、かいと……せんぱい…?」





「…………え、」

「……っ!」

しまったと自覚して口を押えたが、遅かった。困惑したような表情を浮かべた男性が、次の瞬間には崩れるようにその場に倒れる。

「……っ……、」

「!」

「海月(みつき)さん?今大きな音が……っ、海月さん!」

「っ、」

ガラリと空いた戸。入ってきたのは見知らぬ補助監督。倒れたままの男性に駆け寄ると、何度も声を呼ぶ。私は呆然とただその様子を見つめることしかできない。

「……君は……狗巻葵希だったね、彼に何があったか説明できるか?」

「……、……」

説明、できるはずもない。
けど、この状況を作ってしまったのは間違いなく私の呪言だ。何の言葉が呪いになるか分からない。だから、話してはいけなかったのに。10年生以上ずっと耐えてきたはずなのに。

「まさか、君が海月さんを攻撃した……なんてことはないよね」

震えながら黙る私の様子に低い声を出す補助監督。無言を肯定ととった彼は、深いため息とともに胸元から術師拘束用の呪札を取り出す。

「……君を拘束する。処分は追って伝えられるだろう」

「…………」





私は彼を、呪ってしまった。







***


呪術廻戦にハマりすぎてついにやってしまった……。初めて呪術廻戦ものを書いたので各キャラの言動おかしかったらすみません……。でも、やっと書けたので満足。

夏希ちゃんと海人くんの死んだ後の転生先が、呪術廻戦だったら……という設定です。最後書ききれていませんが海人くんは家入硝子さんの双子の兄でさしす組と同級生。家入さん同様反転術式による他者への治癒が使えます。夏油サイドでもいいかなーと思いましたが、ダークサイドのように救われる未来が見えなかったので、高専サイドにしてもらいました。

駄文失礼しました。











分岐路



「おーい、海人くんこっち、こっち」



来店を告げるベルの音がカランと音を立てた。視線を向ければ、スラリと伸びた細身の体格に整った顔の青年が辺りを見渡している。手を上げて声をかければ、早足でこちらへ向かう。

「遅くなってすみません」

「いーや、まだ約束の時間まで15分もある。俺が早く着きすぎただけだから気にしないで」

二カッと笑って見せれば、ホッとしたように席につく。向かい合わせになるような席。真新しい木の椅子がキィと軽い音を立てた。

「海人くん、夕飯は?」

「軽く食べてきました。結希さんは?」

「俺も。じゃあ……さっそく飲もっかな。海人くんは、何系が好きとかある?ここ結構色々な種類のお酒あるんだ」

メニューを手渡しながら、ドリンクのページをめくる。ソフトドリンクから始まり、カクテル、ワイン、日本酒、ビールもあってどれも種類が多い。しかもカクテルは、決められたもの以外にも自分で選んでオリジナルカクテルを注文することができるらしい。ペラペラとメニューの写真を見ていた海人だが、ふと結希の方を見ると口を開いた。

「結希さんのオススメありますか?」

「うーん、そうだな……この樽ビールも最高なんだけど……今日は寒いし、日本酒なんかどうかな?良ければこの飲み比べセットなんか結構美味しいよ」

「じゃあ、それにします」

「うん。俺は熱燗でいこうかな。おーい、すみません!」

手を上げて、カウンターにいる店員に向かって声をかけた。「はーい」という明るい声と同時に赤いエプロンをつけた若そうな男性店員がこちらへ向かう。

「結希、久しぶり」

「おう。元気してた?店、なかなか流行ってるみたいじゃん」

「おかげさまでな。今日は……後輩くんと一緒?」

結希と仲良さそうに話す店員は、チラリと海人の方を見ると爽やかに頭を下げて会釈してから話しかける。結希は、海人の頭に手を乗せるとニヤリと笑って答えた。

「いーや、俺の可愛い弟」

「弟……?ああ、もしかして妹ちゃんの旦那さん?」

「はじめまして」

「ああ、はじめまして。聞いてるかもしれないけど俺は、こいつと中学から一緒で野球部で汗流した仲でさ。結希、ちゃんとお兄ちゃんしてる?こいつ極度のシスコンだからさ、イジメられたりしてない?」

「おいおい、」

「そんなことないですよ」

あははと大きな声で笑った店員は、呆れた表情を浮かべる結希から注文を取ると変わりに小皿を2つテーブルに置いた。真っ白なお皿にはポテトサラダがちょこんと乗っていた。

「これ、サービスな」

「お、サンキュー」

「ありがとうございます」

「はは、どういたしまして。じゃ、ごゆっくり」

手を降って空になったお盆と注文用紙を手にカウンターへ戻る店員。見送った結希は、いただきますと手を合わせた。パチンと、割り箸を割る音が響き小皿のポテトサラダを一口口へ入れる。芋の甘味と、マヨネーズが混ざり合って丁度いい。きゅうりのアクセントも食感が変わって最高だ。実家とは違う中身だが、これはこれでたまに食べたくなる味だ。

「海人くんも良かったらどうぞ、ここのポテサラ美味しいよ」

「……いただきます」

しっかりと丁寧に手を合わせ、一口口に運ぶ海人の様子を微笑ましく見守る。目を丸くする姿は、どこか妹を連想させる。ナツも美味しいものを食べると驚いたように目を丸くしていたものだ。

「美味しいです」

「だろ?俺さ、普段あまり外食はしないんだけど……ここのは食べれるんだよね。作り手が知った仲っていうのもあるけど……料理が丁寧に気持ちを込めて作られててさ。食材とか、調味料にもこだわってて。お酒を楽しんで飲めるように工夫されたものが多いんだ。普通の居酒屋だとお通し一品が多いと思うんだけど、ここはお酒ごとに小鉢で料理がついてくるんだよ。単品で食べ物だけとかお酒だけは頼めないから、来る人を選ぶんだけど……でも、それだけ組み合わせにこだわってるんだよな。作りての気持ちが伝わってくる。だから美味しいんだ」

「結希さんらしいですね」

「そう?」

穏やかに微笑を浮かべる海人。真上に設置された照明に照らされて金の瞳がキラリと光る。朝日のような煌めきに男の俺ですら見惚れてしまう。

「おまたせしましたー」

「サンキュー」

運ばれてきたお酒と、小鉢に入った一品。軽く手を振り、友人の店員を見送るとお猪口に熱くなった日本酒を少し注ぎ、目の前に上げる。

「乾杯」

「……乾杯」

カチンの食器通しが当たる軽い音が響いた。




「そういえばさ、ナツはどう?予定日まであと2ヶ月くらいだっけ」

「夏希も子どもも順調だそうです。ただ……後期のつわりがあるみたいで、あまり食べれてません」

「あー……そういえば、職場の先輩もそんなこと言ってたな。もう少しして子どもが下がってくると楽になることもあるらしいけど」

「夏希は……つわりが重い方みたいで、何度も吐く姿を見るのは正直辛いです。俺は……何もしてあげられないから」

力なく俯く海人。どこか暗い影を感じるが、同時にその姿に安堵も感じた。コクリとお酒を飲めば、温かいものが口腔から咽頭、胃へと流れていくのを感じる。

「大切にしてくれてるんだね」

「…………そうしたい、とは思っています。でも、いつも側にいてあげられないから。夏希には申し訳ない思いでいっぱいです」

「そっか」

海人の手に握られたままのお酒が、ぎゅっと握られた振動で少し揺れて波紋を作って消えた。どことなく元気がなさそうに見えるのはあれが原因だろうか。

「来週から海外に行くんだって?」

「……短期の滞在予定にはなります。子どもが産まれたら少しでも長く側にいたいので、やれるうちに仕事を整理したくて。でも、そのためにまた夏希を1人にしてしまう。もっとわがまま言わせてあげたいのに、結局夏希の優しさに甘えて我慢ばかりさせて、本当に……情けないです」

「…………実は今日呑みに誘ったのはさ、ナツからお願いされたからなのもあるんだ」

「……え、……」

ポカンと口を開ける海人に苦笑すると、空になったお猪口に少しぬるくなったお酒を注いだ。トクトクと縁ギリギリまで注がれた日本酒を一気に飲む。カッと喉が熱くなる感覚が気持ちいい。セットで来た小鉢には旬の鱈の白子の上に細ネギがパラパラと彩りよく飾られ、ポン酢であっさりとあえてあった。一口取って口に入れれば、白子のねっとりとした旨味とポン酢が絡まって美味しい。うーん、これは日本酒が進む味だ。

「海人くん、思い悩んでいるみたいだから気分転換させて欲しいって。本当は自分が外へ連れ出したいけど、体調が思うようにいかなくて余計気をつかわせちゃうからってさ。俺も海人くんとゆっくりサシで呑んだことなかったから、楽しみにしてたんだ」

「……そう、だったんですね」

そういうと黙ってしまった海人。じっとその様子を見つめ、ポツリと呟く。

「知ってると思うけど、ナツって良くも悪くも善い子でさ。基本的に聞き分け良くて、我儘言わないで……言わなくても相手の気持ちを察して動いてるでしょ」

「……はい」

「でもさ、それって俺のせいなんだよね」

「……結希さんの?」

「そう。少し長くなる話なんだけど……付き合ってくれる?」

笑って問えば、真面目な顔で頷く義弟。
さあ、どこから話そうか。

「そうだな……もう25年も前になるか。俺さ子どもの頃ちょっと珍しい病気になっちゃって、生死を彷徨ったことがあるんだ。確か5歳頃だったかな、最初はただの風邪みたいだった。でもなかなか良くならなくて、大きい病院で診てもらったらその日のうちに即入院」

その当時の記憶は曖昧な部分もあるけど、採血やら検査で嫌な思いをしたことだけは良く覚えている。

「結果、すぐ治療しなきゃならない病気で次の週には県外の大きなこども病院へ転院したよ。それからはもう……地獄の日々だった。それでもずっと母親が付き添ってくれたし、退院だけを目標に耐えた。けどさ、どうしたって良くならなくて。最後の手段が移植だった。けど、日本では移植は遅れてて、ましてや自分の型とマッチする人を待ち続けられるほど残された時間は長くなかった。うちはさ、普通の一般家庭で金持ちでもない。海外渡航はどうしたってできない。子どもながらに死を覚悟したのもその頃だったかな。あー、もう駄目なんだって」

しっかりとした死生観をもっていたわけではない。それでも同室の子が個室に移り、戻ってこないことは珍しくはなく、看護師さん達は退院したんだっていうけど、仲良くなった子だって手紙の1つもメール1通だって送ってくれなかった。これが死なんだって誰に言われるわけでもなく、そう思った。

「でもさ、母さんは諦めなかった。必死に助かる方法を探して……たどり着いたのが救世主兄弟≠セった」

「救世主……兄弟……」

「移植するためにはHLA型が一致することが条件だけど、その確率は他人では数百から数万分の一。親子間では1/30。兄弟姉妹間ですら1/4でしかない。親とは一致しなかったし、俺は一人っ子だったから弟妹はいなかった。ドナーも少ない中、更にこれだけ確率が悪いと普通は奇跡を祈るしかない。だから、救世主兄弟なんてのが考えられたんじゃないかな。採卵して作った受精卵の中から確実にHLA型が一致した受精卵だけを選択≠オて、胎内へ戻すんだよ」

今は倫理の問題で日本で行うことは出来ないが、当時は田舎にどの協会にも属していないような変わった町医者がいて、こっそりと行ってくれたらしい。件数は少なかったが、噂のような話を元に母は探し出した。今思えばあの頃の母は少し壊れかけていたのかもしれない。自分よりうんと小さい子どもが死に瀕していて、慣れない付き添い入院も長期になり、大好きだった仕事も辞めた。俺の前では常に笑顔で泣き言1つ言わなかったが、相当疲労も溜まっていたことだろう。

命を選別≠オて母の胎内ですくすくと大きくなったのが、夏希だ。

「更にナツは、今後に影響が出ないであろうギリギリの週数で早めに出された。俺に残された時間が少なかったせいで。お陰で俺は臍帯血の移植を受けることができて、命を救われたよ」

「…………」

「移植は上手くいったけど、その後も再発を防ぐ治療は続いて、気づけば2年が経っていた。その間も一時帰宅はしてたけど、子どもながらに罪悪感を感じてナツの顔はまともに見れなかった。だってさ、ナツが生まれてからも母親は兄の付き添いで県外。父親は治療費と生活費稼ぐ為に昼夜問わず働いていて……ナツは母方の祖父母に預けられて育った。とても可愛がられていたけど、母親の愛が必要な時期を俺が引き裂いた。完全に退院できるようになったのは9歳で、ナツは2歳だった。やっと帰れる嬉しさもあったけど、これから4人家族として上手くやっていけるのか……不安が大きかった。そして、久しぶりに自宅へ帰ってきて玄関を開けた」

あの日のことは、今も鮮明に覚えている。
母に手を引かれて、震える手で玄関のドアを開けたんだ。ドアの金属部分のヒヤリとした感触、じわりと手に浮かぶ汗。

「帰宅した俺を、ナツは待っていた祖父母の足の隙間からひょこっと顔を出してこちらを見ていた。すぐパチっと目が合った。泣かれる、そう瞬間的に思ったよ。でもさ……ナツは迷わずこっちに向かって小さな手を伸ばしたんだ。「にーに、おかえりー」って舌足らずな口で一生懸命に話して、口元には笑みを浮かべながら。本当に天使かなにかに見えたよ。同時に俺はこの子の笑顔を守りたいと思った。命を救われたから、寂しい思いをさせたからっていう責任感や罪悪感からじゃない。純粋にそう思ったんだ」

それからの日々は本当に楽しかった。7つも年下のため妹と同じ時期に学校通うことは出来なかったが、家に帰ればナツがいた。保育園から泣きながら帰ってきたこと、真っ赤なランドセルを背に桜の並木道を家族で歩いた入学式。一緒にキャッチボールをした河川敷。中学に入ってからは恋をして、女の子から女性になった。就職して大人の世界へ飛び込み、初めて一緒にお酒を飲んだ。結婚して苗字が変わって、もう少しでかつて小さかった妹は母になる。手が離れていくのは寂しいが、こうして幸せそうに笑うナツを見れるだけで、俺は本当に……幸せなんだ。

「ナツは俺が病気だったことは知ってるけど、当時のことはまだ2歳だったし覚えてない。でも、今も物わかりがいいのは……きっと記憶に残らないくらい小さい頃に、沢山我慢させていたからだろうな。愛されて産まれてきたのは間違いないんだ。産まれが少し特殊だっただけで、2歳以降はごく普通の家庭で家族だったから。でも、今も無意識にそうしてしまうのは俺の責任だから、それだけがずっと心残りだった。だからさ、海人くんには感謝してるんだよ」

「……俺は……十分に夏希を甘えさせてあげられてない。我慢も沢山させてしまっています」

「いーや、ナツは海人くんに会ってから変わった。ナツの中で絶対に譲れないものが出来たんだ。海人くんのことになると一生懸命で、たまに暴走してるんじゃないかって思うくらい行動的になる。それにさ、海人くんといるときのナツの顔……あんな風にも笑うんだって初めて見たときは驚いたなー。幸せそうで、幸福感に満ちていて。これが恋≠ナ愛≠ネんだって妹から教わったよ」

「…………」

金の瞳が揺れる。少し伏せられた瞳。何かを堪えるような表情を浮かべる海人の頭をそっと撫でた。

「俺は、ナツの相手が海人くんで良かったと思ってる。今のままでいいんだ。そのままの海人くんでいい。完璧な人間なんていない、ナツが愛した海人くんのままでいいんだ。どうかナツを……夏希をこれからもよろしく頼むよ」

「…………はい、」

上げられた顔。自分より幼いはずなのに、とても大人に見えた。詳しくは知らないが少し前まで仕事が大変で大怪我したと聞く。俺も両親とともに急に海外へ行けと言われて戸惑ったのは久しい。必要なものは恭弥が用意してくれたが、理由くらい教えて欲しかった。日本へ帰ってきた今もあれは何だったのか……恭弥も海人くんも教えてはくれない。抱え込みすぎてハラハラする時もあるが、誰よりも真っ直ぐで思いやりのある青年だ。どうか、末永く妹と幸せになって欲しいと願わずにはいられない。

「さて、難しい話はここまでにして呑もう、呑もう!」

「はい」

パンと手を合わせて、空気を切り替える。
空いたお猪口に並々と冷めきったお酒を注いだ。

「んー、上手い!」

お互いに他愛ない話で盛り上がり、酒とつまみを楽しむ。夜はまだまだ始まったばかりだ。





「……あの、その後結希さんの体調は?」

「んー?小学6年生頃には完全に完治して、今は薬1つ飲んでないよ。元気、元気」

良かった、と安堵の微笑みを浮かべた海人の頭を撫でた。されるがままだが、困惑顔の海人。

「結希さん?」

「いやー、可愛いなと思ってさ。ハハッ、可愛い妹と弟がいて俺は幸せ者だなー」

へニャリと底抜けに明るい顔で笑うと、結希の携帯が振動する。何度も鳴る携帯を緩慢な動作で取ると、通話ボタンを押した。








「はーい、もしもし。どなた?」

【………結希、酔ってるね】

「お、恭弥じゃん。どうしたの?」

【人を呼び出しておいてそれはないでしょ。咬み殺すよ】

「ウソウソ、冗談だって」

【はぁ……まあいいや、僕も暇じゃないんだ。早く出ておいで】

「りょうかーい」

ピッと軽快な音を立てて通話を切る。お勘定をお願いし、ポテサラを2つテイクアウトする。財布を出す海人の手を押さえ、カッコつけながらクルリとカードを出した。

「ここはお兄ちゃんに任せて」

「いや、でも……」

「いいからいいから。今度は海人くんオススメのお店で呑もうよ。その時はお願いするね」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

コートを着て店の外へ出ると、冷気で一気に身体が冷えてくる。思わず手を擦ると同時に目の前に黒の乗用車が止まる。運転席の黒髪の青年を見つけたのか隣から驚いたな声が響く。

「え、恭弥!?」

「お迎え頼んじゃった。きょーや、サンキューな」

「はいはい。海人、早くこの酔っぱらい乗せてくれる」

「え、あ……うん」

後部座席に乗り、ゆっくりと発進する車。駅前の道を抜け、住宅街へ向かって走る。15分も走れば海人と夏希の暮らすマンションのロータリーに着いた。

「海人くん、これもしナツ食べれそうなら一緒に食べてくれる?」

「ありがとうございます」

テイクアウトしたポテトサラダを1つ海人へ手渡す。大事そうに抱える姿にヘラリと笑った。

「海人くん、今日はありがとう。楽しかったよ」

「俺も……ありがとうございます。恭弥も送ってくれてありがとな」

「貸し一つだよ」

「アハハッ、じゃあ、海人くんまたね」

「はい、おやすみなさい」

「おやすみー」

手を振ると、車が再び動き出した。
今日はこのまま恭弥の家にお泊りする予定だ。ポテサラつまみながら第二回戦といきたい。

「なー恭弥、家にビールある?」

「……呆れた、まだ呑むつもり?」

「だってさ、海人くん可愛いし、酒も進むよな」

「ふーん」

「それにさ、あそこのポテサラ恭弥も美味しいって言ってただろ?テイクアウトしてきたから、一緒に食べようよ」

「……仕方ないね」

「やった!」

笑みを浮かべ、幸福感に包まれたまま窓の外を見た。流れるように通り過ぎる町並み。暗闇に光る店や街灯の明かりがキラキラと光って見えた。

(そういえば、恭弥と出会ったのも……あの頃だったっけ)

雲雀恭弥と出会ったのは完治し、通院も必要なくなった小学6年生の頃。もうスポーツも運動もしてよくて、今まで我慢した分を取り戻すかのように、身体を動かしたくてうずうずしていた。

けど、入退院繰り返してたのを知ってる同級生達は遠慮して遊びに誘ってくれない。まあ、そうだよなって無理矢理自分を納得させて周囲が安心≠キる読書や生徒会活動なんかをしていた。もっと俺は出来るのにってモヤモヤしながらも、周りに合わせて行動して……それを窮屈だと思っても、我慢するしかなかった。

そんな時だった。恭弥が突然生徒会室に乗り込んできて、喧嘩になって。初めて喧嘩したよ。当然負けて、ボロボロでさ。5つも下のやつにだぜ?でも、やけになってだしたパンチが一発だけ当たって。最後にやるね、って笑ったんだ。

「今思えば、あの時俺は俺≠ノなれたんだよな」

「……なんの話」

「んー、内緒」

「ハァ……」

呆れたようにため息をつく恭弥。後部座席から見えるサラサラとした黒髪。海人くんとは違う髪質。そういえば、少し長くなっただろうか。

(……そう、恭弥に言うつもりはない)

5つも下のやつに憧れたっていうと可笑しいって言われるかもしれない。でも、あの黒曜石のように煌めく瞳と、サラリと風になびく烏羽色の髪。群れるのは嫌いと言いつつ統率は上手いし、胸に秘めた熱い想いや誇りは誰にも負けない。どこまでも自由に生きる姿に、胸の奥がギュッと熱くなった。堂々とした後ろ姿に、これからの俺の生き方を見つけた気がした。

それからは俺も好きに生きることにした。体育の授業も我慢せず出て、スポーツクラブに入り、やりたいことをやった。始めは周囲も驚いていたけど、次第に打ち解けていった。恭弥とは、喧嘩した1軒以来仲良くなって学校で会えば話す仲にまでなった。

でも、小学校を卒業すると接点もなくなって、恭弥に会うことはなくなった。中学では野球三昧で楽しかったし、放課後も友人と遊んだりナツの相手をしたりと忙しくも充実して過ごしていたはずなのに……時折、あの黒髪が脳裏にチラついて、なんとも言えない感情が押し寄せてくるんだ。

俺、どうしたんだろう……

やあ、結希

き、恭弥!?どうしてここに……

どうしてって……見回りだよ。並盛(ここ)は僕の縄張りだ

アハハッ

……咬み殺すよ

ちょ、勘弁してくれよ

並盛にいるとふらっと恭弥に会うことがあった。あいつは並盛が大好きで、自分のものだと思ってたから。祭りや学校周辺。駅や商店街。何処にでも現れた。会えばくだらない話をして、携帯を持つようになってからはたまにメールや電話をした。はたから見れば友人と呼べる関係にはなれたのではないだろうか。

就職先は実家から通える範囲で決めた。治療の為にかかった費用を少しでも返したかったけど両親は受け取らないって分かってるから、家賃として少しずつ家にいれている。勿論家族の側は居心地良かったし、ナツの成長ももう少し側で見ていたかった。

でも、1番の理由は……。

「なあ、恭弥」

「……なに」

「いーや、何でもない」

「…………そう、」

今は呼んで応えてくれるこの距離が心地良い。
そう、今は。

「恭弥、いつもありがとな」

「なに気持ち悪いこと言ってるの。今度は何を企む気?」

「企むって酷いな……」

「日々の行いを振り返るんだね」

「ハハッ」




大好きな人達に囲まれて、自分らしく過ごせる穏やかな日々。それをくれたのは大切な妹と家族。そしてかけがえのない友人。だから、幸せになって欲しい。

沢山の幸福が訪れるように、そっと夜空の星に祈った。






***

これも前から温めてたお話で、夏希ちゃんがどうして聞き分け良すぎる所があるのか、お兄ちゃんが夏希ちゃんに対して甘々なのはどうしてか、まだ実家で過ごすのは何故か……色々妄想した中でのお話です。
夏希ちゃん家はあくまで普通のご家庭なのは、大前提としてそれでも記憶に残らないくらい小さい頃には色々あって、今の2人がいる…のかな。最後ほんのり結希→雲雀でしたが、想いが届いてもいいし、悲恋でもそれはそれでいいのかなと思います。お兄ちゃんは見守る人かな、と思うので。
今年中にもう1つくらいは書けたらいいな……。
駄目分失礼しました。






























黒猫

今日は海人先輩が久しぶりに日本へ帰って来る日。

お昼頃には空港へ着き、そこからバスで夕方には並盛へ帰宅予定。一緒に夕飯を食べようと昨日の夜電話で約束した。外食でもいいのだが、長いフライトで疲れているであろう先輩に、少しでもゆっくりして欲しくて自宅のアパートへ誘った。昨日の夜慌てて掃除したのは内緒だ。

(ふふ、先輩喜んでくれるかな?)

スーパーへ買い物に向かって、重くなったエコバッグを手に小さく微笑む。実家でも料理の手伝いはしていたが、一人暮らしするようになってからは料理をする頻度もレパートリーも自然と増えた。ネットをみたり、雑誌を見たり……。何を作っても先輩は美味しいと言ってくれるが、少しでも先輩の喜ぶ顔が見たい。そう思って何度も試行錯誤を重ねた料理を作る予定だ。
……それでも先輩の作る料理の方が上手いのは間違いないのだけれど。それが少し悲しいときもあるが、楽しそうに料理を作る先輩の横顔を眺めることができるのは、とても大好きな時間でもある。

「あ、」

アパートへ向かって歩道を歩いていると、不意に左手側にある緑の生垣からぴょこんと黒い影が覗いた。そろりと近づいて見れば、小さな黒猫。

「こんにちは」

まるで出会ったころの夜のようだった。子猫……というには大きいが、成猫というには小さい。真っ黒でツルリと滑らかな毛並みに先輩のような金の瞳。グレーのヒゲがひょこっと動く。

「かわいいね、お名前は?」

返事がないと分かっていながらも、じっと瞳を見つめて問いかける。そっと人差し指を真っ黒な鼻先へ寄せれば、少し動く鼻。されるがままに動かないで待つと、「ニャ、」と小さく鳴いた。そして、そのまま頭をグリグリと手のひらに押しつけてくる。耳の後ろや付け根を撫でれば、ゴロゴロと喉を鳴らして喜んだ。

「人懐っこい子だね。飼い猫……かな?」

首元を見るが、夜がつけているような首輪はない。なら野良猫……?と首を傾げれば、撫でていた耳とは反対の耳に桜カットがあることに気づく。

(あ……地域猫ちゃんか)

不妊治療を済ませた証の印を見つけ、そっと欠けた耳を撫でた。並盛町にも地域猫は複数いる。商店街が近いこの辺りなんかは数も多いと聞く。有志の人で餌をあげたり、可愛がったりと幸せに暮らしているらしい。目の前の黒猫も痩せておらず、目脂や怪我もない。きっと大事にされているのだろう。

「ふふ、夜に会いたくなっちゃった」

中学1年生の時……海人先輩と出会って間もない頃に拾った子猫。縁あって先輩に飼ってもらうことになった黒猫は夜と名付けられた。先輩が海外へ行くようになってからは雲雀さんのお家に預けられ、昨年一人暮らしするようになってからはペット可のアパートを選び私が預かっている。年齢も8歳となりすっかり落ち着いて、窓側の日の当たる場所が夜の特等席となっている。
先輩が生き物と会話出来ることを知ってからは、先輩が帰ってきたときに体調の変化がないか聞いてもらうようにしている。気をつけて見ているつもりではあるが、大切な家族である夜には長生きしてもらいたいし、幸せに過ごして欲しい。

私には猫と会話する力はないが、明日先輩が帰ってくるよと夜に伝えると、嬉しそうに鳴いていた。今朝は道路が見える側の窓辺から動かず、じっと外を見ている。そんな夜のご飯も今日は特別メニューだ。喜んでくれるだろうか。

「ニャ」

「あ、ごめんね」

かまって欲しい時間は終わったらしい。頭を振って、グイッと大きく伸びをした。さよならの挨拶のように長い尻尾がクルンと一回足に触れて離れる。

(そろそろ私も帰って夕飯の支度を始めないと……)

その場から立ち上がり、黒猫の後ろ姿を見送って歩き出そうとした、その時ときだった。


「……っ、だめ!」



それは一瞬のことだったように思う。



生垣から出て歩道を歩いていた黒猫が、何かに気を取られ突然車道に向かって走り出した。金曜日の午後で比較的人通りは少ないが、それでもスーパー近くのこの道は車がよく通る。

考えるよりも先に身体が動いた。

エコバッグを放り投げて、猫の方へ向かって走る。買った野菜が袋から転がり、卵がカシャンと嫌な音を立てたがそんな事を気にする余裕はない。早く、もっと早くと気持ちばかりが焦るのに思うように身体は動いてくれない。それでも必死に手を伸ばしてなんとか間に合ってくれと祈るように、身体を動かす。黒猫が歩道から車道へ身を乗り出し……。

「……っ、」

必死に手を伸ばしたその指先に、黒猫の身体が触れる。そのまま抱き込むように胸の中へ。次の瞬間、倒れ込むように飛び込んだ身体が勢いのままアスファルトの地面へ叩きつけられる。一瞬息が詰まり、少し遅れて下になった右半身の痛みを感じた。

「……っ、大丈夫……?」

それでもすぐに上半身を起こして、胸の中で抱きかかえた黒猫の様子を見る。驚いたように目を丸くして固まってはいたが、見たところどこも怪我はしていないようだ。ほっとした瞬間、車道に大きなトラックが1台通り過ぎた。あと一歩遅かったら……そう思ってゾッとする。間に合って、本当に良かった。

「……ハァ…………よか、」

安堵のため息をついて、その場から立ち上がろうとした……次の瞬間だった。

ドンッ!!

(…………え、……)

突然大きな衝撃が身体に当たったと自覚した時には、身体が勢いよく飛んでいた。先程とは違い強く打ち付けられる身体。縁石に頭をぶつけ、鈍い痛みとともに強い目眩を感じた。動かない身体。視線だけ周囲へ向ければ、横倒しになった自転車とヘルメットを被ったスーツの男性が同じように、地面へ倒れていた。

(……ね、こ………)

胸の中にいたはずの黒猫の姿が見えない。咄嗟に離してしまったのだろうか。かすれゆく意識の中、無事を確認することもできず、そのまま意識を手放した。







「夏希っ!」

ガラリと勢いよく開けられた扉。肩で大きく息をしながら、個室のベッドで眠る女性を視界に入れる。途端に表情が曇り、覚束ない足取りでベッドサイドへ足を進める。

「……っ、」

「海人」

窓側に用意されていた椅子に腰を掛けて座っていた友人から声がかかるが、聞こえていないのか震える手で、ベッドに眠る女性の頬に触れる。頭に包帯が巻かれ、頬にも小さな傷が複数見られた。それでも、触れた頬は温かく、穏やかに呼吸をする身体を確認してやっと大きく息を吐いた。

「海人」

「……きょうや」

もう1度名前を呼ぶと今度は弱々しく返答が聞かれる。眠る女性より顔色が悪いその姿に苦笑する。

「彼女なら心配いらない。頭を強く打ってまだ意識は戻らないけど、CTの結果も問題なかったからね。意識がはっきりすれば明日にでも退院できるだろう」

「……良かった」

「今日の18時頃並盛に到着予定って聞いてたけど」

「のんびりバスの発着時刻なんて待ってられなかったから、タクシー拾ってきた」

「空港からここまで?」

いったいいくらかかったんだか、そう思って呆れた表情を浮かべるが海人のことだ。結希から大丈夫だと連絡はいっているはずだが、自分の目で確認するまでは安心できなかったのだろう。

「結希さんは?」

「今荷物取りに一旦彼女のアパートへ行ってる。夜も今日は僕の方で預かるよ」

「……悪い、助かる」

力なくベッドサイドの椅子へ腰を掛け、じっと夏希の顔を見つめる海人。その表情は未だ暗いままだ。

「何があったか聞いてる?」

「いや、詳しくは……。夏希ちゃんが怪我して入院したけど軽症だからって。でも、結希さん自身……混乱してたみたいだった」

「そう。通行人が一部始終見ていたらしいんだけど、野良猫を助けようと車道に出て自転車とぶつかったらしい。いくら自転車専用レーンとはいえ、スマホの地図アプリを見ながら脇見してた会社員も悪いけど、飛び出した彼女にも非はある。そんなところだね」

「そっか」

視線は夏希へ向けたまま、暗い声で応える。

「……面会時間は一応20時までだけど、僕の方から院長には話を通してある。気がすむまで側にいたらいいよ」

「……ありがとう」

「もし、気が向いたら僕の基地の方までおいで。お茶くらい入れてあげる」

「……ああ」

夏希の方へ視線を向けたまま、力なく答える海人。それを横目で確認すると、そのまま病室のドアをスライドさせた。

(長い夜になるね……)

ふうっと一息つくと、夜を迎えに結希と待ち合わせした場所へ足を向けた。




「…………」

恭弥が病室を出ていってどれくらい経っただろう。携帯から着信を告げる振動が聞こえてきた。1度短く動くと、その後も何度も振動が続く。緩慢な動作で画面をチラリとみれば複数の仕事のメールが届いているようだった。

(一旦、外へ出るか……)

いくら個室とはいえ、怪我人の前で携帯を触る気にはなれない。それに少し外の空気を吸いたかった。穏やかに眠る彼女の頭をそっと撫で、重い足取りで椅子から立ち上がる。

病院の外へ一歩出れば、師走の凛と澄んだ空気が頬を撫でた。来たときは青空だった空も今は茜色に染まっている。上着のボタンを上まで閉めた。もうすぐで年末とはいえ、病院へ出入りする人は途切れることを知らない。どこか遠くからサイレンの音が聞こえる。並盛町で1番大きいこの総合病院へは救急車での搬送も多い。きっと誰かが運ばれて来るのだろう。

「…………」

胸の中に溜まっていた空気を吐き出す。重さなんてあるはずないのに、吐き出すと少し胸が軽くなった。それでも気持ちが晴れることはない。

やはり、今回のようなことがあると思い知る。身近な人が……大切な人が倒れたときすぐ側へ行けない。気づくことすら遅れる可能性があるということを。
今回はたまたま帰国していたが、連絡が届かない奥地へ行くことだってざらにある。いつでも連絡が取れるわけではないし、帰国するにしても何日もかかる。もし、連絡が取れない間に夏希や仲間になにかあったら?大切にしたい人達を救えず、守れないなんて想像だってしたくない。勿論手を打ってはいるが、それだって完璧とは限らない。

それでも……一箇所に留まり続けるという選択を取れない俺は、なんて利己的で自己中心的なんだろうか。

「………、…」

携帯を持つ手が知らず知らずに冷たくなっていく。
その場に立ち尽くすと、不意に聞こえてくる話し声。

「……やだわー」

「こんな所に、黒猫なんて。不吉ね」

ふと、病院の大きなロータリー脇にあるベンチの方からおばさん達の話し声が聞こえてきた。猫≠ニいう単語に思わず反応して視線を向ける。

「早くどっか行かないかしら。ほら、シッシ!」

「…アオーン……」

(猫……)

よく見ればベンチの側にある生垣の隙間に隠れるように、小さな黒い姿が見えた。おばさん達に嫌な顔をされ、追い払うように手を振られて耳をペタンとたたんで怯えたように身体を小さくして震えていた。

一部の地域から不吉だと言われてた黒猫。日本でもまだそんな風に考える人が一定数いる。そんなものは、人間が勝手に決めたことに過ぎないのに。

「…………」

気づけば足が勝手に猫の方へ向かって動いていた。追い払われた猫はそれでもここから離れたくないのか、生垣の奥で小さくなっていたようだった。驚かさないように、そっと近づいていく。

「……はじめまして」

そっと手を伸ばせば、黒猫の金の瞳が大きく開かれた。ヒゲがピンッと横へ広がる。小さくなっていた身体をこちらへ向けてじっとこちらを見上げる。

「ッ、ニャー、ニャ」

必死に何かを伝えるように鳴く猫。
今度は海人の瞳が驚きで大きくなる番だった。

「…………、え」

「ニャ!」

「もしかして…………夏希ちゃん?」

海人の問いに、黒猫は大きく頷いた。





(どうしよう……)

夏希は焦りと不安に押しつぶされそうになりながら、項垂れた。猫を助けた後に自転車とぶつかり気を失った……までは覚えている。だが、気がついたときには世界が一変していた。

低い視界
短い手足
慣れない四足歩行
黒い毛で覆われた身体

そして、この声だ。

「ニャー……」

(まさか、猫になってるなんて……)

窓ガラスに映る姿は間違いなく、先程助けた黒猫だ。猫と身体が入れ替わるなんて、まるで小説や漫画の世界のよう。自分の身に降りかかるまで、こんな事……現実にはあるわけ無いと思っていた。

途方に暮れるとは、まさにこの事だろう。

必死に頭を上げて辺りを見渡せば、どうやらここは並盛病院前。多分私が運ばれたんだろう。少し前に兄や母が目の前を通ったが、当然気づくはずもなかった。

段々と日が落ち、黄昏時が近づいてきている。このまま誰にも気づかれず、猫のままだったら……そう思うだけで自然と身体が震えてくる。まだ雪も振らず今年は暖冬とはいえ、夕方になると冷えてくる。いくら猫も毛皮があるとはいえ、長毛種ではない黒猫の姿では当然寒い。寒さでも震える身体をさらに絶望的にさせたのは、こちらを睨む女性2人。

黒猫に対する差別的態度。
関わらないように、生垣の奥へ隠れるように下がる。

「アオーン……」

不安と恐怖でどうにかなりそうだった。本来なら今頃先輩と再会して一緒に食事を楽しむ幸せな日になるはずだったのに。

涙がこぼれ落ちそうになると、不意に背にかかる声。

「……はじめまして」

パッと顔を上げて、声のする方を見上げる。知っている姿より少し長くなった黒髪。満月のような優しい金の瞳がこちらを見ていた。

心臓がきゅっと苦しくなる。

(せんぱい!)

「ッ、ニャー、ニャ」

(先輩、私です!気づいてッ)

どうして今まで思いつかなかったんだろう。人間とは異なる生き物と会話ができるという海人先輩。口から出る言葉は猫の鳴き声だけだが、必死に声を上げた。

「…………、え」

「ニャ!」

「もしかして…………夏希ちゃん?」

やっぱり分かってくれたと安堵の声を上げ、大きく頷く。戸惑いの表情を浮かべる先輩の側に駆け寄ると、座って顔を見上げた。驚きの表情を浮かべながらも、そっと手を伸ばして抱き上げてくれた先輩。

普段経験しない浮遊感に、驚いて身体を固くする。毛が逆立ち、口が自然と開いた。

「ッニャ、ニャー」

「驚かせてごめん。取り敢えず……ゆっくり話せる所へ行こうか」

優しく頭を撫でると、自身の上着のボタンを外して寒くないように服と上着の間に猫を入れる。途端に温かく包まれた身体。いつも感じるより先輩の匂いが近くて強い。大好きな香りに包まれて、思わず喉がゴロゴロと鳴る。頭を胸元へすりすりすれば、先程までの不安が飛んでいくようだった。

「ニャー」

「大丈夫。もう大丈夫だからね」

先輩の声はまるで子守唄のようだった。母の胸に包まれて何もかも委ね、安堵した子どもの頃を思い出す。もしくは、寒い日に外で温かいココアを飲んだ時のほっとする感覚に似ている。

あがらえぬ眠気に誘われて、そのままそっと目を閉じた。





「夏希ちゃん、着いたよ」

「ンー……にゃう…」

先輩の声で目が覚める。緩慢な動作で瞼を開ければ、そこは小さなアパートの一室のようだった。1LDKの小さな間取り。きっと複数用意されている先輩の家の1つだろう。荷物も少ない。それでもシンプルに統一された部屋は、先輩らしさを感じる。

「今暖房つけるね」

ピッと明るい電子音が響くと、部屋に備え付けられたエアコンが作動した。温かい風が静かに送られてくる。

そっと床に降ろされると、自然と前足を揃えておしりを上げて伸びのポーズをしている自分に気づいて、羞恥で赤くなる。いや実際に赤面する肌は今はないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。無意識に動いてしまう辺り、やはり猫になってしまったんだと思い出して落ち込む。

「ニャーン」

(もう、恥ずかしい……)

落ち込んでいると、上着を片付けて帰りに寄ってきたのか買い物袋をキッチンへ置いてきた先輩が戻ってきた。

「夏希ちゃん?」

「ニャ、」

(何でもないです……)

「? 色々聞きたいことはあるんだけど……取り敢えず、お腹空いてない?」

先輩の言葉に返事をするかのように、お腹が鳴る。キュウと響いた音に羞恥で再び俯き、ためらいがちに頷く。

「……ニャン」

(……お腹、空いてるみたいです)

「うん、じゃあ先にご飯にしようか」

微笑む先輩を見上げ、返事をする。口から出る言葉は勿論猫のままだったが。ピタンと大きく尻尾が揺れた。

「本当は人間のご飯がいいと思うけど……」

「ニャオ、」

(分かってます。この猫ちゃんの具合を悪くするわけにはいきませんから)

白いお皿に盛られたキャットフード。夜が好きな特別仕様の缶詰も上にかかっている。美味しい……のだろうか。僅かな抵抗感を感じつつも、身体は正直でクンクンと匂いを嗅ぐと美味しそうだと勝手に思ってしまう自分がいる。

(うぅ……とはいえ、勇気がいるな……)

しかも、仕方ないとはいえお皿に乗っているご飯に直接口をつけて食べなくてはいけない。猫なのだからマナーもなにもないのは分かっているが……うん、分かってはいるけど、好きな人の前でするのは恥ずかしい。

「ニャ……」

(ッええい、勢いだ!)

目を閉じ、口を開けてザラザラとした舌を伸ばす。

「ッ!」

(お、美味しい……)

驚きで目を丸くしながら、再び皿に乗ったご飯を口に入れた。



「じゃあ、電気消すよ」

「ニャオ」

(はい、大丈夫です)

ご飯の後でこうなってしまった経緯を知っている限り、先輩へ説明した。私自身よく分かっていないのだから先輩はもっと分からないと思う。それでも、相槌を打ちながら真剣に聞いてくれた海人先輩。

ひとまず明日になったら、先輩の知り合いに声をかけてみるということになった。旅をする中で出会った人の中には動物や不思議なことに詳しい人など様々な人達がいる。だから、大丈夫だと安心させてくれる先輩の声が優しい。なんとかなる、そう思わせてくれた。

明日に備えて早めに寝ようと、布団を用意する先輩。当然1つしかなく、どこで寝ようかと考えていると手招きする先輩。

「ニャ?」

「夏希ちゃん、おいで」

「ッ」

驚きつつ、そっと足を進める。枕元で丸くなると、先輩が優しく背を撫でてくれた。先輩の細くて長い指先が頭の先から背まで滑るように移動する。

(気持ちいい……)

目を細め、尻尾が小さく震える。喉の奥から自然とゴロゴロと音が響いた。じっと先輩の顔を見つめると、先輩の瞳の中に、金に光る蛍のような瞳が見えた。いつもなら、目が慣れるまではっきりと見えない先輩の顔も今日ははっきりと見える。

まるでモデルさんのような整った顔立ちに、宝石のようにキラキラと輝く金の瞳。すっと通った鼻に、血色の良い唇。その唇から紡がれる言葉は、私に沢山の幸福をくれる。全部が愛おしくて、何分でも、何時間、何年でも見ていられる。大好きな人だ。

「ニャオ……ン」

(せんぱい、)

「夏希ちゃん?」

(っ、せんぱい)

こみ上げてくる感情のまま、頭を先輩の胸元へ押し付ける。何度も、何度も。頭を撫でようとしてくれた手をペロッと舐める。手、首、顔とまるでキスをするかのよくに順番に触れる。尻尾がピンッと真っ直ぐに立った。応えるかのように、先輩はそっと抱きしめてくれる。

今はこれしかこの感情を伝えるすべがないのが、少し悔しくもどかしい。もっと先輩と話したい。触れていたいのに。

「…――――……」

その時、不思議な歌が聞こえてきた。見上げれば先輩の口が動いている。言葉にはできない、不思議な音。心にじんわりと優しく染みていくのを感じる。

(……せんぱい、)

身を寄せ合い、お互いの体温が同じになるように1つの布団に入る。聞こえてくる先輩の歌声に耳を傾け、そっと目を閉じた。






「あ、戻った……!」

翌朝、病院ベッドで目を覚ました。五本の指を確かめてホッとする。昨日の出来事を思い出して小さく息を吐いた。大変だったし、とても怖かった。

(でも……)

少しだけ……本当に少しだけ、
昨夜のように隣に先輩がいなくて、寂しく思う自分がいた。

携帯の着信音が鳴るまで、あと5秒。




***

以前悠太さんに書いて頂いた水と戯れるのお話で、海人くんへの感情を色々な生き物に例えているシーンが印象的でいつか書きたいと思っていたお話です。言葉なき言葉も大好きで少しお借りしています。途中で挫折しかけたり、お休みしたりしていたので時間がかかってしまいました。あげく、オチもないという駄文です……。猫は好きなのですが、私自身猫アレルギーで飼えないという切なさ。なので色々ご都合主義にしていたり、辻褄合わない部分もあるかと思いますが温かい目で見ていただけたらと思います。ふと思ったのですが、海人くんが動物になるとしたらなんだろう……山本は犬だろうし、雲雀さんは猫で間違いないとは思うのですが。骸も謎ですね。
長文失礼しました。


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