非日常と日常

「…………っぁ……」

言葉が出ないとは、こういうことを言うらしい。



教会のステンドグラスから夕日が差してオレンジ色に染まった空間。決して大きいとは言えないこの町にある小さな教会。昔、有名な職人さんがこのステンドグラスを作ったとかで有名になった唯一の観光場所だ。

昼間の明るい日差しに照らされた空間も素敵だが、私は昔から人もまばらになったこの夕刻の時間が好きだった。椅子に座りボーっとしたり、スケッチをするのが日課。両親とは違い決して熱心な信者とは言えないが、神父様も好きにして下さっている。今日もいつもと変わらない、そんな日になるはずだった。

手元の紙にいつものように鉛筆を走らせる。何も無い白紙から作り出される教会内の風景画。殆ど完成された絵だが、何か足りない……うーんと唸るとコツコツと後ろから足音が聞こえてきた。

(……誰だろ)

こんな時間に珍しい……そう思って、顔を上げた。

「…………っぁ……」
 
言葉が出ないとはこういうことを言うのかと、呆然として上手く働かない頭で思った。

(……女神、さま……)

ステンドグラスの光の下に照らされて立つ、1人の青年。私よりも10歳ほど年上だろうか。すらりと伸びた長い身長に、細身の身体。裾の長い黒い服がよく似合う。イタリアでは珍しい烏羽色の短い髪。そして、まるでモデルのように整った中性的な顔立ち。少し不機嫌そうに教会内を見渡す金の瞳。

図書館の本で見た外国の美術館に展示されている神様の絵画のようで……いや、それ以上の美しさと神々しさすら感じた。

惚けて青年を眺めていると、イエローダイヤモンドのように煌めく瞳がこちらを向いた。

「っ、」

「…………何か用か」

「い、いえ……あの、その……」

「あ?」

男性にしては低すぎない、頭まで優しく届くような声だった。話しかけられただけで鼓動が大きく、早く動いた。視線を向けられるだけでビリビリと身体に電気が流れるような感覚に襲われる。

「……め、女神様ですか……?」

「はぁ?」

「っいや、あの……すみません。本当に綺麗だったので………」

「…………」

尻すぼみする声。急に羞恥心で一杯になって俯く。顔に熱が集中し、真っ赤に染まったのが鏡を見なくても分かった。

「……」

特に返答もなく、無言の空間に戻る。チラリと青年を見上げればくるりと身体の向きを変えて教会の出口へ向かって歩きだしていた。

(行ってしまう……!)

「……っ待って下さい」

「……おい」

気づけば、服の裾をがっしりと掴んでいた。不機嫌そうな声が聞こえてくるが、離すもんかと力を込める。

「お願いします……っ絵の、モデルになってもらえませんか?」

「…………はぁ?」

驚いたような、呆れたような声が聞こえた。見上げれば鋭い眼光と対峙する。心の奥底まで見ているかのような、荒々しくも透き通った瞳。今更手が震えてきたが、負けじと視線を反らさず再度お願いをする。

「……お手間は取らせません。お礼は……っ少ししかお渡し出来ませんが、貯めてきたお金があります。お願いします。どうしても貴方を描きたいんです」

「興味ない、他をあたれ」

「お願いします!」

「……っち……あのなぁ、お前の目に俺がどう映ってるのか知らねーが、容姿を褒められたってんなもん胸糞悪いだけだ。女神だぁ?くだらねえ。俺はそんなお綺麗なもんじゃない。ガキは早く家に帰ってママの乳でも吸ってろ」

「……嫌ですっ!」

「しつこいな……」

「っ貴方がいいんです。貴方じゃなきゃダメなんです。上手く言葉では言えないですけど……この絵に足りないのは貴方だって、ピンときたんです。だから、うんと言ってくれるまで離しません」

「…………」

「絶対にっ!」

ハァと盛大なため息が聞こえてきた。見ず知らずの人間にこんなことを言われればいい気はしないだろう。迷惑をかけているのは分かりきっているが、それでもこのチャンスを逃したくない。ドキドキしながら相手の返答を待つ。

「……明日の同じ時間」

「!」

「1時間だけだ、それ以上は無理だからな」

「っ、ありがとうございます!」

自然と笑みが溢れて、胸が熱くなる。何度も頭を下げてお礼を伝えるが、答えることなく青年は去ってしまった。

「…………」

1人きりに戻ると、先程までの出来事がまるで夢か幻のように感じるが、まだドキドキと高鳴る心臓が現実だと告げている。ほぅ、と息をついて椅子に腰をかけた。

「……明日、頑張ろう」

決意を込めて、ギュッと手を強く握り締めた。




「今日はありがとうございます」

「……別に、暇だっただけだ」

「ふふ、でも嬉しいです」

翌日、名前も知らない彼は約束通りに教会へ現れた。昨日と同じラフそうな黒色の服を着て、気だるそうに椅子に腰をかける姿は、それだけで絵になる。

紙に鉛筆を走らせる。いつもと同じ作業のはずなのに胸が熱い。動かす手が早く、早くと先を急かす。ドクドクといつもより早い鼓動が聞こえてくるようだった。自然とペースも上り調子で、その分修正も多くなっているが楽しかった。こんな気持ちは久しぶりだ。

「……本当に綺麗な瞳ですね。髪の色と相まってまるで夜空に浮かぶお月さまみたいです。私なんて髪も目もただの茶色で……両親と姉は蜂蜜のような柔らかな金髪に深い海の底のようなブルーの瞳なんです。なんでお前だけ……ってよく言われました。そんなこと言われたって、私がこの容姿を決めて生まれてきた訳じゃないのに」

「……」

「双子の姉は頭も良くて、お人形さんのように可愛くて皆に愛されているんです。逆に私は要領悪くて、がさつで大雑把。お世辞を言ったり空気を読むのがどうしても苦手で。お前は可愛げないってよく言われました。双子なのに大違いだって。両親は姉ばかり可愛がって、食べるものも着るものも差別されて育ちました。だから……なのかな、姉とは自然と距離が空いちゃって。ここ数年はまともに会話もしてないんです」

見ず知らずの人にこんなことを話すなんて、私らしくない。けど、何故か今日は口が軽かった。鉛筆を動かして作品を描くと同時に自分の中からもナニカが出ていく……そんな不思議な気持ちだった。

「両親からの愛はとっくに諦めています。なんの感情もありません。でも、姉のことは……嫌いになれたら楽なんですけどね。私の欲しかったものを全て持っていて、目の前でキラキラと輝く姿を見続けるのは正直辛いし嫉妬だってします。姉さえいなければ……と考えたこともある。けど……本当に姉って良い子なんですよ。返事もしないのに話しかけ続けてくれるのも、姉だけなんです。ごちゃごちゃしてますよね、まとまりのない話ですみません」

「……」

「家でも学校でも居場所がないけれど、でも悪いことばかりではないんですよ。姉が期待される分、私になにも関心が向かないので好きにできるんです。1人の時間が長いので全て大好きな絵に注ぎ込みました。私だけお小遣いもないので、バイトをしながら絵を描く毎日ですが、いつかきっと……世界中を見て回りたい。美しいもの、綺麗なものに沢山触れて。人工物、自然、建物、食べ物……まだ知らない色々なものを見て触れて、描きたい。それが私の夢なんです」

誰にも話したことのない、たった1つの夢。

こんな田舎町ではここから出ることなく一生を終える人の方が多い。まともに絵の勉強をしたわけでもなく、ただ我流で描きたいものだけ描いてきた。そんな小娘が画家として食べていけるなんて、ありえないことだと100人聞けば100人が同じように答えるだろう。お前なんて無理だと笑われるような……そんな分不相応な夢。

分かってる、自分だって嫌ってほど分かってる。でも仕方ないじゃないか、焦がれるほど絵が好きで欲している。絵を描いている間だけが、上手く息が吸えるんだ。

(きっと彼も笑うのかな)



「……そうか」



ポツリと、彼は呟いた。
先程までとまるで変わらない表情で。

「…………っ笑わないんですか」

「笑って欲しいのか」

「……いえ…」

静かに胸の中で炎が灯った。じんわりと染み渡るように温もりが広がっていく。掴めないが確かにそこにあるもの。確かめるかのように胸に手を当てた。

「……ありがとうございます」

「あ?」

「いえ、なんでもありません」

訝しげにこちらを見る金の瞳。自然と溢れる微笑みを手で隠すと、再び鉛筆を紙に走らせた。

それから沢山の話しをした。
最近の町の様子や、安くて美味しいお店、1番綺麗に夜景が見えるスポット。好きな料理やから苦手な食べ物まで。絵を描き始めたきっかけや、好きな画家さんの話しなど止まることなく話し続ける。時には笑い、眉を潜め、怒り、肩を震わせて。

彼からは特に返答はなかったが、話しを遮ることも否定したり馬鹿にすることもなく聞いてくれた。こんな風に人と話すのはいつぶりだろう。

「初めて絵が売れたとき……本当に嬉しかったなぁ。日本から観光で来てた男の人で、路上の片隅で額縁もなく置いていた1枚の絵をじっと見つめていたんです。近くの店の中にはもっと上手い大きな絵が沢山あるのに、10才の子どもが描いた小さくて下手な絵を選んでくれた。お金を稼げたことも勿論嬉しかったけど、大切にするよ≠チて言ってくれたその言葉がとても……とても嬉しかった」

「…………」

その時は上手くお礼を言えなかったけれど、いつかまた会うことがあれば沢山の感謝の言葉を伝えたい。

「……絵が、好きなんだな」

「!……っはい」

満面の笑顔でそう答えれば、呆れたような表情を浮かべた後に何かを思い出すように遠くを見つめ、微笑を浮かべた。

「……っ……」

微かな変化だったが、初めて見た笑みに胸が高鳴る。ゾクッとした妙な高揚感が身体を走って自然と口角が上がった。パズルの最後のピースがはまるような感覚がして、鉛筆を握る手に力が入る。





「…………できた」

ようやく完成した絵。やり切った達成感と疲労を同時に感じて、大きく息を吐いた。

「……やっと、しまいか」

「はい、ありがとうございました」

青年が椅子から立つ音が聞こえてくる。お礼を伝えなくてはと顔を上げれば、薄暗闇にランプの火のような金の瞳が見えた。炎の煌めきにも似た光に思わず見惚れるが、ハッとして外を見た。すでに日は落ちて暗くなっている。

「す、すみません!1時間だけって約束だったのに……」

「ほんとにな」

「……すみません……」

描き始めてから3時間は経過していただろう。申し訳無さで消えるような声で頭を下げた。

「じゃあ、俺は帰らせてもらう」

「はい、本当にありがとうございました。これ、少ないですがお礼です」

すぐにくるりと身体の向きを変えて帰ろうとする青年に、慌てて鞄の隣に置いておいた紙袋を手にする。

「なんだ、これ」

「え、あの……お約束していたお金です。それと」

急に恥ずかしくなって、視線を彷徨わせる。ギュッと紙袋の持ち手を握ると思い切って前に差し出した。

「今日はバレンタインだから町中で沢山綺麗な花が売っていたんです……っべ、別に特別な意味はないんです。でも本当に今日は助かりました。なので受け取って頂けたら……嬉しい、です」

「…………」

暫くの沈黙の後、ガサリと音がして手が軽くなった。袋のなかには茶色い封筒とピンクのガーベラが1本丁寧にラッピングされていた。

「こんなこと、言って良いのか分からないですけど……とても楽しかったです。貴方に会えて良かった。今日のことは一生忘れません」

「…………」

「?」

「お前はきっと、――――すると思うけどな」

「え……?」

ポツリと何か青年が呟いたが丁度教会を閉める合図の鐘が鳴り、途中が遮られて聞こえなかった。首を傾げるも青年はもう口を開かなかった。

「今日は本当に、ありがとうございました」

深々と頭を下げて、再び顔を上げると同時にこちらに向かって何かが投げられた。反射的にキャッチすれば、それは渡したはずの茶色い封筒。

「っえ、あの……!」

「ガキにたかるほど、金に困っちゃいないんでな」

「でも、」

「じゃあな」

そう言うと、片手を上げて去って行った。呆然とその後ろ姿を見送るしかなかったが、教会の扉が閉まる音で我に返る。慌てて扉まで走って開けるも、すでにそこには誰もいなかった。

「…そういえば……名前も聞かなかったな……」

後悔がチクリと胸を刺すが、それ以上に今はポカポカと温まった心が嬉しかった。急いで帰り支度を済ませると、すっかり暗くなった道を急ぎ足で駆け抜けた。






「確かここに……あった!」

家に帰ってから、いつものように一人でご飯を食べるとすぐに自室に籠もった。今日描いた絵を入れる額縁を探して、見つけた1つ。すでに入っていた絵を出して今日描いたものと入れ替える。

「…………うん」

絵を入れたものを抱えてニヤニヤと笑う。自然と口元が緩むのは止められない。自画自賛かもしれないが、今まで描いてきたもので1番上手く描写できたと思う。

「……楽しかったなー」

絵を見ながら、今日の夢のような時間を思い出していた時だった。

ガシャン!

「っ、」

突如家の中で、何かガラスのようなものが割れる音が響く。それと同時に部屋の電気が消えて真っ暗闇になった。他の部屋も停電したのか急に家中が静かになる。

「……っえ、」

思わず絵を胸に抱いて、身体を強張らせる。暗闇に目が慣れるまでその場から動けない。その間も部屋の外からは何かが倒れるような音が聞こえてきていた。

「…………っ」

怖いが、このままいても危険かもしれない。この部屋には窓がなく逃げようにも一旦部屋の外に出るしかない。そう思うと、絵を抱えたまま部屋の扉をそっと開けた。

部屋の外は真っ暗闇で廊下に自身の足音が響く。極力音を立てないように静かに廊下を移動する。

(あれ……?)

すると、一部屋だけ明かりがついていることに気づく。そこは父の書斎だ。

「…………」

ゆっくりと、静かに足を進めた。

「…………」

ギィ……、
扉に手をかけるよりも早く、勝手に戸が開く。咄嗟に隠れなくてはと思ったのに、反射的に見てしまった部屋の中の光景に、その場から動けなくなった。ドキドキと胸が苦しいほど心拍が速まる。冷汗が米神を伝う。

「……っぁ…………」

部屋の中央に設置されたデスクの前で父と母が重なるように倒れていた。首から真っ赤な血を流しているのか、顔周りにはすでに血溜まりができていた。身体はピクリとも動かない。いつも自慢していた青い瞳は曇ったビー玉のように光を反射しない。とくに母の顔は恐ろしいものを見たかのように恐怖を浮かべて固まっていた。

「…っひ……」

一歩後ずさる。
すぐに壁にぶつかってその場に座り込んだ。いくらもう期待してない両親とはいえ、まさか死に顔を見ることになるとは思っていない。しかも初めて見る殺された遺体、身体が震えた。

(……っなにが、どうなって……)

「…………だから、言っただろ」

「っ!」

「お前はきっと、後悔するって」

突如かかる低い声に、ビクッと身体を震わせる。怯えたように声の方を見れば、驚きと絶望で目を見開いた。

「…………」

「……っぁ………ど、して…」

「……」

上から下まで真っ黒な服に身を包み、真っ赤な血が滴るナイフを片手に堂々と廊下に立つ青年。黒髪の間から金の瞳が鈍く光った。

昼間会った、あの青年だった。

「…………っ、」

「さあ、今度は俺の用事に付き合って貰おうか」

絵を抱えたまま思わず後ずさるも、背中はすでに壁でこれ以上動くことは出来ない。自然と涙が溢れて頬を伝って落ちた。

「……っ……」

恐怖でどうにかなってしまいそうなのに、こんな時ですら目の前の青年に惹かれてしまう。血の色やナイフすら似合うなんて、頭が可笑しくなったのだろうか。

(わたしも……殺されちゃうの、かな……)

こんなときですら、今の彼を描きたいと思う私はやはりどこか可笑しいのだろう。

「……これにこりたら、少しは他人を警戒することを覚えることだな」

「わ、たし……っ」

「じゃあな」

青年が大きく手を振り上げ……意識はそこで闇の中へと落ちた。






「ご苦労さま」

「ったく、面倒ごと押し付けやがって。いつからてめぇはそんな偉くなったのかね」

「……いや、一応ここのボスなんだけどね」

ヘラリと苦笑する男……10代目ボンゴレボス沢田綱吉は報告書を受け取る。サッと目を通すと小さく息をついた。

「……まさかとは思ったけど、やっぱり裏切ってたか」

「こんな世界じゃ、裏切りなんざ珍しくもないだろ」

「まあ、そうなんだけど……そうであって欲しくなかったっていうのが本音ですよ」

ボンゴレ傘下の古参マフィアが裏切っていると匿名の連絡を受け、調査と始末を任された空人か向かったのはイタリアのとある田舎町だった。事前の情報通りにそのマフィアでは密かに裏切りの準備を進めていた。綱吉の時代からボンゴレ内で禁止されている非合法な商売も続けていたらしい。協力者からの証拠提供もあって仕事が早く済んだのは楽で良かった。

「……それで、子ども達はどうなりました?」

「…………ご指示通りボンゴレ傘下の孤児院へ入れた。相変わらず甘ぇな。ガキだからって生かしてたらいつか復讐にくるとは思わないのか」

「……うん、そうだね。でも、あの子達なら大丈夫だと思う。空人くんもそう思ったんでしょ?」

「…………ッハ」

指示はしたが最終的な判断は現場に一任している。今子供達が孤児院にいるということは、そういうことなのだろう。

視線をデスクの上にある小さな写真立てに向けた。真っ白な額縁に飾られているのは白黒の1枚の絵だった。ボスになりたての頃に挨拶へ行ったある町で少女から買ったもの。初心を忘れない為にいつもここに飾っていた。






「どうか、彼女達が幸せに生きていけますように」






祈るような気持ちで、そっと目を閉じた。







***

いやー、こうじゃない感があって時間がかかってしまいました……。バレンタインにアップする予定が大遅刻です。さり気ない空人くんの魅力を出したかったのに彷徨って迷子です。海人くんや夏希ちゃんとか身内でワイワイしている姿は思い浮かぶのですが、一般人と空人くんとの会話が難しかった……。
駄文失礼しました。

妊娠


ピピ、

「………、……」

時間を告げる携帯のタイマーが鳴る。見えないようにトイレの棚に置いた細いスティック状の白い物体。微かに震える手で、それを取った。その中心に丸く開けられた2箇所の窓。何度も読み込んだ説明書の通りならば、右側は検査が確実に行えたという証。そこにはブルーの縦線がしっかりと記されていた。反対は……。

「…………ぁ……」

濃いブルーの線が2本。

それが示す結果に、思わず息を呑んだ。そして、始めに浮かんだ言葉がどうしよう≠セったことに自分でも愕然とする。それは嬉しさや喜びからくるものではなく、不安と戸惑いだったからだ。これからのことを想像して、目をギュッと閉じた。不安からこみ上げてくる涙がポタポタと膝に落ちていく。

「……っ、」

(……ごめ、んなさい……)

素直に嬉しいって言えなくて、ごめんね。
自分の事ばかり考えて、ごめんね

「…………」

ようやく動けるようになったのは、日もどっぷりと暮れ、月が登った頃だった。





週末に入りやっと仕事が休みの日になった。普段年に一回がん検診でしか訪れない産婦人科の門を潜る。待合室にはお腹の大きい妊婦さんが幸せそうにエコー写真を見ていたり、妊婦雑誌を眺めていて……何だか急に場違いじゃないかと思い、俯く。

受付に保険証と診察券を提出し、代わりに番号札を受け取る。程なくして番号が呼ばれ、ガラリと戸を開いて診察室へ入った。素っ気ない態度の医師に内診室へ入るよう促され、隣の部屋へ入る。そこで下着を脱いでスカートの裾を捲り、内診台へ座った。看護師さんの明るい声で「台が上がりますよ」と告げられると同時にクルリと椅子が回転して上昇し、股を開くような形で停止する。これは診察だと思いながらも、羞恥心と恐怖でいっぱいになる。何度やってもこれに慣れることはないだろう。

「お名前は?」

「……あ、えと……つ、継峰夏希です」

「はい、継峰さんね。診察始めますよ」

ピンクのカーテン越しに先程の医師の声が聞こえた。緊張で言葉に詰まりながらも名前を言えば、夫以外触れたことのない場所へ無造作に器具を入れられる。

「っ、」

違和感と微かに感じる痛みを、ギュッと手を握って耐えた。怖々目を開ければ、こちらからも見えるようにと設置された小さなモニターに黒い扇状の映像が写し出される。医師がカチカチと機械をさわる音と陰部に挿入された器具を動かす度に映像が変わっていく。

「あ、うん。間違いないね。ちゃんと子宮内に妊娠してるよ」

「……、にんしん……」

「はい、じゃあ支度が終わったら隣の診察室ね」

映像を見ていても何がなんだかよく分からないまま診察が終わる。妊娠してるよ≠サの言葉だけがぐるぐると頭の中を回っていてどうやって内診台から降りて身支度を整えたのか記憶にないまま、気づけば診察が終わり手には小さな写真を渡されて指導室とかかれた部屋に通されていた。

「継峰さん?」

「え、あ……はい」

目の前の看護師さんが何やら説明してくれていたのに、ボーっとしていたせいで聞いていなかった。慌てる私に、小さく微笑んだ。

「妊娠おめでとう……でいいのかな」

「………っ…」

手を強く握り、俯く夏希。意思とは関係なくポタポタと流れる涙に気づくと、ティッシュを渡して肩をさすりながら、黙って落ち着くのを待つ看護師。

ゆっくりと口を開いた。

「さっきもらったエコー写真、持ってる?」

「っ、はい」

はがき半分くらいの大きさの白と黒のだけで写された紙。その中央の小さな黒い楕円を指差す。

「これがね、赤ちゃんがいるお部屋の胎嚢で、その中にある白いリングのようなものが卵黄嚢っていうのよ。継峰さんの最終月経とこの胎嚢の大きさからいうと、今は妊娠6週目に入ったところね」

「…………」

「……ここにはね、色々な事情を抱えた人が来るわ。だから、これは皆に言っていることよ。もし、赤ちゃんとさよならしなくちゃいけないとしたらなるべく早めに来てね。赤ちゃんの成長スピードはとても早い。21週までは中絶できるけど、12週以降は普通のお産のように出産することになるし、死産届や火葬、納骨も必要になる」

「……っ、」

「継峰さん、抱えているものがあるなら何でも相談してね。私じゃなくても、色々な相談機関もあるから後で受付からもらえるように言っておくわ。次の受診は2週間後になります。それまでに……ご家族ともよく話し合ってきてね」

「…………はい」

「もしそれまでに多量の出血があったり、つわりが酷くて飲食出来ないようなら連絡してね」

「分かりました」

バタン、とドアを閉める。
それからお会計を済ませて次回の予約表と一緒に資料
を一式渡された。

「次回は2週間後の同じ時間で大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫だと思います」

「気をつけてお帰り下さい」

産婦人科の入り口から出て車に乗り込み、ふぅと小さく息を吐いた。

「…………やっぱり、妊娠してたんだ…」

いつもと変わらない下腹部にそっと手をあてた。いつもは規則的にきている生理がこない以外には思い当たる症状もない。けれど妊娠検査薬での結果に加え、医師の診察でも貴女は妊娠してますよと言われれば、その通りなのだろう。

(…………っ、どうしよう……)

愛する人との子供ができたのに、ただ嬉しいと素直に言えない。父親である海人さんへの連絡も躊躇している私は、なんて酷い親だろう。

ギュッとハンドルを強く握り締め、エンジンをかけた。ポツポツと雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーを動かし、シフトレバーをDへ合わせる。

そう言えばあの日も雨だったなと思い出しながら、アクセルを踏んだ。





その日は、朝から大雨だった。

記録的豪雨になるかもしれないと繰り返しニュースで言っていた。兄からも気をつけるようにと連絡をもらい、返信してから就寝した。

空人さんが亡くなったと訃報が届いたのは、深夜1時だった。滅多にない海人さんからの夜中の電話に、嫌な予感がしたが実際に訃報を聞いて全身の力が抜けてその場に座り込んだ。最期を看取ったのは海人さん1人だったと言う。感情のない声で話す海人さんに、早朝仕事を休む連絡をしてすぐイタリアへ行くことを決めた。

近親者のみで行われた葬儀。喪主として立つ海人さんは、真っ白な顔で淡々とやることをこなしているようだった。泣いている人も、俯く人も、怒る人もいるなかで、ただただ……静かに見送っている海人さんがとても痛々しかったのを今でも覚えている。

葬儀も終わり、明日は日本へ帰る日。海人さんは諸々しなくてはならないことがまだあるらしく、暫くイタリアへ残ることになった。
就寝前に海人さんの部屋へ向かった。ノックをしても返答はなく、ドアノブに手をかければ鍵もかけられていない。ゆっくりとドアを開ければ、月明かりしかない真っ暗な部屋で、1人ベッドに腰掛けて座る海人さんがいた。聞いた話ではろくに食事も取らず、一睡もしていないらしい。今にも倒れてしまいそうな酷い顔色だった。

「…………海人さん」

「…………」

「……っ……」

「…………」

「海人さん、」

「…………なつき…」

何度か問えば、やっとこちらを向いた。かすれる声と虚ろな瞳。いつもは満月のように輝く金の瞳も今日はくすんで見えた。

「…………」

「…………」

痛々しい姿になんて声をかければいいか分からない。「大丈夫ですか」や「元気出して下さい」は違うと分かるけれど、まだ身内を亡くす経験のない私には傷ついた海人さんを癒せる言葉を知らない。それでもこのまま海人さんを1人にする選択肢なんてなくて、抱えるように頭をそっと抱きしめた。まるで外にいたかのような冷たい身体に泣きそうになる。少しでも温かくなれるように、ギュッと力を込めた。

それから、どれほど時間がたっただろうか。されるがままになっていた海人さんの肩が小さく震えた。

「……な……つき……」

「……はい」

「なつき」

「……はい、ここにいます」

絞り出すような、縋り付くような声色で何度も名前を呼ぶ。応えるようにそっと腕に力を込めれば、痛いほどの抱擁が返ってきた。そして、一瞬で背中には柔らかなベッド。見上げると海人さんの悲痛な瞳と視線が合う。

「……海人さん?」

「っ……なつき、」

「かいと、さ」

後先考えずただ感情のまま行為に至ったのは、後にも先にもこの時だけだった。

何度もお互いの名前を呼び、存在を確かめるように肌に触れて強く抱きしめた。いつもはお願いして出発前につけてもらう所有印も、場所を問わずいくつも紅の華を咲かせた。言葉を交わす暇もないほど接吻が続く。お互いの唾液が混ざり合い、溢れ出た愛液がシーツを汚した。堪えきれず出た声が枯れても、何度意識を飛ばしても、陽が差すまで行為は続いた。

誰に言われる訳でもなく、これは愛情や想いを交わすための穏やかな行為ではなかった。まるでそうしてないとここからいなくなってしまうかのような……そうすることでやっとお互いの存在を認識できているような不安や喪失感に駆り立てられた行為だった。それでも、今にも壊れてしまいそうな海人さんが、少しでも救われるならと願った。私自身、愛しい人の温もりで安堵した部分もある。

お互い力尽きて倒れるようにベッドに横になって眠った。その間も抱え込まれるように抱きしめられ、お互いの隙間が無いほどに肌を合わせた。朝日がカーテンの隙間から差し、部屋の中を満たす頃ようやく目を覚ました。

先に起きていた海人さんが用意してくれたカフェラテを飲みながら、ホット息をつくとポツリと隣の椅子に座る海人さんが呟く。

「……中学で……未来に行った時、空人がいたから少なくともあと数年は、大丈夫だと思ってたんだ」

「……」

「……なのに……っ」

堪えきれない感情が、蛇口をひねって出てくる水のように勢いよく出てくる。吐き出すように吐露される言葉の波。思わず手をとった。海人さんは苦笑して手を握り返すと言葉を続ける。

「……先月アレスが逝ったから、嫌な予感はしてた。けど、俺に残り≠渡さなければもう少し長く生きられたはずなんだ……っ」

ハッ、誰が……お前の思い描くように死んでやるか

「最期まで憎まれ口叩いて……」

いい面してんじゃん、おにーちゃん?

「……っ」

「海人さん……」

「ごめん、ごめん……っ」

何に対しての、誰に対しての謝罪なのか。

金の瞳から、いくつもの涙を零す。嗚咽を上げ子どものように泣く海人さんを抱き締めた。痛いほど海人さんの気持ちが伝わってくる。気づけば同じように涙が溢れ、こぼれ落ちた涙が海人さんの涙と混ざり、床へポタリと落ちた。




あれから、2ヶ月経つがまだ海人さんはイタリアから帰って来ていない。けれど、たまにする電話では段々といつもの声色に戻ってきた。それに来月にはまた旅を始めると一昨日聞いたばかり。少しずつ、いつもの海人さんに戻っていて、ホッとした。

「…………っ、おぇ」

堪えきれない吐き気と共に、空っぽの胃から胃液のみがトイレの便器へ落ちていく。
先週から悪阻が始まった。吐いても、吐いても終わること無く1日中車酔いしたような気持ち悪さが続き、食欲もない。味覚すら変化しているのか、普段好物なものでも見るのも嫌だった。水分すらまともに口に出来なくなり今日でもう3日だ。当然仕事も行けず、欠勤も続いている。

「……っ」

結局、あの後受診出来ずに今日まできてしまった。悪阻も始まり、腰や胸もちくちくするようになった。こんなにも身体は妊娠してるよと教えてくれているのに、まだこれからを考えられずにいる。体調不良を理由に向き合うことから逃げて、メソメソ泣いている弱い自分が嫌なのに……どうすることもできないまま、ただ日にちだけが過ぎていった。

ピンポーン、

「…………」

不意に鳴るインターフォン。出る元気すらなく、その場に座り込んだまま無視するが再び音が響く。

ピンポーン、

「…………」

(……だれ……だろう)

早く出なきゃと頭では分かっているものの、身体が動かない。悪阻や不安からか最近はあまり寝れなかったにもかからわず、自然と瞼が降りる。

ピンポーン、

(………ねむ…い)

次の瞬間には、トイレの床へ崩れるように横になった。





「…………ん……」

「おはよう、目が覚めたようだね」

「…………雲雀……さん?」

次に目を覚ました時には、そこは病院のベッドの上だった。ボーっとする頭で声のする方へ視線を向ければ、左手に繋がる点滴ボトルと、いつものように少し不機嫌そうな表情を浮かべた雲雀さんがいた。

「……ここは……」

「並盛病院。覚えてない?最近仕事休んでるようだし、ここ3日ほど家から出てないようだって君につけてる護衛から連絡が入ってね。海人からも風邪で体調が良くないって聞いてたから一応、行ってみたんだ。そうしたら君がトイレで倒れていた」

「…………」

「風邪……じゃないでしょ」

「……っ、」

「悪いとは思ったけど、保険証とか出すのにチェストを開けた。これ、産婦人科の予約票と一緒に妊婦向けの冊子も入ってたよ」

雲雀の言葉に、思わず目を反らした。

「……海人は知ってるの?」

「…………」

「そう、知らないんだ」

「……っ、お願いです!海人さんには……海人さんにはこのこと言わないで……下さい」

起き上がり、縋り付くように雲雀のスーツの裾を掴み懇願する夏希。

「…………」

「……海人さんは……っ今、子どもができることを望んで……ない、から」

「海人が?」

「……詳しいことは、分かりません。でも、海人さんの力と関係あることで……けど、いつか教えてくれるって約束……してくれました。だから、それまでは夫婦2人で過ごそうって私が言ったんです……っ海人さんが話してくれるまで待つって」

「……」

「それに、やっと……やっと空人さんの死から立ち上がったばかりなんです。に、妊娠した……なんて言ったら、海人さんを困らせる……」

「けど、事実君は海人の子を妊娠している」

「……っ」

雲雀の言葉に、俯く。ポロポロと涙が溢れ布団を汚した。そっと備え付けのティッシュを渡しながら、夏希に向かって問う。

「…………それじゃあ君はどうするつもりなの?」

「……わ……かりません……」

「……そう」

妊娠が分かったときから、ずっとぐるぐると頭の中から消えてくれない不安。まるで出口のない迷路に迷い込んだようだ。誰にも言えず、相談できないままここまできてしまった。

……心も身体も限界だった。







「継峰さん、診察ですよ」

「……はい」

雲雀さんと話した日から3日たった。悪阻は相変わらずだったが、点滴しているお陰で全体的な体調は自宅にいたときよりもいい。

「継峰夏希さん……ですね。妊娠悪阻で入院中……と。体重も大分減りましたし、ケトン体もまだ出てますので入院はもう少し続けて下さい。クリニックにはこちらから連絡してありますので、ご安心を」

「……ありがとうございます」

「じゃあ、妊婦健診しちゃいましょう!今日心拍確認できれば、母子手帳をもらってこれますからね。これからお子さんが6歳まで使う大切なものになりますので、退院したら役所で手続きしてきて下さいね」

総合病院らしく、若くハキハキと話す医師だった。促されるまま、内診台へ座る。

「……はい、じゃあ診察しますよ」

「…………」

クリニックと同じように、真っ暗な画面がこちらに向けられていた。違和感と共に画面の映像が動く。

「……っ、ぁ」

「見えますか?赤ちゃんちゃんと大きくなってますよ。こっちが頭で……あ、動きましたね。元気なお子さんだ」

アハハと明るく笑う医師の声。
夏希は画面を食い入るように見つめた。数週間前に見たときは何がなんだかよく分からなかったエコー。今日は、医師に言われるよりも早く人の形をしているのに気づいた。器具を動かす度にひょこひょこ動く姿に胸が熱くなる。

「……あとは……うん、心拍も良好です。見えますか?このぴょこぴょこ動いてるのが赤ちゃんの心臓です」

ドクン、ドクン、

「……っ」

不意に画面から出る音声。ズームされた画面には点滅を繰り返す小さな丸。自身のものとは違いとても早くリズムを刻む心拍。自然と涙が溢れ出た。この子は生きてるんだと、誰に言われるでもなくストンと胸の中に落ちてきて温かな何かが広がった。

「…………っ」

(ああ……わたし、)

今まで抱えていた不安がなくなった訳では無い。海人さんへ伝える勇気も……まだ持ち合わせていない。けれど、この子に会いたいと強く思った。

診察が終わり自室に戻ってそっとお腹を撫でた。まだぺったんこなお腹だけど、この子はここで生きてくれている。大好きな人との愛しい子ども。

「……っ弱虫なお母さんでごめんね」

覚悟を決めるまでにこんなに時間がかかってしまった。きっとまた悩むこともある。けど、この子は……絶対に守ろうと心に誓った。

(……わたしの所に来てくれてありがとう)

想いが伝わるように、そっと瞳を閉じた。








***



色々と……すみません。やらかした感はあります。初めて妊娠が分かったときの夏希ちゃん目線で、産む覚悟が決まるまでのお話でした。私自身赤ちゃんの心拍を聞いたときの衝撃と感動は忘れられません。
海人くんはきっと夏希ちゃんに言われるよりも先に気づくんじゃないかな……。未来編の2人とは違う展開で一悶着ありそうではありますね。けど最後には皆で幸せになってくれたら嬉しいです。以前書いて頂いたお話のようにストーブ1つで慌てる海人くんがいたらいい(笑)
駄文失礼しました。








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