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長崎の歴史:坂本龍馬 2


「海援隊」の前身である
「亀山社中」の名称は

亀山社中の場所は元々
オランダ向けの輸出用の陶器
「亀山焼」という
陶器を焼いていた窯があった
場所でしたが

1865年に廃窯になり
そこを長崎の商人 小曽根乾堂が
資金を出し跡地を購入し
龍馬はその家屋を借り受け
「亀山社中」を設立しました


「亀山社中」は日本初の
商社という評価があり
「社中」には人が集まるという
意味があります

「亀山社中」は
軍事的、政治的、商業的な
組織でした

亀山社中は当初
交易の仲介や物質の運搬などで
利益を上げて
薩摩藩と長州藩の橋渡しなど
運営は順調でした


しかし龍馬が脱藩の身だったため
勝海舟が仲裁に入り
脱藩の罪が解かれると

「亀山社中」は土佐商人の
後藤象二郎の率いる土佐商会の
協力を得て

土佐藩の外郭団体
「海援隊」へと名称を変えます

「海援隊」は土佐藩所属でしたが
基本的には独立した組織で

「海援隊規約」では
脱藩浪士、軽格の武士、町人など
様々な階層の人たちを受け入れ


また規約には
「運輸、射利、投機、開拓
本藩の応援」が明記されており

「射利」つまり利益が
堂々と掲げられていました

「海援隊」は会社と海軍を
兼ね備えた組織であり

また航海術や語学を学ぶ
学校の役割も果たしてました

海援隊には藩出身者が
16〜28人
水夫など合わせて
約50名で組織されていました

〜次回 長崎の歴史に続く〜

from Itsuki


↑こつぶちゃん
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