「……よんじゅう……」


ピピッと聞こえた電子音。気だるい身体で脇から出した体温計に表示された数字を読む。

(やっちゃった……)

昨夜から嫌な予感はしていた。熱は無いのに体が重く、普段と変わらない生活リズムのはずなのにやけに疲れやすかった。喉の違和感や痛み、鼻水はなかったので単に疲れが溜まっただけかと思いつつも、念の為マスクをつけた。幸い子ども達はすぐに寝息をたてて寝てくれたため、残った家事を済ませてもいつもより早く寝ることができた。

日付けを跨いだ頃だろうか。寒気で目が冷め、思わず布団を抱きしめた。季節は冬も終わりを迎えて春間近。夜でも気温はそこまで下がることはなく、普段なら朝までぐっすり寝れるはずだった。起きて体温計を取りに行く気力もなく、朝まで何度か目が覚めては寝るを繰り返した。いつもの目覚ましアラームで怠い身体を起こし、今に至る。

「……はぁ……」

どうしよう、それが始めに頭に浮かぶ。熱でボーっとする思考。これからしなくてはならないことを指折り数えてリストアップする。時間になったら職場に連絡して、子ども達にも熱が無いか確認、保育園に送ってから医院に受診して……ああ、でも車運転できるかな……。

リビングの戸棚を開けて、透明の小さなケースを取り出す。パカッと開けて中に入っている常備薬の中から解熱剤を探す。子供用のキャラクターの書かれた薬の箱、絆創膏、湿布、包帯、目薬、塗り薬……量はまちまちだがどれも入っているのに、解熱剤だけが見つからない。

「…………あ、」

おかしいな、と考えて不意に思い出す。最後に使ったのは確か昨年の夏頃だっただろうか。季節外れのインフルエンザに罹った子どもの看病をする内にどうやら移ってしまったようで、子どもが解熱する頃に発熱したんだっけ。確かその時無くなって、元気になったらまた買いに行こうって思ってたけど……それどころじゃなくなって。

「………、…」

そこまで思い出して、冷たくなった手をぎゅっと強く握った。左手の薬指に光る銀の輪を確かめるようにそっと指でなぞる。無機質な金属のつるりと滑るような感触。こみ上げてくる何かをぐっと堪えた。

解熱剤が無いようでは、送迎は危険かもしれない。かと言って頼る人も……いない。両親は旅行へ行っているし、兄は県外へ出張中だ。ファミリーサポートに登録はしているが、今は双子の人見知りが凄く利用は難しい。仕事をしている友人に頼むのも……気が引ける。海人さんが亡くなってから何かと気にかけてくれている雲雀さんや山本先輩、沢田さんも数日前から会議でイタリアへ行くと言っていた。

(いっそ、保育園お休みさせようかな……)

そう思うも自身に熱がある中、まだ幼い3人の子供をつれての受診は正直きつい。空も卒園まであと数日。お友達と先生で過ごせる時間を大切にしてあげたい。それに感染症かどうかも確かめてもらう必要があるし、小さい子どもにママだけ寝かせて欲しいと頼むのは難しいだろう。

「……どうしよう…………」

八方塞がりで携帯片手にため息をつく。熱で頭痛が酷い。頭を抑えながらアドレス帳をスクロールした。

(だれか…………)

「!」

六道骸

あいうえお順に並んだ携帯の1番下に登録された名前。最近登録された電話番号に、思わず指が伸びる。受話器のマークを押そうとして、指が止まった。

「…………」

迷惑じゃないだろうか。ふと、そんな心配が過る。確かにあの時から六道さんとは少し距離が近くなった。何度か会う内に子供達も慣れている。でも、急にこんなことをお願いしてもいいのだろうか。

「うーん……」

「ママ?」

不意に近くで聞こえた子どもの声。驚いて振り返れば、1人起きてきた空が眠そうに目を擦りながら立っていた。

「ごめんね、起こしちゃった?」

「んーん。おしっこ行ってきたの」

「そっか、まだご飯用意してないんだ。着替えて待っててね」

「うん。ねえ、ママお顔赤いよ?」

「あ……えと、ちょっとお熱が出ちゃったんだ」

「だいじょうぶ?」

「うん、ありがとう」

心配そうな顔をする娘の頭を優しく撫でると、携帯をテーブルに置いてキッチンへ移動する。とは言っても身体は怠いし、正直卵1つ焼くことすら億劫だ。申し訳ないが皿に盛るだけのパンとヨーグルトにしてもらおうと冷蔵庫を開けた時だった。

「……あ……よ」

「?」

娘の話し声が聞こえてくる。自分に話かけているのかとキッチンのカウンターから顔を出せば、携帯を片耳に当てて話している娘の姿が見えた。

「え!」

慌ててキッチンから飛び出した。ふらりと身体が傾き熱があることを思い出す。足に力を入れて踏ん張り、娘の近くへ駆け寄った。

「あ、ママ」

「そら!?誰とお話して……っ、」

「むっくんだよー」

「え、」

パジャマ姿のまま嬉しそうに口角をあげて、携帯の画面を見せる娘。肩甲骨まで伸びる柔らかな黒髪が寝癖で跳ねていて話すたびにひょこひょこと動く。父親譲りの金の瞳がきらりと光った。

見せられた携帯の画面には六道骸≠フ名前と、通話中の表示。そういえば、アドレス帳を開いたまま携帯を置いたような……。

「…………」

「…………」

しばし沈黙。
思わず現実逃避したくなって目を瞑る。

(……いや、いや!駄目)

上手く働かない頭を必死に動かして、空から携帯を預かると右耳へそっと当てた。ごくりと唾を飲み込む。

「ろ、六道……さん?」

「はい」

「……すみません。空が勝手に通話ボタン押しちゃったみたいで……こんなに朝早くから申し訳ないです」

「……いえ」

電話越しに聞こえてきた低音。怒っているのかいないのか……声だけでは、まだ付き合いが浅い私には判断が難しい。電話だと分かっていても思わず頭を下げた。

「本当にすみません」

「別に……気にしてません」

初めより幾分柔らかな声にホッと息をつく。自然と頬が緩むのを感じた。

「そう言ってもらえると、助かります」

「それより、…………」

「?」

言葉を伝えようとして、何かを迷うような声。首を傾げると、暫く沈黙した後で再び声が聞こえてきた。

「……空から聞きましたが、体調が悪いんですか」

「え、」

「熱があるとか」

「…あー……」

六道さんの声に、思わず顔をしかめる。目の前の空を見れば、ソローっと外される視線。お喋りが大好きな娘は、もうそのことを伝えてしまったらしい。

「今朝から少し……でも、大した事ありませんよ」

「何度ですか?」

「え……」

「熱は何度だったのか、と聞いています」

「…………」

「…………」

無言の圧が電話越しに伝わってくる。観念して、ゆっくりと口を開いた。

「え……えと、確か40……℃だったような……」

「…………はぁ」

盛大なため息が聞こえてきた後、「一旦電話を切ります」と一言告げてツーツーと通話終了を告げる音へと変わる。

「?」

「ねぇ、ママ。むっくん何だって?」

「んー、電話切れちゃったから……あ、そうだ!朝ご飯用意しなきゃ。空、着替えたら陽人と朔人起こしてきてくれる?」

「はーい」 





怠い身体を動かして何とか食パンにジャムを塗り、牛乳をコップに入れて、ヨーグルトを器に盛った。シュガースポットが出たバナナを切ってヨーグルトの中へいれる。トレイにお皿を乗せて、スプーンを用意したら完成だ。簡単な朝ご飯だが、3人分用意しただけでもうヘトヘトだ。

ダイニングテーブルに移動して、子ども達が食べている様子を眺めながら椅子にもたれ掛かる。もう立ちたくないし、何もしたくない。食欲なんてないから早く横になりたい……そう思うが、そうはいかないのが現実だ。職場へ連絡は入れたが、結局この後どうするかも決めていない。

ピーンポーン

「……あれ?」

「お客さんだー!」

突然鳴るインターホン。時刻はまだ朝の8時だ。こんな朝から宅急便は来ないだろうし、誰だろう……とぼんやり考えていると、来客が嬉しいのか空が駆け出す。双子は我関せずでむしゃむしゃとパンを頬張っていた。

玄関へかけていった空を追いかけ、リビングの戸をくぐる。玄関を見た瞬間、思わず固まる。

「ろ、六道……さん!?」

「お邪魔します」

「ママ、むっくん来てくれたよー!」

そこにいたのは、サラサラと流れるような長い藍色の髪を後ろで1つにまとめ、黒い薄手のコートを着て立つ六道さん本人だった。

「どうしたんですか?」

驚いたように問いかければ少し眉間にシワが寄り、口角が下がる。機嫌が悪いのだろうかとも思うが、向けられる視線は鋭くはない。

「…………」

「?」

「貴女、熱があるんでしょう。早く横になったらどうですか」

「あ……えと、でもまだやる事が……」

「僕がやります」

「……へ、」

「入りますよ」

「え、あ………」

そういうと真っ黒な靴を脱いで、嬉しそうな空に手を引かれたまま家の中へと入っていった。呆然とその様子を見送り、ハッとして慌てて追いかける。

「ろ、六道さん?」

「まだそこにいたんですか、早く寝てください」

「で、でも」

「保育園の送迎くらい僕でもできます。空が小さい頃海人と行ったことがあるので、なんとかなると思います。保育園へ連絡だけしておいて下さい。それと、9時にタクシーが来るように連絡してあります。乗って受診してきて下さい。子どもたちの帰りも僕が迎えに行きますので」

「けど、六道さんのご迷惑じゃ……」

朝食を食べていた陽人と朔人と挨拶を交わし、空を椅子に座らせて食べるように促す六道さん。遠慮がちに聞けば、ギロリと鋭い視線が向けられる。

「構わないといったはずです」

「っ、でも」

「海人に……線香を上げるついでですよ」

「六道さん……」

反らされた視線。けれど、その不器用な優しさがじんわりと胸に染みていく。熱で緩んだ涙腺から涙が浮かぶ。涙が流れ落ちそうになるのをぐっと堪えて頭を下げた。

「……ありがとうございます」

「……」









「夏希」

辛そうだね、と心配そうな表情を浮かべて見下ろす金の瞳。熱でとろんとした視線を向ければ、細くて長い指先が額に触れる。

「まだ熱いね」

誰よりも温かい心をもった愛しい人。
洗い物をしてくれていたのか触れる手はいつもより冷たく、熱で怠い身体には気持ちいい。

「おかゆ、美味しかったです……」

「良かった。薬は飲んだ?」

「はい」

「じゃあ、また少しおやすみ」

風邪を引くと必ず作ってくれる海人さん特製のおかゆ。出汁が優しい味にしてくれていて、混ぜられた卵の黄色が可愛い。真ん中には鮭フレークや梅干し、しらすなどその時の食欲に合わせて変えられた具材。少しでも食べれるようにと工夫された海人さんの優しさが嬉しかった。

海人さんはいつも優しいが、風邪を引いたときは特別甘やかしてくれる。家事は勿論、氷枕の交換から水分の用意、着替えの手伝いまで。少し過保護だと感じるほどだ。普段は素直に気持ちのすべてを伝えることは難しいけど、熱がある時はついつい甘えてしまう。

「かいと、さん」

布団から手を出して、重ねるように手に触れた。自分以外の温かさが心地よい。強請るように金の瞳を見つめれば、優しい微笑みで頭を撫でてくれる。いつもは他の人にも向けられる視線が私1人だけに注がれていることに、愛しさが募る。

(……だいすき)

包み込むような安堵感。
鼓動を早めるときめき。
一秒でも離れたらバラバラになってしまいそうな不安。

海人さんに対する沢山の溢れる気持ちに名前をつけるとしたら、なんと呼べばいいのだろうか。

「夏希?」

「…………寝るまで、側にいてくれますか?」

食事を終えて薬も飲んだからか、再び眠気が襲ってくる。けど、1人で寝るのはちょっと怖い。熱があると眠りが浅くなるせいか悪い夢を見るのだ。それは決まって同じ、海人さんがいない世界で、一人ぼっちになってしまう夢。夢だと分かっていても、また見るのが怖くて寝れない。

目をこすりながら海人さんを見上げれば、布団をめくり隣に横になった。自然と枕から腕枕へと変わり、優しく抱き締められる。

「か、かいとさん……」

「ん、」

「風邪……うつっちゃいますよ」

「それで夏希が治るなら移ってもいいよ」

「海人さん!」

「ハハ、」

軽い笑い声が聞こえる。
先程よりも近くなった金の瞳。覗き込めばそこには自身の姿が映し出されている。私の瞳にも、海人さんが見えているのだろうか。お互いにお互いしか見えない。そんな小さなことでも、普段は閉まったままの独占欲が嬉しいと感じてしまう。

「大丈夫、ここにいる」

「……っ、」

「……たとえ見えなくても、触れ合うことができなくても。夏希が必要とする限り、ずっと側にいるよ」

「……海人……さん?」

「おやすみ、夏希」

額に落とされる小さな温もりとリップ音。
親鳥に包まれる雛の如く、愛しさの溢れる胸の中でそっと瞳を閉じた。





「…………ぁ……」

目を開けると、見慣れた白い天井と照明が見える。
涙で視界がぼやけて、泣いていることに気づいた。直前までどんな夢を見ていたのか思い出せない。確か幸せで……覚めてほしくないと思ったことだけは覚えているのに。

夢なんてそんなものだ。
曖昧で、不確かで……現実じゃない。

「……っぁ……ふ、」

なのに、

何故だろう。涙が止まらない。寂しくて仕方がない。幸せだけど苦しくて、嬉しいのに辛い。心がバラバラになってしまいそうだ。胸が張り裂けそうで思わず胸元の服を強く握る。

「……ぁ……っ…」

雨のように次々と流れ落ちる涙を拭う。クリアに見えた視界の先には、1つの枕が見えた。主がいなくなってしまった青い枕。お揃いにしようと一緒に買いに行ったっけ。海人さんの形見の品は少しずつ整理しているが、どうしても寝室は片付ける気持ちになれなくて、寝具やクローゼットの服はそのままだ。海人さんの枕にそっと頭を乗せれば、微かに海人さんの匂いがする気がした。


「……っかいと、さん」



本当に、俺と居て後悔しない?



いつか問われた言葉の重みをずしりと感じる。けれど海人さんと過ごした日々に後悔はない。例えあの日に戻ったとしても、私は何度でも同じ答えを出すだろう。

それでも、この寂しい気持ちを飲み込むにはまだまだ時間がかかりそうだ。

「……っ、」

唇を噛みしめ、痛いほど指輪を握りしめた。







ひとしきり泣いた後、熱があるのと泣き疲れたので気づけば再び眠っていた。次に目が覚めたとき外は夕暮れで、不思議なことに少し身体が軽くなっていた。枕元に置いていた体温計で測定すれば、37.6℃と表示されている。朝は40℃あったことを考えると、大分下がってきていた。午前中に受診した医院でも普通の風邪でしょうと言われている。

「良かった……」

ホッと息をついて、リビングへと向かう。ガチャリと扉を開ければ楽しそうな声が聞こえてきた。

「あ、ママ!」

「「だいじょうぶー?」」

駆け寄る3人の子どもたち。自然と笑みが溢れる。それぞれの頭を撫でれば嬉しそうに笑う。

「六道さん……ありがとうございます」

「体調はどうですか」

「熱も大分下がりました。1日ゆっくりできたお陰です。六道さんが来てくれて本当に助かりました」

「そうですか」

素っ気ない口調。それでも、子どもたちを見ていれば分かる。六道さんがいかに気を配って今日1日を過ごしてくれたか。六道さんの優しさが伝わる。

「既製品ですが、無いよりはマシでしょう」

「夕ご飯まで……本当にありがとうございました」

ダイニングテーブルに並べられた食事。スーパーで買ったものだろうか。すでに食べ始めていた子どもたちの好物のものばかりだ。

「ママ」

「なに?」

空がそろりと歩きながらお椀を持ってこちらに来た。しゃがんで目線を合わせれば、少し照れたような顔。

「むっくんとね、調べながら作ったんだ。ママ朝ご飯食べてなかったから。どうぞ」

「!」

受け取ると、ほんのりと温かい。器に入っているのは真っ白なお粥に卵が混ぜられたシンプルなもの。お米の優しい美味しそうな匂いが鼻を通り抜ける。

良かった。薬は飲んだ?

「…………っ、」

思わず、涙が溢れた。
空が不思議そうにこちらを見る。小さな頭をそっと撫でた。

「ママ?」

「ごめんね……っうれし、嬉しくて。空が作ってくれたお粥、大事に食べるね」

「うん!」

涙を拭いて空を抱き締める。お日様の様な温かくて心地良い体温。私の大切な、家族。

「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」

ガチャリと扉を開ける音がした。思わずハッと振り向いて、頭を深く下げた。

「っ六道さん、ありがとうございました」

「……お大事に」

スッと消えた藍色の影。
今度、きちんとお礼をしよう。何がいいだろうか……。

悩みながら、子どもたちと夕飯の席につく。
手を合わせて、口を開いた。




「いただきます!」











***



悠汰さんの海人くん亡き後のお話を拝読して、思い浮かんだ話でした。久しぶりに一気に書けたので、内容が迷子にならなくて良かった……。

大切な人を失った悲しみはきっと、癒えるまでとても時間がかかりますよね。ふとした時に思い出しては悲しくなったり、苦しくなったり。けど、夏希ちゃんの周りには海人くんが繋いでくれた人が沢山いるから、笑顔にもなれそうですよね。子どもたちはボンゴレメンバーやお兄さんなど皆に支えられて大きくなるイメージです。

駄文失礼しました。