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海の夢

っぱ先輩はいいなぁ〜/私の周り 変な人ばっかりで……

――石黒正数『ネムルバカ』より



この頃よくこういう気持ちになります。
普通の人ってそんなにたくさんいないんだよ。

書こう!ということが今日はないので普通の日記を書きます。


十四時半に目が覚める。
携帯電話に着信は入っていないから、休日出勤をする必要はないらしい。今日は大切な話し合いが行われているのだ。
私がそこに呼ばれなかったことに関して特に不満はない。明日何も知らないと言う顔をしていちからそれを聞くのは面倒だと思うけれど。
冷蔵庫から昨日買っておいたパンを取り出して遅い朝食にする。とりあえず洗濯機をまわすとふたたび布団へ潜った。
出掛けて買わなくてはいけないものがあるし、車のガソリンも切れかけているのはわかっている。けどしゃきりと起き上がる気持ちがわかないのだ。
外で蝉が鳴いていたのだけどあれは夢の中のことだったのだろうか。

ふたたび目を覚ますと十九時だった。一日を潰す駄目な流れに乗ってしまった。夢を三つほど見て、そのどれもに海が出てきた。真っ青な色をしていて、いずれもそこに辿り着くことはかなわなかった。家の裏道をまっすぐ抜けるとバス亭がありそのバスで麓の街まで降りることができ、その向こうには海がある。そうした夢の中でしか正しくない地図を私はいくつか持っていた。海へとつづく家の裏道など、現実にはないのだ。

家族から連絡をくれと言われていた連絡をずっと無視していたことを思い出す。この頃別件で暗い気分になることが続いていて、話す気持ちになれていなかった。気分を変えるためにお風呂に入ってから電話をかける。母は風邪をひいているというので、××先生(作家さん)も風邪らしいよ、と伝えておいた。おだいじに。

京都の丸善で買った本を取り出す。カバーの「丸善」の文字を見ながらあの店のたたずまいを思い返す。丸善が戻ってきてくれたのは嬉しかったが、ジュンク堂のあのお店にもう入れないのはそれはそれで寂しいなと今更ながら思う。本屋の良さってどこにあらわれるのだろう。私が京都で一番好きだった本屋はどこだろう、と考えてみるも答えは導き出されなかった。
この世に読みたいと思う本が無くなったらそのとき死ぬと思うのだけど、行きたいと思う本屋が無くなっても死ぬかもしれない。


〈昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ歸りゆく水〉
『現代秀歌』より
(原典は田谷鋭『乳鏡』)


京都の帰り、岡山から香川へ渡るマリンライナーの中でこの歌を見つけた。電車を降りたあと、香川で生まれても一生のあいだほとんど海を見ない人もいるのだろうなとなんとなく思った。いつでもあるものはいつかを使って見に行くことをなかなかしない。こうして海を渡っているときにふと海があることを意識する。海の夢を見たので読み返したくなった。

〈きみに逢う以前の僕に遭いたくて海へのバスに揺られていたり〉
(永田和宏)

〈時に、あなたと出会うまえの、もっと暗く絶望的(デスパレット)だった時期の自分にもう一度会ってみたくなることがある。〉

(永田和宏『現代秀歌』より)


そういえば『ネムルバカ』にもひたすら海へと車を走らせる話があったなあ

昼間にたくさん惰眠を貪ったので眠気がなかなか起こらない。明日は早めに行かなくてはいけない。……寝て食べただけの一日を嵩まししてなんとか日記にできたのでそこはまあ良しとする。おやすみなさい。



檸檬一顆



善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて……
――梶井基次郎『檸檬』



爆弾こと檸檬を、丸善にしかけてきた。
長いこと機会をにらんでいたのが、ようやく願望が果たされたわけだ。
京都にある丸善といえば言わずと知れた梶井基次郎「檸檬」の舞台である。

高島屋の地下で檸檬を買った。アメリカ産のものもどうだろうとためらって国産のものにしたが、あとで原典をあたると「産地だというカリフォルニヤ」とあるからアメリカのほうで良かったらしい。なんだ。

こっそりと手に持った檸檬のつめたさは私の神経を張り詰めさせた。私も手はふだんから温かいほうなので、ひんやりとした丸みは心地が良かったけれどそれはある意味本当の爆弾のようにも思えた。

地下一階、エスカレーターの横に申し訳程度に檸檬置き場は設けられていた。置かれた籠の中にはすでに四つの檸檬があったが、触れてみれば本物は二つだけだった。
すぐ近くに店員がいて、まっさきに檸檬を置くことはためらわれた。地下二階に降りて、「檸檬」の視点人物のように洋書の棚の前に立つ。「本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて」と書いていた通り無数に引かれた原色のライン。
手にした檸檬と同じ色の背表紙にばかり、この日はとりわけ目がいった。
喫茶店が併設されていて、ショーケースに檸檬の形をしたデザートが並べられている。心ひかれたが今回は食べずにおく。

再び上に戻ると、さっきより客数が増えていた。誰も檸檬置き場には注目していない。やがて私は籠に一顆の爆弾をしのべた。あっけなく、しかし不思議な気持ちになる瞬間だった。

音も立てずその場を離れて、ようやくゆっくり本を選ぶ。
手の内には檸檬の香りがしみこんでいて、それが抱き締めた本の表紙にうつっていくのを予感のように知ったのだった。


「丸善篇」おわり(なんだこれ)




風船花束

教えせずとも、あなたは、
いつか私を見掛ける。

(太宰治「待つ」より)

待つ(青空文庫)



『女生徒』の文庫を買いました。
「女生徒」はそのむかし大学の空きコマに青空文庫で読んでいて、時間がきたのにあまりに目が離せなくなり(好きになって)、とりあえずそのまま全文印刷して歌会に持ち込んだら「なんで女生徒?」と言われたのが思い出深いです。
でもその子はそのあとさらりと「女生徒いいよね」って言ってくれた。私はそのひとのそういうところがいいよねと思った。
これは梅佳代さんの表紙ですが今はまた違うデザインの素敵な表紙になっています。ルヴォワールシリーズやペンギン・ハイウェイも描いているくまおりさん。
青色のなかで青い傘をさす女生徒。
「角川文庫」の文字の入りかたがいいです。

おおさかにきています。こうして呼んでもらって手伝いにくるだけならいつでも歓迎なんですけどね。やってる仕事じたいは好きです。
電車に乗っているとここで知り合いがいたら「どうしてあいつがこんなところに」とか思われるのかなと思ったりします。
いないはずの私がたまにどこかの駅にぽつりと立っている。

〈その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。〉
――「待つ」より




釣巻和『のの湯』


学生のとき、夜中にあてどもなく自転車を走らせて(堀川御池の北のへんだったような気がする)急に銭湯へ立ち寄ったことがあります。
あのときのお湯はほんとうに気持ちがよかった
あれが私の銭湯の原体験です
銭湯はいいよ(たまにしか行かないからかもしれないけど)
出てくる女の子みんな愛らしいのでマルします。

篠原美樹『魔女調伏師は闇に笑う』


魔女調伏師と書いてヘクセンバナーと読む。
呪術をめぐる殺人事件の捜査をする話なんですが犯人は序盤で推測がつくしサラサラと話が進んであっさり終わるのでミステリというよりは、美形の主役ふたりを楽しむ本でした。私には。たぶん二巻はでると思います。



欲しかったのに買うのを忘れた本。

血の上を歩いているか?



草屋には胃病の娘が坐っている。

―――萩原朔太郎『猫町』



部屋にあったのを何となく読んでいました。
むかし「猫町」でミステリを考えたことがあってずっとその内容を忘れ去っていたのだけど読んだら思い出しました。でも書けない。

猫町といえば……と

ひっぱりだしてきたのが『本屋の森のあかり』。
「猫町」がテーマの回であかりが失恋してしまうという。失恋そのものの瞬間よりあとから時間差であかりが泣く場面のほうがぐっとくる。

『猫町』に入っているなかでは「この手に限るよ」「群集の中に居て」が好きです。鉄筋コンクリートはだいぶきてますね。きてるとは思ったけどよりきてた。

ニュースみたら大変なことになってておぉ……と思いながら荷づくりをする。実はその時間帯に偶然そんな話をしていたので驚いた。
とにもかくにも早く落ち着きますように。

荷づくりにあたって時計を買った。ずっと壊れっぱなしで着けていなかったのでこれで社会人復帰というところ。
うまくいけば明日の夜には島を脱出するのだ。
というわけで明日は早起きをしなくてはいけないのでもう寝ます。
猫町っぽい写真を探したけれどなかったので桜の写真でもあげておこう。煙草屋さんの画像ください。

たまに、いま血があったのではと、道を通るときにはっとブレーキを踏むときがある。
何かがそこで轢かれたあとのような色が見えたような気がして。
あと、桜はもう散ってしまったのだろうか。地面に敷き詰められた色は子どもらなどに踏み荒らされているのだろうか。
など。

町には一瞬では判別をつけにくい「錯覚」があふれているのだ。猫町しかり。


夢の中でめちゃくちゃ荒れていた。夢でよかった。賭博で負けるような夢だった。




えほんBARに行きたい

夜走る

そろしいほど子どもだからだ

―――高屋奈月『星は歌う』



仕事中に台詞だけがぽんと舞い降りてきて、何の作品だったかが思い出せない。
帰宅してようやく判った。

恋人がいる男の人に気持ちを伝えて断られて、その理由を女の子が尋ねる場面。
どうしてだめなのか。
立場上いけないのか、恋人がいるからなのか。
相手はその両方だと答えてから、上の台詞を付け加えた。

こんなことを言われては誰であろうと、とても立つ瀬がない。威力のある台詞だ。
自分もおそろしいほど子どもだったときがあるし、今もあるんだろうなと考えると身体のどこかに穴が開きそうな気分になる。




風邪が治ってから色々なものを食べた。
お寿司も食べた。今日ようやくグミを食べた。

でもまだファミチキを食べていない
ファミマに寄って、ファミチキを買わなかった。とりわけファミチキが好きということはないし、いつも買うというものでもない。
ただ今日は品定めをしたかもしれない。あまりに身体に悪そうなものに思えて、少し敬遠した。

ふらりと寄ったコンビニで、ふらりとファミチキを食べていたころの自分は何も考えていなかったように思う。食べたいから食べる、ただ欲求のままに空腹を満たしていた。
しかし体調を崩してから、その行為は体力はもちろんのこと、自分のどこかに無頓着さがあったからこその行動だったのだろうなと考えるようになった。
自覚しているつもりで実際はエゴだけに沿っていた。
本当に何も考えずにただファミチキを食べていた私。

それなのに少し疲れが出たら、ファミチキを恐れる自分がいる。身体はもう受け付けられるはずなのにまだ遠ざけている。
ファミチキを食べるという行為を違う側面から見て、ファミチキとの関わり方を省みている。

こういうことは食事に限らず、これからどんどん増えていくのだろうか。
日常の中の脂っこい出来事も甘い出来事も、好きなだけ好きなようには、うまく消化できなくなっていくような変化。
スイパラ行けなくなる現象というものがこの世にはある。スイパラにはかろうじてまだ行けるような気はする。



先日、廻る寿司を食べに出かけた。
流れゆく寿司を眺めながら「他人に感情を向けることが気持ち悪い」とぼやくと笑われもせず普通に引かれた。
今日になってそのときの空気を思い出してじわじわきた。個人的にはその凍りついた空気がけっこう面白かった。
弁解すると私も百パーセントの気持ちで発言したわけではなく、そう思ってる自分もいるような気がしたところに言葉が口からこぼれた。
美味しいから美味しいとは思えないこともこれから先、もはや今から始まっているのでは。





背後から抱きつかれた。
本当に誰かわからず振り返ると、中学生の子だった。
すごく簡単に「好きです!」と言われ笑う。
その軽い「好き」だって「おそろしいほど子ども」と呼ばれる部分のはずなのに、人(私)を憂鬱にさせない。
「おそろしいほど子ども」はどこからがおろかなのだろう。
こうした文章を人に見せていることもおそろしいほど子どもの部分がなせるわざなのだろうか。


夜、車を走らせていると、何とはなしに色々なことを考える時間になる。
でも気が抜けるとびっくりするくらい一日のことを忘れてしまう。あれもこれもあって、あれもこれも考えて思っていたはずなのに。


この文章いっかい口語で書いてから軽いなぁと思ってちょっと堅く直したしたんですけど結果なんか暗いうえに恥ずかしいことになったこれはいかんぞ
と思ったけどファミチキ連呼してるしそれはそれでいかんぞ

前の記事で書いた『ふくふくハイツ』の中の「予感」って、小川未明の「野ばら」のような雰囲気があるなと思った。

自分の誕生花の花言葉を調べたら「愚者」だった。ねぇねぇ。愚者のエンドロール?




「夜を駆ける」がすごく好きです。歌詞も。青い糸!
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