〈夏の終わりの三重奏〉
ってなんだったっけ……と探してみたら坂木司の小説の題名でした。意外と覚えているもんだ。
書店にてこの前『夜の蝉』を買っていく人を見かけて言葉にならない言葉が口からこぼれそうになった。この物語にはその表紙からおよびつかないようなあれやそれやがあって、それらをこの人がこれから体験するであろうと考えると思わず何か言いたくなって仕方がなかったのだ。代名詞が多い。
私は、このシリーズ自体はとても好きなのだけど、三作目の『秋の花』を最後にそれきり手をつけていない。彼たちは開かれないままもの言わず本棚の隅にそっと差さっている。
理由は、端的に言えば『秋の花』のそのまた次作にあたる話が主人公である〈私〉の卒論、そして就職を描いていたからだ。
当時どちらも真っ最中だった私はとてもじゃないが穏やかな気持ちでそんな話を読むことができず、本を他の本の上に積み重ねた。
それが今なお読めずにいるのは、今の私が前ほどがむしゃらに読書をしていないから。
でもあるし、私が〈私〉にある距離を感じてしまったからでもある。
〈私〉は私と同じくらいの歳で、同じような学問の道を志して、私にも共感できる心の動きでさまざまなことに思い悩み、つまづく。
でも私はけして〈私〉になることができない。〈私〉は私の近くにいるようで、私の手にし得ない多くのものも持っていた。
〈私〉の人生が物語とともに進んでいくにつれて、私たちの立ち位置はどんどんと離れていく。〈私〉がいるところは、私が立つことを叶えられなかったところだった。
けっきょく私は〈私〉ほど読書家ではないし、水を飲むように本なんか読めない。ひとりの作家、あるいは作家に対してひたむきに向き合うこともしない。言葉を費やすこともない。
だから悪い、とは思わないけど――素直に受け止めきれなくて、今もなかなか手が伸びないのだ。
〈私〉になりたいと思ったことはない。
人間にはいろいろと種類があって、好きな人と同化したいタイプの人が存在する(と思っている)。私はあまりそうは思わないタイプなので……。
というところまで考えて、でも……と考えあらためる。
私には好きな女の子がいて、その人になりたいとは思わなくて、逆にその人にないもので私が持っている何かもたくさんあると知っている。
知っているけど、もし彼女の持つような言葉で何もかもを語ることができるなら、私の持つあらゆることなんかひとつもなくていい。
……気の迷いのように一瞬、そう思ってしまったのだ。
それは同化したいということとは断じて違う(と思っていたい)んだけど、じゃあどう異なっているんだろう。
知る人ぞ知る、アラサーの人はもしかするとたいがい知っている、speenaの『ジレンマ』とゆー歌があるんですが、その歌をいまとても聴きたくて部屋を探したけどありませんでした。どこやったんや。
でもけっきょく〈私〉や好きな人になったところで私はそれを幸せだとは思えないはず。
辿り着けないからこそよけい特別になってしまうというのはあると思う。
〈私は日の当った風景の象徴する幸福な感情を否定するのではない。その幸福は今や私を傷つける。私はそれを憎むのである。〉
梶井基次郎「冬の蠅」
(引用文は集英社文庫版『檸檬』から)
体調を崩して動けなくなった見知らぬおばあちゃんとちょっとのあいだ一緒にいた。
前にも夏場に同じようなことがあったけど、あのおばあちゃんは元気だろうか。