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わたしの咳のことも知らない

〈さびしさは鳴る。〉

綿矢りさ『蹴りたい背中』から


この書き出しすごくいいですよね。

年末から喉をいためていて咳が止まらないときがあるのですが、そのことを知らないほど話していない人がいることを思い出して、咳をしながらさびしさが鳴りました。喉から。

実はさっきまでうたた寝していて、電話が鳴る音で起きたのだけどその電話が本当に鳴ったものなのか夢の中のものだったのかわからないんです。わかるんだけど、わかってしまうと鳴っていてもいなくてもさびしくなるんです。
さびしさは、「鳴る」もの、私たちを「呼ぶ」ものから強く訴えかけられるような気がするよね!


これ読んだのも『蹴りたい背中』と同じ頃ですね。中学生の終わりごろだと思います。懐かしい、というか赤坂真理だったのか。


〈再生機器忘れてイヤホンだけがあり一人で生きていけてしまうの〉

これは、私が去年つくったうたなのですが、時間をおいてみてみるとあれだなーと思います。
ささやかながらも絶望のうたですね。
自分で言うのもあれだけど私らしいうただなと思います。

学生のころに、イヤホンをはずすと外は雨だった。みたいなうたをつくったことがあって(原稿なくしました)、それもまた私なりの「さびしさ」のうたでした。
ただ一つめのうたとは少しさびしさの種類が違っています。
私は宮部みゆきの『地下街の雨』という話が好きで、天候の災いしない地下街を抜けて地上へ登ったときに雨が降っていると、そのことが裏切りのように思えて心が苦しくなる――――みたいな話なのですが(たぶんそうだった)二つ目のこれはそんなうたです。ふと外に視野を広げたときに取り残されていることの悲しさですね。

〈シャワーを止めた静けさを前にかみ砕けないでいるの〉

矢井田瞳「未完成のメロディー」


何が言いたいかというと、聴覚はさびしさと深いつながりを持っているような気がするんです。宮部みゆきのケースは視覚ですが……身の回りできこえるものが私たちの孤独を呼び起こすし、忘れさせてくれるし、さびしさそのものが時おり音をたてて私たちのそばにあらわれるような。咳をしてさびしかったのよ。






「真夏の通り雨」と「SAKURAドロップス」はどちらも雨の歌で、私のなかでは対になる歌なのですが、両方とも歌の終わりにリフレインが入ります。
〈ずっと止まない止まない雨〉
(真夏の通り雨)

〈好きで好きでどうしようもない〉
(SAKURAドロップス)

繰り返される音そのものが雨だし、鳴りやまないさびしさであるような気がします。


「人から聞かれたことに対して、その答え以外のいらない情報まで話すことがややこしいんですよ。それは相手にとっては余計な情報でしかなくて、聞かれたことに対してだけ本来は答えていればいい」

先日、十九歳の子からこんなアドバイスをされたのですが(どんな状況だよ)……今の日記はまさしくこうした感じになっていますね。余計な情報がぽろぽろぽろぽろ。
けれど余計な情報を無くしたら人は人ではいられなくなってしまうし、無駄なことを一切言わずに生きられる人なんてそういないだろうなと思います。私は言い過ぎかもしれないけどね。



夢を見ました。
夢の中では私は書店員だったのですが、閉店間際にお客様の男の子がお店の中からいなくなってしまって、ご家族の方が探しにこられるんです。・・・もろもろあって、皆で手分けして探していると男の子はある本の中に閉じ込められていて、頁のなかで泣いていました。

・・・ここで目が覚めて、ああ、男の子をまだ連れ戻せていないのに夢から覚めてしまっていいのかしらと考えた結果、あれをしました。

「完全に目が醒めちゃう前なら――――大丈夫だよ!」


あまんちゅで読んだ「一度見た夢の世界にもう一度戻る方法」を実践しました。
まぶたを閉じて夢の世界を思い描いて。

夢から自力で覚めることはたまにするのですが(夢に向かって夢だーーと言うと目が覚める)夢に戻る経験というのはひさびさに体験したような気がします。男の子はふたたび見つけられたけど、頁の中からひっぱりだしたけど、一応……。



なんだか前回の感想が、あんまりよい感想のかたちじゃないなと思ってもう一度読み直しました。主人公の魅力が、作中で推されるほどには私には感じられないのでそこにハテナがでてはくるんですが、ラジオ放送のある種の自由さや臨場感はすてきだと思いました。あとお笑い時代のふたりはよきかなでした。


そういえばバレンタインのチョコレート買いました。(過去最速)





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