〈得体の知れない朗な心もちが湧き上がつて来るのを意識した。〉
芥川龍之介『蜜柑』
これは「
蜜柑」という話の、おわりの一節なのです。
〈えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。〉
梶井基次郎『檸檬』
いっぽうでこれは私の大好きな梶井の「
檸檬」のはじまりの一節。
得体の知れないふたつの感情がはじまりと終わりを彩るのは偶然の符号なのか、意図的な暗示なのか?
私、「蜜柑」を読んだことがなくてこの前はじめて読んだんです。そうすればあら、なるほど。得体の知れない気持ちがここにもあらわれるのかと。
蜜柑での心は、湧き上がって心の蓋をつきやぶってくるようであるのに対して、檸檬は蓋を必死でおさえて心の暴走を閉じ込めようとしているように思える。「檸檬」のほうが作品の成立としてはあとなので、もしかしたらということもあるかもしれない……そうだったら素敵だけど。
なぜ「蜜柑」を読んだのかと言うと、父親から「トロッコ」を読むように言われてそのついでに読みました。
〈何時までも押していて好い?〉
(芥川龍之介「トロッコ」より)
父親はあれを観たのです
『ビブリア古書堂の事件手帖』の映画。
「トロッコ」が出てくるんだなあ。
トロッコはなんだか、ちょっと切なくなる話じゃないですか。よろこびと裏切りと絶望と安心と、いろんな感情が入っているんだけど。
なんかうまく説明できないんですけど、永田和宏さんの言葉をかりるなら、あのデス・パレットな気持ちのなかにもう一度もどってみたい、みたいな。
純粋な感情の爆発を失ってしまった、単調な生活への得体の知れない(ここで使うぜこの言葉!)気持ちというか。
少年の立場から描かれている物語は、喜んだり焦ったりするその姿を可愛く思って、ほほえましく読むこともできるし、とりもどせない喪失感を心地よく味わうこともできるし、絶望を自分に重ねることもできる。
〈これが私の……『トロッコ』〉
片山ユキヲ『花もて語れ(4)』
この巻では「トロッコ」が取り上げられているのです。なるほど朗読ってこういうところを考えて読むんだなあと感心します。
青空文庫のリンクを貼っておきます
「
トロッコ」
わりといろんなことがあったのに物語のはなしだけで言葉をだいぶ使ってしまった。
最近言われて嬉しかった言葉は
「いまの〈くだん〉の使い方、すてきでした」
です。