今からアガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』の感想をおおいにネタを明かして書く……のだが、その前になぜいま私がクリスティを読んでいるのかという経緯から説明するので、知りたくない人はここで帰ろう。経緯を知りたくない人はざっと画面を滑らせて追記ボタンを押そう。
そもそも時間モノ(時間が何らかの主題、もしくは手法として扱われている作品)のミステリを読みたくて適当に手に取ったのがクリスティの『複数の時計』だった。
海外ものをほとんど読んだことのない私は実はクリスティも未読のまま生きてきたような、聞く人が聞いたら暗闇に乗じて刺されかねない読書遍歴を持っている。もう恥ずかしながら白状するとクイーンもドイルもカーもポーも読んだことがない。
それはさておき気が向いたのでなぜかクリスティを手に取った私は『複数の時計』を、案外あっさりと、読んでしまった。
あんなに敬遠していたのに産んでみれば、読んでみれば易しとでもいうのか、国内ものとなんら変わりない態度で読めたし、ポアロという人物もクリスティの描くストーリーも魅力的だった。訳もよかったのだ。
初めてクリスティを読んだ、今まで読んだことがなかった、読んでいきたい気持ちはある。そんなふうに告白するとめちゃくちゃミステリ読んでいて古今東西に精通している大人の人(?)が、「私も十冊ちょっとしか読んでいないよ」と教えてくれた。
十冊ちょっと……
それなら頑張れば私も追い付けるかもしれない……
そんなふうに思ってしまったのだ。
私が本を買うお店には、ハヤカワの棚がある。
クリスティの棚はそのうち二段ある(二段しかないと言うべきなのかもしれないが)。前述した通り私は海外ものをほとんど読んではこなかったのだが、このハヤカワの棚はどうしてか以前からずっと好きだった。クリスティの二段から始まり、SF、ノンフィクション、そして創元推理文庫の棚へとなめらかに繋がっていく。その流れを見るだけでも心が弾んだ。そこには独特のロマンが秘められているような気がした。なお、この文章は深夜に書かれている。
最近では若者に向けた文庫の新レーベルが続々と立ち上がっていて、きっとこの先このハヤカワの棚も縮小されてしまうのかもしれない……それなら今、読んでおくべきだし買っておくべきだろう。そんな思惑もあっ……あった。
というわけで、これからしばらくはクリスティ強化月間にしよう。そんなふうに決意した。
ちなみに現時点でまだ三冊しか読んでいない。
『複数の時計』は思っていたほど時間モノではなくてその点では残念だが話自体は悪くなかった。コリン・ラム氏がうまく私を物語世界へと導いてくれた。
ほんとうに真相にふれているので読んでいない人は気を付けるのだ
アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』
あらすじ
シェパード医師にはキャロラインという好奇心旺盛な姉がいて賑やかに暮らしている。
ある日、村の地主であるロジャー・アクロイドのもとを訪れたシェパードは、アクロイドが想いを寄せていたフェラーズ夫人が脅迫の被害に遭っていたという事実を告白される。
アクロイド家から帰宅したシェパードのもとに一本の電話が入った。誰からのコールか判らないまま受話器を持つシェパードの耳に飛び込んできたのは、先刻まで会っていた筈のアクロイドが死体となって発見されたという内容で……。
アクロイドは自室で死んでおり、その犯人をつきとめるべくシェパードとその隣人エルキュール・ポアロ(実はこの村に引っ越してきていた)が調査を開始するという話。
端的に言うとシェパードの目線で語られていた物語は始めから終わりまで彼の手記であり、シェパードにとっての不都合な事実を隠蔽した叙述トリックとして用いられていたという真実が途中、ポアロによって明かされる。明かされてなお、読者はその嘘に踊らされてしまうという、いわば二重の叙述トリックのような仕掛けが施されている。
地の文が犯人にとってほどよい沈黙を持つ手記であるということを知ってなお、私はシェパードが犯人ということに気づけなかった(というかそこに至るはっきりとした推論を持てなかった)のですがみんなそんなことないんですかね。
ポアロは関係者から話を聞き、ひとつずつ可能性を消したり生んだりして、こつこつと真相に迫ってくる。この一枚一枚ヴェール(ベールでなくヴェールって書きたかった)を剥がしていくような探偵の確実な歩みが、犯人の視点に立つと、いや立たずとも、すごく怖いんですよね。そしてその推論はいずれも腑に落ちる、理にかなったもので、着実に犯人は追い詰められていく。
でも犯人は犯人で、なかなか本当の顔を覗かせようとしないのでその駆け引きがめちゃくちゃ熱いんです。けど終盤、探偵の言葉により、犯人の保ち続けていた冷静さが瞬間的に破壊される。
仮面が外れてそこから、人間の持つ狂気が読者へと暴かれる、この行程!
これがミステリの醍醐味なんです!
ミステリ読んでいてこういう瞬間に遭遇することがすごく好きだし、ミステリの持つこの取り返しのつかない雰囲気が私の心を捉えて離さないのです!
という感じで私はもう読みながら嬉しくなってたまらなかったです。
アクロイドは、探偵が犯人を追い詰めていく描写もとてもよいのですが、探偵が犯人と対峙してからの二人のやりとりがまたサイコーです。
まず章題からして「そして真実があるだけ」ですからね。めっちゃかっこいい。
〈一分ばかり、死のような静寂が続いた。/それから、わたしは笑い声をあげた。〉
この感じね!人間の心の崩壊が始まっていく予感ね!
淡々と会話を終えて、最後に犯人は静かにその場を辞するのですがその別れ際もすごく好き。
そして探偵ポアロは犯人に「逃げ道」としてある提案を投げ掛けます。
〈……たとえば、睡眠薬の飲みすぎという方法もあるでしょうね。おわかりですか?…………あなたの大変に興味深い手記を完成させることをお薦めします―――ただし、これまでのような控え目な表現はなさらないように〉
この台詞はのちに犯人の
〈それから――何にしようか? ヴェロナール?〉
という独白に繋がってつまり……沈黙を守りたくば睡眠薬を飲んで自殺せよということをポアロは提案したということになる。
初めに読んだときは何てこった……と思ったけど、可能性としてひとつの想像が私のなかにはある。
〈だが、姉は決して真相を知ることがないだろう。ポアロがいったように、逃げ道がひとつあるのだから……〉
〈これを書き終えたら、手記をそっくり封筒に入れ、宛名にポアロの名前を書いておくつもりだ。〉
〈というわけだから、ヴェロナールにしよう。〉
要するに最後の章もまた、彼の手記であるということ。そこに書かれていることがすべて真実かどうか、実行に移されたことかどうかは誰にも知る由がないのだ。本当にヴェロナールを過剰摂取したのかどうかも……。
ポアロの示した逃げ道とは自殺することではなく、自殺をほのめかせて手記を完成させよ、ということだったのではないか。
ついそんな望みをかけてしまう。
ただおそらく、ポアロは私がかけた望みよりははるかに冷たい人だと思う。
アクロイド殺しの真相に関しては知識が皆無のまま読んだのでそのことは至極幸運なことだったと思う。それに今まで自分が読んできた作品がどれだけクリスティの影響を受けているのかということも思い知らされた。
そうそうこの感じが私の好きなミステリの世界なの、と改めて知ることができた読書経験だった。
切迫した姉弟小説としてもたいへん好きな物語でした。キャロライン好きだし物語のあとのキャロラインを思うと胸が痛くなるけど最後の犯人の〈姉〉に対する独白はなにものにも代えがたい価値があるね。
この犯人はとても好ましい。冷静で狡猾で悲しみをたずさえて、けれど自分の悪を最後まで否定しないところが。
あとこの作品に関しては笠井潔先生の解説がとてもよい役割を果たしていたと思う。
麻雀の場面が意味がわからないけどすごく楽しそうで好きです
ミステリを読んでいる人々にとってはこれほど恥ずかしい感想もないだろうが、いちおう上に書いたようなことが今の私の素直な気持ちである。
本の感想