〈春は曙そろそろ帰ってくれないか〉
       ───櫂未知子

そんな俳句を思い出したのは、深夜の明かりの中に子どもを見つけたあと。
あかあかと灯る光と、大きく響いている子どもの声。どちらも真夜中には似つかわしくないよ。そんな時間に出歩いている私が言えたことではないのだけど。

高校時代に書いた自分への手紙を五年ごしに投函してくれた先生から郵便が届いた。お礼の手紙にさらなる返事をあててくれたのだ。
美しい文字、こまやかな挨拶、丁寧に折り畳まれた便箋。ぴんと張った白い封筒。
そのままお手本として掲示できそうな先生の手紙は、私があてたものとはまるで違っていて、先生は手紙の上でも「先生」として存在していた。
逆立ちしても書けないような手紙を眺めながら、彼女はどうしても私にとって「ふみさん」であるということを実感した。
こういう手紙をいつか書けるようになりたいと思うことは、月が欲しいと泣くよりはいくらか現実的だろう。
(ふみさんとは『ななつのこ』という話に出てくる人の名前です)


という日記を言葉は違えどもう少し長い文面で書いていたのだが、全て消えてしまった。書き直したものもこれまた全て消えてしまった。死んでしまった三千ほどの文字たちを思えばもうだめだ、と、それしか浮かぶものがなかった。
〈春は曙そろそろ帰ってくれないか〉
それは、私に対しても切れ味を持つ言葉だった。誰かのために使わない夜なのに、寄り道をして、小さい子のことにぐびぐびと管を巻いて何をしているのだろう。自分のためにもう帰ろう。

というわけで帰宅したのち新たに日記を書いている。家に戻ると家のテンションになるね。

帰りに桜が花をひらき始めていることを知る。夜に見る桜はこの上なくおそろしい。見上げると殺されてしまいそうだ。


手紙を介して先生ともう一度会ったように、本にも出会いと別れがある。本は生きていて、少し年月をあけて再会したときに「もしかして今、好きな子いるの?」「ちょっと年、とった?」くらいの変化はとげているものなのだ。

吉本ばななさんちの白河夜船ちゃん(だいたい同い年)、今日見かけたとき帯に「映画化!」の文字が踊っていてたまげた。

夜船ちゃんとは真夏の真夜中に、寝ぼけまなこで話をうかがったとき以来だがそんな映画になるような派手な子ではなかったのに意外だった。(しかも不倫してたし)


四月はお別れが待っていて、今からもう寂しい予感を携えて月が変わるのに備えている。犬が亡くなったのも四月だし、君がいなくなってしまうのも四月だ。犬にお花くらいは供えようかな。

春の花でもっとも好きなのはあんずの花です。
〈いきいきと死んでゐるなり水中花〉
      ──同じく櫂未知子
この俳句もすごく好き。


清少納言ってFacebookとか上手そうだよね。紫式部はpixiv派だと思う。




〈あの中で朝を迎えるような恋、と指さしてみるコイン精米〉
     ────あお


おそまつおそまつ。