ピピ、

「………、……」

時間を告げる携帯のタイマーが鳴る。見えないようにトイレの棚に置いた細いスティック状の白い物体。微かに震える手で、それを取った。その中心に丸く開けられた2箇所の窓。何度も読み込んだ説明書の通りならば、右側は検査が確実に行えたという証。そこにはブルーの縦線がしっかりと記されていた。反対は……。

「…………ぁ……」

濃いブルーの線が2本。

それが示す結果に、思わず息を呑んだ。そして、始めに浮かんだ言葉がどうしよう≠セったことに自分でも愕然とする。それは嬉しさや喜びからくるものではなく、不安と戸惑いだったからだ。これからのことを想像して、目をギュッと閉じた。不安からこみ上げてくる涙がポタポタと膝に落ちていく。

「……っ、」

(……ごめ、んなさい……)

素直に嬉しいって言えなくて、ごめんね。
自分の事ばかり考えて、ごめんね

「…………」

ようやく動けるようになったのは、日もどっぷりと暮れ、月が登った頃だった。





週末に入りやっと仕事が休みの日になった。普段年に一回がん検診でしか訪れない産婦人科の門を潜る。待合室にはお腹の大きい妊婦さんが幸せそうにエコー写真を見ていたり、妊婦雑誌を眺めていて……何だか急に場違いじゃないかと思い、俯く。

受付に保険証と診察券を提出し、代わりに番号札を受け取る。程なくして番号が呼ばれ、ガラリと戸を開いて診察室へ入った。素っ気ない態度の医師に内診室へ入るよう促され、隣の部屋へ入る。そこで下着を脱いでスカートの裾を捲り、内診台へ座った。看護師さんの明るい声で「台が上がりますよ」と告げられると同時にクルリと椅子が回転して上昇し、股を開くような形で停止する。これは診察だと思いながらも、羞恥心と恐怖でいっぱいになる。何度やってもこれに慣れることはないだろう。

「お名前は?」

「……あ、えと……つ、継峰夏希です」

「はい、継峰さんね。診察始めますよ」

ピンクのカーテン越しに先程の医師の声が聞こえた。緊張で言葉に詰まりながらも名前を言えば、夫以外触れたことのない場所へ無造作に器具を入れられる。

「っ、」

違和感と微かに感じる痛みを、ギュッと手を握って耐えた。怖々目を開ければ、こちらからも見えるようにと設置された小さなモニターに黒い扇状の映像が写し出される。医師がカチカチと機械をさわる音と陰部に挿入された器具を動かす度に映像が変わっていく。

「あ、うん。間違いないね。ちゃんと子宮内に妊娠してるよ」

「……、にんしん……」

「はい、じゃあ支度が終わったら隣の診察室ね」

映像を見ていても何がなんだかよく分からないまま診察が終わる。妊娠してるよ≠サの言葉だけがぐるぐると頭の中を回っていてどうやって内診台から降りて身支度を整えたのか記憶にないまま、気づけば診察が終わり手には小さな写真を渡されて指導室とかかれた部屋に通されていた。

「継峰さん?」

「え、あ……はい」

目の前の看護師さんが何やら説明してくれていたのに、ボーっとしていたせいで聞いていなかった。慌てる私に、小さく微笑んだ。

「妊娠おめでとう……でいいのかな」

「………っ…」

手を強く握り、俯く夏希。意思とは関係なくポタポタと流れる涙に気づくと、ティッシュを渡して肩をさすりながら、黙って落ち着くのを待つ看護師。

ゆっくりと口を開いた。

「さっきもらったエコー写真、持ってる?」

「っ、はい」

はがき半分くらいの大きさの白と黒のだけで写された紙。その中央の小さな黒い楕円を指差す。

「これがね、赤ちゃんがいるお部屋の胎嚢で、その中にある白いリングのようなものが卵黄嚢っていうのよ。継峰さんの最終月経とこの胎嚢の大きさからいうと、今は妊娠6週目に入ったところね」

「…………」

「……ここにはね、色々な事情を抱えた人が来るわ。だから、これは皆に言っていることよ。もし、赤ちゃんとさよならしなくちゃいけないとしたらなるべく早めに来てね。赤ちゃんの成長スピードはとても早い。21週までは中絶できるけど、12週以降は普通のお産のように出産することになるし、死産届や火葬、納骨も必要になる」

「……っ、」

「継峰さん、抱えているものがあるなら何でも相談してね。私じゃなくても、色々な相談機関もあるから後で受付からもらえるように言っておくわ。次の受診は2週間後になります。それまでに……ご家族ともよく話し合ってきてね」

「…………はい」

「もしそれまでに多量の出血があったり、つわりが酷くて飲食出来ないようなら連絡してね」

「分かりました」

バタン、とドアを閉める。
それからお会計を済ませて次回の予約表と一緒に資料
を一式渡された。

「次回は2週間後の同じ時間で大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫だと思います」

「気をつけてお帰り下さい」

産婦人科の入り口から出て車に乗り込み、ふぅと小さく息を吐いた。

「…………やっぱり、妊娠してたんだ…」

いつもと変わらない下腹部にそっと手をあてた。いつもは規則的にきている生理がこない以外には思い当たる症状もない。けれど妊娠検査薬での結果に加え、医師の診察でも貴女は妊娠してますよと言われれば、その通りなのだろう。

(…………っ、どうしよう……)

愛する人との子供ができたのに、ただ嬉しいと素直に言えない。父親である海人さんへの連絡も躊躇している私は、なんて酷い親だろう。

ギュッとハンドルを強く握り締め、エンジンをかけた。ポツポツと雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーを動かし、シフトレバーをDへ合わせる。

そう言えばあの日も雨だったなと思い出しながら、アクセルを踏んだ。





その日は、朝から大雨だった。

記録的豪雨になるかもしれないと繰り返しニュースで言っていた。兄からも気をつけるようにと連絡をもらい、返信してから就寝した。

空人さんが亡くなったと訃報が届いたのは、深夜1時だった。滅多にない海人さんからの夜中の電話に、嫌な予感がしたが実際に訃報を聞いて全身の力が抜けてその場に座り込んだ。最期を看取ったのは海人さん1人だったと言う。感情のない声で話す海人さんに、早朝仕事を休む連絡をしてすぐイタリアへ行くことを決めた。

近親者のみで行われた葬儀。喪主として立つ海人さんは、真っ白な顔で淡々とやることをこなしているようだった。泣いている人も、俯く人も、怒る人もいるなかで、ただただ……静かに見送っている海人さんがとても痛々しかったのを今でも覚えている。

葬儀も終わり、明日は日本へ帰る日。海人さんは諸々しなくてはならないことがまだあるらしく、暫くイタリアへ残ることになった。
就寝前に海人さんの部屋へ向かった。ノックをしても返答はなく、ドアノブに手をかければ鍵もかけられていない。ゆっくりとドアを開ければ、月明かりしかない真っ暗な部屋で、1人ベッドに腰掛けて座る海人さんがいた。聞いた話ではろくに食事も取らず、一睡もしていないらしい。今にも倒れてしまいそうな酷い顔色だった。

「…………海人さん」

「…………」

「……っ……」

「…………」

「海人さん、」

「…………なつき…」

何度か問えば、やっとこちらを向いた。かすれる声と虚ろな瞳。いつもは満月のように輝く金の瞳も今日はくすんで見えた。

「…………」

「…………」

痛々しい姿になんて声をかければいいか分からない。「大丈夫ですか」や「元気出して下さい」は違うと分かるけれど、まだ身内を亡くす経験のない私には傷ついた海人さんを癒せる言葉を知らない。それでもこのまま海人さんを1人にする選択肢なんてなくて、抱えるように頭をそっと抱きしめた。まるで外にいたかのような冷たい身体に泣きそうになる。少しでも温かくなれるように、ギュッと力を込めた。

それから、どれほど時間がたっただろうか。されるがままになっていた海人さんの肩が小さく震えた。

「……な……つき……」

「……はい」

「なつき」

「……はい、ここにいます」

絞り出すような、縋り付くような声色で何度も名前を呼ぶ。応えるようにそっと腕に力を込めれば、痛いほどの抱擁が返ってきた。そして、一瞬で背中には柔らかなベッド。見上げると海人さんの悲痛な瞳と視線が合う。

「……海人さん?」

「っ……なつき、」

「かいと、さ」

後先考えずただ感情のまま行為に至ったのは、後にも先にもこの時だけだった。

何度もお互いの名前を呼び、存在を確かめるように肌に触れて強く抱きしめた。いつもはお願いして出発前につけてもらう所有印も、場所を問わずいくつも紅の華を咲かせた。言葉を交わす暇もないほど接吻が続く。お互いの唾液が混ざり合い、溢れ出た愛液がシーツを汚した。堪えきれず出た声が枯れても、何度意識を飛ばしても、陽が差すまで行為は続いた。

誰に言われる訳でもなく、これは愛情や想いを交わすための穏やかな行為ではなかった。まるでそうしてないとここからいなくなってしまうかのような……そうすることでやっとお互いの存在を認識できているような不安や喪失感に駆り立てられた行為だった。それでも、今にも壊れてしまいそうな海人さんが、少しでも救われるならと願った。私自身、愛しい人の温もりで安堵した部分もある。

お互い力尽きて倒れるようにベッドに横になって眠った。その間も抱え込まれるように抱きしめられ、お互いの隙間が無いほどに肌を合わせた。朝日がカーテンの隙間から差し、部屋の中を満たす頃ようやく目を覚ました。

先に起きていた海人さんが用意してくれたカフェラテを飲みながら、ホット息をつくとポツリと隣の椅子に座る海人さんが呟く。

「……中学で……未来に行った時、空人がいたから少なくともあと数年は、大丈夫だと思ってたんだ」

「……」

「……なのに……っ」

堪えきれない感情が、蛇口をひねって出てくる水のように勢いよく出てくる。吐き出すように吐露される言葉の波。思わず手をとった。海人さんは苦笑して手を握り返すと言葉を続ける。

「……先月アレスが逝ったから、嫌な予感はしてた。けど、俺に残り≠渡さなければもう少し長く生きられたはずなんだ……っ」

ハッ、誰が……お前の思い描くように死んでやるか

「最期まで憎まれ口叩いて……」

いい面してんじゃん、おにーちゃん?

「……っ」

「海人さん……」

「ごめん、ごめん……っ」

何に対しての、誰に対しての謝罪なのか。

金の瞳から、いくつもの涙を零す。嗚咽を上げ子どものように泣く海人さんを抱き締めた。痛いほど海人さんの気持ちが伝わってくる。気づけば同じように涙が溢れ、こぼれ落ちた涙が海人さんの涙と混ざり、床へポタリと落ちた。




あれから、2ヶ月経つがまだ海人さんはイタリアから帰って来ていない。けれど、たまにする電話では段々といつもの声色に戻ってきた。それに来月にはまた旅を始めると一昨日聞いたばかり。少しずつ、いつもの海人さんに戻っていて、ホッとした。

「…………っ、おぇ」

堪えきれない吐き気と共に、空っぽの胃から胃液のみがトイレの便器へ落ちていく。
先週から悪阻が始まった。吐いても、吐いても終わること無く1日中車酔いしたような気持ち悪さが続き、食欲もない。味覚すら変化しているのか、普段好物なものでも見るのも嫌だった。水分すらまともに口に出来なくなり今日でもう3日だ。当然仕事も行けず、欠勤も続いている。

「……っ」

結局、あの後受診出来ずに今日まできてしまった。悪阻も始まり、腰や胸もちくちくするようになった。こんなにも身体は妊娠してるよと教えてくれているのに、まだこれからを考えられずにいる。体調不良を理由に向き合うことから逃げて、メソメソ泣いている弱い自分が嫌なのに……どうすることもできないまま、ただ日にちだけが過ぎていった。

ピンポーン、

「…………」

不意に鳴るインターフォン。出る元気すらなく、その場に座り込んだまま無視するが再び音が響く。

ピンポーン、

「…………」

(……だれ……だろう)

早く出なきゃと頭では分かっているものの、身体が動かない。悪阻や不安からか最近はあまり寝れなかったにもかからわず、自然と瞼が降りる。

ピンポーン、

(………ねむ…い)

次の瞬間には、トイレの床へ崩れるように横になった。





「…………ん……」

「おはよう、目が覚めたようだね」

「…………雲雀……さん?」

次に目を覚ました時には、そこは病院のベッドの上だった。ボーっとする頭で声のする方へ視線を向ければ、左手に繋がる点滴ボトルと、いつものように少し不機嫌そうな表情を浮かべた雲雀さんがいた。

「……ここは……」

「並盛病院。覚えてない?最近仕事休んでるようだし、ここ3日ほど家から出てないようだって君につけてる護衛から連絡が入ってね。海人からも風邪で体調が良くないって聞いてたから一応、行ってみたんだ。そうしたら君がトイレで倒れていた」

「…………」

「風邪……じゃないでしょ」

「……っ、」

「悪いとは思ったけど、保険証とか出すのにチェストを開けた。これ、産婦人科の予約票と一緒に妊婦向けの冊子も入ってたよ」

雲雀の言葉に、思わず目を反らした。

「……海人は知ってるの?」

「…………」

「そう、知らないんだ」

「……っ、お願いです!海人さんには……海人さんにはこのこと言わないで……下さい」

起き上がり、縋り付くように雲雀のスーツの裾を掴み懇願する夏希。

「…………」

「……海人さんは……っ今、子どもができることを望んで……ない、から」

「海人が?」

「……詳しいことは、分かりません。でも、海人さんの力と関係あることで……けど、いつか教えてくれるって約束……してくれました。だから、それまでは夫婦2人で過ごそうって私が言ったんです……っ海人さんが話してくれるまで待つって」

「……」

「それに、やっと……やっと空人さんの死から立ち上がったばかりなんです。に、妊娠した……なんて言ったら、海人さんを困らせる……」

「けど、事実君は海人の子を妊娠している」

「……っ」

雲雀の言葉に、俯く。ポロポロと涙が溢れ布団を汚した。そっと備え付けのティッシュを渡しながら、夏希に向かって問う。

「…………それじゃあ君はどうするつもりなの?」

「……わ……かりません……」

「……そう」

妊娠が分かったときから、ずっとぐるぐると頭の中から消えてくれない不安。まるで出口のない迷路に迷い込んだようだ。誰にも言えず、相談できないままここまできてしまった。

……心も身体も限界だった。







「継峰さん、診察ですよ」

「……はい」

雲雀さんと話した日から3日たった。悪阻は相変わらずだったが、点滴しているお陰で全体的な体調は自宅にいたときよりもいい。

「継峰夏希さん……ですね。妊娠悪阻で入院中……と。体重も大分減りましたし、ケトン体もまだ出てますので入院はもう少し続けて下さい。クリニックにはこちらから連絡してありますので、ご安心を」

「……ありがとうございます」

「じゃあ、妊婦健診しちゃいましょう!今日心拍確認できれば、母子手帳をもらってこれますからね。これからお子さんが6歳まで使う大切なものになりますので、退院したら役所で手続きしてきて下さいね」

総合病院らしく、若くハキハキと話す医師だった。促されるまま、内診台へ座る。

「……はい、じゃあ診察しますよ」

「…………」

クリニックと同じように、真っ暗な画面がこちらに向けられていた。違和感と共に画面の映像が動く。

「……っ、ぁ」

「見えますか?赤ちゃんちゃんと大きくなってますよ。こっちが頭で……あ、動きましたね。元気なお子さんだ」

アハハと明るく笑う医師の声。
夏希は画面を食い入るように見つめた。数週間前に見たときは何がなんだかよく分からなかったエコー。今日は、医師に言われるよりも早く人の形をしているのに気づいた。器具を動かす度にひょこひょこ動く姿に胸が熱くなる。

「……あとは……うん、心拍も良好です。見えますか?このぴょこぴょこ動いてるのが赤ちゃんの心臓です」

ドクン、ドクン、

「……っ」

不意に画面から出る音声。ズームされた画面には点滅を繰り返す小さな丸。自身のものとは違いとても早くリズムを刻む心拍。自然と涙が溢れ出た。この子は生きてるんだと、誰に言われるでもなくストンと胸の中に落ちてきて温かな何かが広がった。

「…………っ」

(ああ……わたし、)

今まで抱えていた不安がなくなった訳では無い。海人さんへ伝える勇気も……まだ持ち合わせていない。けれど、この子に会いたいと強く思った。

診察が終わり自室に戻ってそっとお腹を撫でた。まだぺったんこなお腹だけど、この子はここで生きてくれている。大好きな人との愛しい子ども。

「……っ弱虫なお母さんでごめんね」

覚悟を決めるまでにこんなに時間がかかってしまった。きっとまた悩むこともある。けど、この子は……絶対に守ろうと心に誓った。

(……わたしの所に来てくれてありがとう)

想いが伝わるように、そっと瞳を閉じた。








***



色々と……すみません。やらかした感はあります。初めて妊娠が分かったときの夏希ちゃん目線で、産む覚悟が決まるまでのお話でした。私自身赤ちゃんの心拍を聞いたときの衝撃と感動は忘れられません。
海人くんはきっと夏希ちゃんに言われるよりも先に気づくんじゃないかな……。未来編の2人とは違う展開で一悶着ありそうではありますね。けど最後には皆で幸せになってくれたら嬉しいです。以前書いて頂いたお話のようにストーブ1つで慌てる海人くんがいたらいい(笑)
駄文失礼しました。