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エム

しにたい。

しにたくないけどいきていたくないのよ
と思いながら書いてたら充電が無くなって、死はこんなにも不意にやってくるのだと実感した。

〈ガーベラの首を両手で持ちあげておまえ一番好きなのは誰〉

俵万智『サラダ記念日』より



本屋にこの本があって、帯に引用されていたのが
〈万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ〉
という一首で、それだけなのに何だかショックを受けてしまった。感銘とはまた違った感情で、
〈君がほしいと言われたことがない〉というほうの衝撃だった。

サラダ記念日は飛び石をぽんぽん跳ねていくような素敵な歌で、私も私のくらしを追求していけばいつか日常にそんな鮮やかな発見があるかもしれない、とどこかで期待していたかったのだけど。
〈万智ちゃんがほしい〉と言われたことのある万智ちゃんと私ではあまりに前提が違う。

……帯の一文からここまで思考が飛ぶのだ。


小説と短歌の世界は近くにありて似ないもの。
小説を書く作業はつまるところ己の孤独をつきつめていくことだけど、歌はどこかにその歌を宛てる誰かの存在があったほうが詠みやすい気がする。内容にもよるけれど、小説執筆よりも相対的。
小説は逆に制作過程のどこかで他者を排除するような気がする。偏見だよそれ。

創作という点に関してはフィードバックのあり方の違いも大きい。短歌は歌を発表すれば必ず何かしらの反応が返される。歌会がその最たる機会だと思うけど、ひとつの歌があればその場に居合わせた人はその一首に対して、みな何かしらの感想や、推察や、論理を持って、持つだけではなくて、それをぶつける。
小説は……反応が返されることもあれば、全くなにもないこともある。無くても、それそこ孤独に書き続けても許される世界というか。これも偏見だろうか。

そしてこれは本当に偏見が入るけど、学生の活動に関してのこと。
小説は基本的に匿名で、顔が出ることはあまりない。写真を撮っても内輪だけのものになることが多い。内側へのベクトルが大きい。
対して短歌は実名を出すことも、写真を出すこともそれほどいとわない。結社とかもあるしけっこう他者ありきの活動が多くて、個人だけではなく団体活動としてのウエイトも大きい(と思う)。何より恋人がいる人が多かったし、恋をしている人も多かった。というか、好きという感情をみんなけっこうオープンにしていた(ように思う)。外側を巻き込んでの内側。……?

石が飛んできそうですね。

さて、そんな背景の違いがあるからこそ、住みやすい属性みたいなものも知らず私たちの中に潜在しているのでは、と思った。
〈万智ちゃんがほしい〉という日常を持つ万智ちゃんはそれこそ短歌の人。

帯の一文からどこまで思考が飛んでんだ。


でも途中で考え方が変わる。
〈万智ちゃんがほしい〉という文のパンチが強すぎて目がいってなかったけれど、結句の〈花いちもんめ〉という部分。
ここを考えるとこの一首は、満たされているというよりむしろ孤独な一首なのかもしれない。

〈万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ〉

言葉を素直に受けとると

〇〇〇〇〇〈万智ちゃんがほしい〉

●●●●●〈万智ちゃんはあげない〉

というフォーメーションで事態は進んでいるはず。

縁談が決裂して、それまでと変わりない誰かと歩幅を合わせて肩を組んでいたとしても、〈万智ちゃんがほしい〉と、パーンと告げてくれる声のほうに心はひかれている。自分を求めてくれる誰かを待っているのに、だからといって期待にそって進んでいくわけではない。
そう考えると、これはけっこうリアルな歌で、私の予測よりもはるかに近いところから誰と一緒でもなくひとりの心で〈万智ちゃん〉はこの歌を詠んだのかもしれない。

花いちもんめは何の例えなのか、はたまたそうでないのか、ということはあまり大きな問題ではない。

ただ、〈心だけついていきたい〉はちょっとあざとい。それをばらしてしまうところもかなりあざとい。
それが肝なんだけど。

〈万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい〉の流れがあまりに強い、そう思いませんか。とてもしたたか。
そういうところで〈万智ちゃん〉が近いなんて幻想は弾きとばされて彼女は彼方。


……めんどうくさいでしょ。
書いてて気持ち悪くなってきた。




今日の夢は
・中学生になる
・多部未華子、いちごのワンピースでいちごスイーツのお店にいく。(ただし定休日)
・学生の間に宮沢賢治記念館には行っとくべし!という雑誌の見出し。

の三本立てでした。岩手か……。

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