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できそこない論

とばにおきかわる前の、心にぽっと存在するなんとなくの感覚を大事にしている。

言葉におきかえるのがわずらわしいと今日は思っていたはずなのに、夢の中では感情がコントロールできなくて迷惑なほど騒いでいた。正確に表現すると暴れていた。どちらが本音なのでしょうか。







一と二巻が薄暗い恋(というより呪いに近い)の話で、三と四巻はポップに薄暗い恋の話。
一と二で呪詛を吐きあっていたふたりの周りにいたモブAとBが三巻からの主役になるため、三巻からまるきり新しい話になる。僕は三と四巻の話のほうが好きです。

女の子は言葉より行為が先走る(相手のからだの一部を絵の具で塗りつぶしてしまう!)タイプで、男の子は一応「好き」という言葉で結論を出しはしているけれどその言葉がどういう意味を持つかの説明ができない。
ふたりが「好き」という言葉の本質を問い直したところに物語の山場がくるのだけど、はっきりした答えが出たかといえば出ていないしかえって沼にはまっていく。模索するも、また絵の具をとりだして言葉より行為が先にくる女の子。

恋よりも同級生のお姉ちゃんが死んだときのエピソードのほうが人間らしくてより本当っぽかった。
でもその場面は言葉によってきちんと感情の説明がなされているから、説得力をもっているのかもしれない。

うまく説明ができないという状態が大切な意味を持つときもある。ということを、うまく説明できない。たすけて。



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