恒例の夜中の恥ずかしいテンション。
ほぼ昨夜打って寝た。
こんなの打ってる暇があったら宣伝メール送れよ私…。
てゆか、だめだ。ハイデッガーが何語喋ってるのかまるで解らない。千葉まで掛けて40ページも読めなかった。
頑張ろう。ハイデッガーもプラトンもカントも。だけど、本当にやりたいことを見失わないようにしよう。講義はあくまで利用するものなんだから。キリスト教史洗い直して宗教哲学を始めよう。聖書読もう。アイルランドを歴史的にも宗教的にもきちんと深めよう。語学もやろう。本読んで映画観て文章を書こう。
そして芝居をしよう。真摯に。
さて。6月です。
あらゆる意味で大きな分岐点になると思う。話を受けたときから、そう思ってた。
舞台というものに立つのは最後になるかもしれない。だからこそ。
芝居自体、最後でもいいかもしれないと思った。この終わり方は非常に美しいなぁと。
でも、6月13日からどうやって生きていくのか想像できないような私が、手放すなんて無理だと思う。あと1年半。期限はあるけど、きっと意味のない1年半にはならない。
最も尊敬する作演と、最も好きな役者と、三人で作る「死にたい」。絶対後悔なんかしない。やりきった実感で高2秋大を越えてみせる。
あのふたりに恥じない芝居をしてみせる。私の全てを懸けて。必ず。
ときに最近しつこく考えていることがあるのですが。
「好き」と「恋」って何が違うんですかね。
この人のこと好きだなあって、友達とか仲間とかに、男女関係なく思うでしょう。そういう好きと恋愛感情と呼ばれる好きと、みんなどうやって区別してるのかなって。
好きな人には苦しくなってほしくないし、自分で助けになれるなら喜んで助けになるし、一緒に居られたら嬉しい。
そういうものと、+αで何か違うものがあったら恋愛感情になるの?
嫉妬とか?触れたいと思うとか?
でも友達や仲間にも嫉妬することってあるし、わりと私はすぐ手が出て、それが嫌じゃなさそうな人なら誰の頭でも撫でる。あ、でも別に触れたいと思って触れてるわけじゃないな。元気になあれ、とかそういう感じ。
ってことはやっぱり「触れたい」はひとつの要素なのかな。
自分の気持ちも相手が何を考えてるかも全然わからないけど、この人は他の人とは違う。少しでも苦しまないで生きてほしい。自分の存在がこの人の苦しみに作用しないのが苦しい。本音の一端にでもいいから触れたい。嫌じゃなければ、髪を撫でさせてほしい。このまま、何もわからないまま終わるのは嫌だ。
…っていうのは、友達や仲間への「好き」とは、違うのかな。
ああもう全っ然わかんない!!なんなの!わからないのが嫌だ!!っていうかなんで!なんで朝から総武各駅が停まるの!?