足元でクルクルと舞う落ち葉を弄ぶのはわたしの楽しみです。昨日は銀杏が敷き詰められた公園を電車から眺めました。子供達が楽しそうに走り回り、少し窪んだ土地に埋もれるように存在する、あの公園はわたしのお気に入りなのです。黄色い駅で途中下車してしまえばよかったかしら。


身近な死

二〇一二年十二月十二日
わたしの大好きな寂しがり屋でひねくれ屋の愛する祖母が、天国へ向かって歩み出した日。

その二日程前の休日の昼下がり、今日は何をしようかしらと、ぼんやりとベッドの上で半日を過ごしている時に母から実家に戻って欲しいとの電話があったので、その二時間後にリュック一つと、ギターを持ってバスに乗り込んだのです。

家に着くと、いつかの秋の日の姿とは程遠く辛そうにする、祖母がベッドに横たわっていたし、家がぼんやりと霞んで見えた。

病院が大嫌いな祖母は「慣れた場所がいい」と苦しそうに言うと、わたしは困ったように笑ってばかりいたから、亡くなった時に「ありがとう、お疲れ様、早くお家に帰ろうね」と言って、痩せ細ったしわくちゃの手を握り締めました。

死んだら、輪郭が滲むように、ぼやけるように、景色に溶け込んでいくような気がします。黄色がかった壁紙や、白い枕、鮮烈なカーネーションの花に溶け込んでいくような感じなのです。不思議です。

そうそう、あっという間に祖母が死んだ日から、夢にそっと祖母が現れてくれたのです。いつも寂しさを胸に誰かを見送っていた祖母を、わたしと祖母の情景の中で、今度はわたしが寂しさを胸に見送っていたのです。少しだけ振り返る祖母は嬉しそうににっこりと微笑んで、見覚えのある懐かしい坂道を上って行きました。嗚呼、あの坂の先にはバス停があって、何度も会いに来てくれた祖母が使っていたバス停があったから、きっとそのバス停から祖母は天国へと向かったのかもしれませんね。

そんな祖母に向かって、幼いわたしが「おばあちゃん、またねー!」と叫んでいたから、きっとまた会えるのでしょう。

またね、また会おうね。