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死の在処

人の死がどこに由来し、どこにあるものなのか、それは人それぞれ。

今は死の捉え方が変わったように思いました。あくまで個人的なイメージなんですが、昔の日本人にとっての死って「通過点」とか、流れていくものじゃないかなと。その場に留まり続けないで次に繋がっていくような、一つの点。
その結び付きが生であって、残しておくようなもんじゃない。むやみやたらに装飾したりしてってことで、否定じゃない。

なんだろうな。その人が生きているかどうかは、その人の身体機能が表すことなんだろうかと思いました。その人が生きている記憶、現実との繋がりが本人の意識下にあるかどうか。
「死を記憶せよ」とはよく言ったもんだと思うが、それに縛りつけられるのは本来の意味とは違うんじゃと思いました。いや、本来の意味なんかよくは知らんけど。

話がずれましたが、死の捉え方が変わったのかなということだけ。何が悪いも良いもない。何をもって死とするかなんて、本当は法律が決めることじゃないんだろうけどな。
人の「どこに」死を表すものがあるのか汲み取るのは難しいと思います。わからんよ。というか、わからなくて良かったものを無理やり明確にしようとしてるのか、これって。


臓器移植法改正案がどうなるのかなと見ていたらA案が衆院を通ったので、呟いてみました。あんまり気にせんで下さい。話が穴だらけ。他にも言いたいことがあるんですが、うまくまとまらん。

これは当事者になるともっと事情も、見方も変わる。
難しい。
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