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カウンセリングしない?

「あたしと、心中しない?」

きです、いちご同盟。
本文とは関係がありません。


今の読みたいリスト


『ポップスで精神医学』


『名前をつけて保存しますか?』


『天賀井さんは案外ふつう』


『戦略読書』



お風呂の中でことしのことを考えた。
ことしとは個と私のこと。

個………一つの物。一人の人。
私………自分一人に関係のあること。個人的なこと。
        (goo辞書より)

個が私をつくるのかなと思っていたら上の意味をみるかぎり私が個を形成するみたい。
私の好きなもの、読んできた本、聴いてきた音楽、そういうものが個人のパーツになっている。ということだろうか。

作品という個、作者という私、をどこまで切り離して扱うかということも最近よく考える。ある程度の距離をもつべきだと思う。もしくは、全く知らないでいれば純粋に作品だけを飲み込んで幸せに消化できるのかもしれない。

作品は悪くなくても、関わる人間の影響で素直に受け入れられなくなる。人間が作品を不幸にする。
けど作品を生み出すのは人間で、人間を通して作品と出逢ったり更に好きになることもある。
そもそも作品の傍らには人間がいなければいけない。受け止める側にしても、つくる側としても。人間を抜きにして作品は存在し得ないのだから、それだけはどうしようもない。

ある人が歌うのを見ていた。
追い詰められて歌っている様子が、かえって良かった。その夜はステージにも客席にも立ち入ることのできない完璧な沈黙があって、歌と演奏と表情だけがあった。
うたがある人が羨ましくなった。
説明も会話もなくても、うたで表すことができるんだから。
作品という個の中に私がある。だから人間性もその人の持つ真実だけど、作品もそれはそれでその人を写す真実だと感じた。

逃げといえば逃げだけど、言葉にし難い微妙なニュアンスを表すのには今は、うたが一番適していたのかもしれない。

ステージにいるその人は例えていうならサイボーグみたいな感じだった。
十分間、人間味を殺しきるような出来事は、これからどういう歌に生まれ変わるのだろうか。
戸惑っているんだけど、ひとりの人間が虚無になったその先で生まれる作品は、正直知ってみたい。追い詰められて生まれるものを知りたい。


人間が嫌いだから作品も嫌いというのは正しくないと思う、一緒くたにしたくないのに置き去りにもしたくない。この問題は結論がいまだに出ない。


答えは決まっているのに迷っていたいことがある。人の声は関係なく自分で決めればいいだけなのに、どうしても人に尋ねてみたいことがあり、しかしそれを尋ねる時点でひんしゅくをかうことは分かっているから聞けないままでいる。

決まっているけどまだ迷っているのも本当なのだ。わかる? わかるかい?


美少女が占いに行くんです、と話してくれた。
その子も迷っているらしい。
私も占ってほしい。答えを与えてほしい。前向きになれるアドバイスが欲しい。

占いかカウンセリングか、してくれないだろうか。相談が嫌いなところが私の短所だ。




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