雨の日はキライ。
足元は無数の水溜まりと泥濘で埋めつくされ、服や荷物は水滴にまみれる。特に、こんな細かな雨の日には、傘のヤツは己の役割を忘れているに違いない。
風に煽られ、縦横無尽に吹きつけてくる雨粒には、対抗する術すらない。
「ウゼェ…」
糸よりも細い──でも、確実に質量を伴う滴の乱舞を睨みつけ、俺は悪態を吐く。
「え?俺、何もしてないけど…?」
小さく呟いた言葉は、すぐ隣りに居た馬鹿に聞こえてしまったらしい。
的外れな反応をする金色頭をチラリと一瞥して、俺は窓の外に視線を戻す。
「…人の頭、勝手に拭いてるだろが」
「だって、アギずぶ濡れだし」
アギが風邪ひいたら俺が困るから〜。と、意味不明な答えを返し、また俺の頭をガシガシと拭き始める。
「んなモン、放っといたって勝手に乾くじゃねーか。マジでウゼェぞ、お前」
「ウザかろうがなんだろうが、駄目なものは駄目です〜。ってか、俺的には濡れ鼠と化している咢さんを、風呂に放り込みたい気持ちで一杯なんですけど〜?」
少し低めの声で、脅すように言ってみるが全く堪えた様子は無い…どころか、チャラけた口調とは裏腹に、心底心配そうな声で俺を気遣ってきやがる。
「大体さぁ、『面倒臭ェ』とか言って、な〜んで傘差すの放棄しちゃうかなぁ?わざわざ、自分から濡れに行く必要は無いと、俺は思うんですけどねぇええ〜?」
さっきの俺の行動を思い出したのか、少し乱暴な手つきで、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられ、何となく気まずい気分になる。
「ウルセーよ…。どのみちこんな予測不能な雨じゃ、差さしても差さなくても、結局は濡れるじゃねーか」
コイツの言い分は大変もっともである。
だが、大人しく丸め込まれてしまうのは非常にムカツクので、そう反論してみる。
「アギ…。それ、自分でもかなり苦しい言い訳だって…判って言ってるよね?」
「う゛っ……」
起伏の無い声でサラリと返され、俺は不覚にも言葉を詰まらせた。
「……………………………………」
室内に奇妙な沈黙が落ちる。
口を開くのが何となく憚られ、被ったタオルの隙間からそっと様子を伺うと、ジト目でこっちをみてる葛馬と目が合った。
これは…かなり怒ってる気がする…。わざと濡れた事を相当根に持ってるらしい。
「だから、こんな雨じゃ…」
「まだその言い訳をしますか、咢さん?」
俺の言葉を遮った葛馬が──何故か敬語で、これ以上無い程にこやかな…だけど、明らかに嘘臭い笑顔で尋ねてくる。
その笑顔は余りにも恐過ぎた。思わず後退りしたくなるほど不気味な笑顔だった。
俺は内心ひきつりながら、何故か必死に上手い言い訳はないかと考えていた。
葛馬がここまで怒っているのは、俺のした行いが大いに関係している。
ここ数日、東雲市一帯にはずっと雨が降り続いていた。雨はやむ気配がなく、それは今日も相変わらずで、飽きもせずシトシトと降り続けていた。
そんな調子なもんだから、ATの練習をしようにも、当然グラウンドはグチャグチャで使い物にならない。校舎内のめぼしい場所は連日満員御礼状態で、頼みの綱の体育館も、他の運動部連中に占拠されていた。
学校公認の部活でもねーから(そもそも校則違反だ)当然と言えば当然なのだが、その状況に耐え兼ねた馬鹿ガラスが、遂にプッツンしやがった。
いつもの如く、俺様理論を振りかざし、体育館を占領していた奴等を、無理矢理排除しようとしたのだ。
だがそれは、空手部の顧問である暴力教師の手により、ものの見事に返り討ちにされ、とばっちりを食らった俺達は、学校から追い出された。
後先考えず、無謀な事をやらかした大馬鹿野郎は、怒り心頭となった仲間達の手で、懇切丁寧に隅々まで叩きのめされ、校門の前にオブジェとして陳列された。
一方、理不尽にも学校を追い出された俺達は、暴力教師に散々悪態をついた挙げ句、更に逆上させ、その追撃を躱しているうちに、いつしか散り散りになっていた。
学校の外周をほぼ一周近くも追い回された俺は、いい加減うんざりしてかなりやる気を無くしてした。
見失った連中を探す気にもならず、雨の中をフラフラ歩いていると、前方に見慣れたシルエットを見つけた。
携帯片手に話し込んでいる葛馬…どうやらバラバラになった仲間と連絡を取っていたらしい。俺に気付くと、軽く傘を振って合図して「ちょっと待ってて」と告げた。
「ブッチャとオニギリは、今日はもう大人しく帰るってさ」
通話を終えた葛馬が、ズボンのポケットに携帯をねじ込みながらそう言った。
コイツ、まだ練習する気だったのか…?
人一倍練習熱心なことは知ってるけど、あんな目にあった後で、まだやる気あるとか…色んな意味でホント呆れる奴だ…。
「俺も帰るつもりだけど、アギはどーする?特に用ないなら…俺ん家、来る?」
遠慮がちな誘いに、俺はしばし悩んだ。
確かにこの雨じゃ、まともな練習は出来ないだろう。無理して怪我しちゃ馬鹿らしいし、どこか別の場所でやるにしても、そんな場所なんか思い付かない。
それに…なんかもう、すっかりテンション下がっちまったしな…。
「そうそう!あのさ、昨日、姉貴がメッチャ美味いプリン買って来たんだよね。消費期限今日までだっつーのに、二人じゃ食い切れねー程あってさぁ」
「プリン…」
真面目に考え込んでいた俺に、唐突に思い出したように葛馬が言った。ピクリ、と反応したのに手応え有と思ったのか、更に畳み掛けるように言を継ぐ。
「あ、ヤなら無理に来なくても…ってか、姉貴がプリンと一緒に買ってきた、これまた美味いアイスとかもあるんだけど…。あと、ついでにパーツの組合せの事で相談したいな〜とか思ってたりすんだけど。でも、アギが嫌なら無理強いはしないけど…」
「…行く」
そんな訳で、素直に誘いに乗り──あくまでもパーツの講釈をする為であって、極上アイスクリームと濃厚卵のなめらかプリンという、魅惑のコンボに釣られた訳では無い──葛馬の家へ向かうことにした。
相変わらず止まない雨の中を葛馬と並んで歩く。時折パシャパシャと跳ね返る水滴が、靴とズボンの裾を濡らしていくのが目に付いて、鬱な気分が余計に増していく気がした。
「ったく…。カラスのくせに俺様に無駄なエネルギー消費させやがって…」
「まぁ…アレはアレで生粋のAT馬鹿だからさ。この雨の所為で思うように滑れなくて、色々溜まってたんだと思うぜ?」
苛立ちを吐き出すように毒づくと、苦笑しながら葛馬がそう応えた。
「だからってなんでこの俺が、先公なんかに追い回されなきゃなんねーんだ」
さっきの追走劇を思い出して、俺はますます不機嫌になる。あれのお陰で、余計濡れるハメになった恨みは忘れない。
「あんだけ折原を挑発しまくっといて、怒りの鉄拳を食らわなかっただけでも凄いと思うけど…。それに、嬉々としてイッキをボコにしてたじゃん」
「ただでさえ鬱陶しい天気なのに、それを上回るウザさを発揮するアイツが悪い。俺としては『牙』の一発でもブチ込んでやんなきゃ気が済まねーくらいだ」
凶悪な気分でそう言い放つと、何故か葛馬がビクリと震えた。
「いや…ソレ、真剣に生命の危機だから。まぁ、気持ちは判るけど。でも、アレは流石にちょっと、やり過ぎた気がする…」
今頃になってうだうだ言い始めた葛馬に、何故か無性に苛立ちを覚えた。
「ンだよ。テメーだって散っ々、ボコにしてたじゃねーか。今更グダグダ言うな」
「だって…あン時は、流石に俺もマジで切れてたんだもんよ。けどさ、あとの事とか考えると、今からテンション下がるっつーか…。イッキの奴、ゼッテー根に持ってると思わねぇか、アレ…」
「ケッ!報復なんざ恐かねーよ。つーか、ンなもん返り討ちにしてやる!くらいの意気込み持てよ!だからテメーは何時まで経っても、チキン・ヘタレ・影薄いの三拍子から抜け出せねーんだっての!」
我ながら無茶な言い草だとは思うが、ただでさえ鬱陶しくて苛ついてんのに、それを更に煽るような事をいうのが悪い。
「アギ…。それはあんまりだと思うんだけど…。てか、一応コイビトなんだから、も少し優しくしてくれても良いじゃんか…」
ジメジメジメジメと…茸でも生えてきそうな湿っぽい口調で、葛馬がブツブツと恨み言を並べはじめた。普段なら軽く流せるような事なのに、まるで耳の中で木霊するみたいにやけに響いて離れてくれない。いつまでたっても終わりの見えない不毛な愚痴に、遂に俺の忍耐が限界を越えた。
「ウゼェ…」
ひとこと吐き捨て、持っていた傘を投げ捨てた。そして、雨に濡れるのも構わず、葛馬を置き去りにして歩き出す。
「え…?ちょ…アギ、カサ!傘はっ?!」
突発的な俺の行動に遅れをとり、呆然と見送りそうになった葛馬だが、ふと我に帰ったらしく、小走りに後を追って来た。途中、放り出された傘を拾いあげ、頭上に差し掛けてくる。
「そんな面倒臭ェもん要らねーよ」
ジロリと葛馬を睨み、突き出された腕ごと強引に押し退けた。
「は?って…そんな訳にいかないだろ?!びしょ濡れになるじゃん!」
「るっせえ!要らねーったら、要らねーんだよバカズマッ!!」
尚もしつこく傘を寄越してくる馬鹿を肘で牽制しながら距離を取る。
「ちょ、待てってばオイ!あ、嘘ですごめんなさい!待って、待って下さいお願いします咢さん!いや、咢様〜〜〜っ!!」
デカい声で名前を呼びながら、追いすがってくる葛馬を尻目に、更に引き離すように速度をあげた。
結局、葛馬の家に辿り着くまで頑として傘を受け取らなかった俺は、頭から足の先まで余すところなくびしょ濡れになった。
そんないざこざを経て、部屋に上がり込んだのが数分前の事。それから、風邪ひくから服を着替えろだの、髪を乾かせだのと、色々やかましく言ってきやがる葛馬を完全に無視して床に座り込んだ。
そんな俺の様子に、半ば諦めのため息をついた葛馬は、アイスもプリンもパーツ講座もそっちのけで、あれやこれやと世話を焼いていたと言う訳だ。
「いっくら苛ついてたからってさぁ…、わざわざ傘投げ捨ててまで、ずぶ濡れになるこた無いと思うんだけど?」
笑顔を貼り付けたままの葛馬が、ズイと身を乗り出してくる。不気味な笑顔に迫力負けした俺は、上体を逸して後退した。
「どっちにしろ、あんだけ雨降ってたら、遅かれ早かれずぶ濡れ…」
「自然に濡れるのと、自分から濡れに行くのは、全く別問題だと思います」
やけにキッパリとした口調で俺の言葉を否定して、更に顔が近付いてくる。
無茶な体勢で逃げていた俺は、あっという間に進退極まった。近付いてくる葛馬から逃げようと身を引いた途端、後ろに転げそうになる。咄嗟に床に手を突き回避したまでは良かったんだが…この押し倒されかけてます、みたいな構図はなんだ?!
…もしかしなくてもかなりヤバイ…?
てか近いんだよ、馬鹿!気付け、この鈍感野郎っ!!思わず心の中で叫ぶが、俺を問い詰めるのに夢中になってる馬鹿には、この状況が全く見えていないらしい。
「確かに…トドメ刺したのはイッキと俺かもしんないけどさぁ…。アギ…ここ最近、ず〜っと機嫌悪かったよね?」
不意に真顔に戻って、なんで?とか訊かれても…。それ以前にまともに会話出来る体勢じゃないことに気付けよ!
「…俺、知らないうちになんかした?」
不安そうに揺れる声で問われた。
困ったような、今にも泣きそうな…どちらともつかぬ顔で、真剣に俺を見詰める瞳。
「別に、お前の所為って訳じゃ…」
あまりにも情けない顔でそんな風に訊かれ、思わずそう答えた。
「じゃ、なんで機嫌悪いのさっ?!」
「っ!ば…っ、それ以上こっち来…っ!」
「へ…?なん…っ?ぉああああっ?!」
途端に勢いづいた葛馬が、更に身を乗り出し、俺の肩に手をかけた。
咄嗟に制止の声を上げたが、そんなものは到底間に合うわけもなく…。
二人分の重量を支え切れなかった俺は、成す術もなく後方へとダイブした。
ガツン!と派手な音がした。
「い…ッ…!」
咄嗟に頭は守れたけど、代わりに肘を思いっ切り打ち付けた。ジワ〜っと嫌な痺れが拡がる感覚を、眉を顰めてやり過ごす。
「ワリ…ッ!だ、大丈夫…?」
ガバッ!と飛び起きた葛馬が、心配そうに様子を伺っている。
「…平気なように、みえるか…?」
「う゛……ゴメンナサイ…」
しゅん…と項垂れて小声で謝る。なんか…悪戯して怒られた犬みたいだと思った。
「別に…テメーの所為じゃねーよ。ただ、俺が勝手にイラついてるだけだ…」
起き上がるのが億劫になって、寝転がったままそう答えると、覆い被さるように顔を覗きこまれ「なんで…?」と訊かれた。
それには即答せず、ふと視線を逸し、俺は窓の方を見る。それにつられるように、葛馬もまた、窓の外を眺めるのが判った。
「俺もただのAT馬鹿ってコトだ…」
窓の外を見詰めたまま、ポツリと呟いた。
「…止むといいな、雨」
それだけで俺の言いたい事が伝わったのか──静かな声で、葛馬がそう答えた。
終