この前職場の人と結婚の話をしていて、今日別の人にも聞いてみた。
「結婚してよかったことってどんなことですか?」って。
その方は親世代より少し若くて、明るくていつもサバサバとしていて、少し迷ってこう答えた。
「うーん、そうねえ〜。毎日かしら^^」
毎日!!
結婚して毎日幸せ!
それってすごいな〜と思う反面、私は今満足してないからそんなふうには言えないなあ。なんて。
でも言ってみたいなあ、とも。
××しなきゃ!と思うほどに、何がしたいのか分からなくなったり、不安を感じてしまう自分がすごく嫌だ。
自分に完璧を目指さず、誰にも劣等感&罪悪感を抱かず生きるのって、難しいのだなあ。
とりあえず体調治したいから、来月歯医者には行きたいな。
怒りにも似た、そわそわとして落ち着かない記事が続いているけれど。
体調が良くない(不眠&代謝が落ちている)ことはもちろんだが、個人的に悲しいことがあった。
左耳のピアスホールがふさがってしまったのだ。
親の実家に帰ったりするうち状態がよくないことに気付いて外していたら、三日ほどで薄い膜のようなものが出来ていたのだ。
慌ててつけなければ、と思ったがそこで手持ちで一番『安全なピアス』が分からないことに気付いた。
一年は経過していたから、三日ほどでふさがるのがまずおかしい。
そんな傷口のような不安定なホールがかわいそうになった。
それを病院にも行かず、薬も塗らずにどうにかしようと考えている自分を、ますますバカバカしいと思った。
そんなふうに生きてきてしまったから、事故も起こしてしまったのかなとぼんやり思った。
嫌だなあ、のらないなあ、と思いながらする行動が良い結果を招くわけがないのだから。
今年もあとすこしだけれど、もう一皮むけたい。
なりたい私があるのだから。
女っていうのはどうして旅行が好きなのか?
それはやっぱり「役割から解放される非日常」が好きだからだと思う。
結婚したら子供を産み、育てながら料理を作り掃除をし……なんて、『誰でも何となくやれそうな事柄』を仕事のようにこなして生きていれば、私は〇〇をするために生きているんじゃない!と思うだろう。
とは言え、脈絡もなく挨拶のように
「〇〇へ行こうよ!」
なんて言われてしまうと、は?としか返しようがない。
何をやっても満たされず、何だか自分にイライラするような10代の頃ならまだ笑い話になるけれど。
他人から、一緒に何かをしようと誘われるのは嬉しいことだ。
けれど、それが何度も当たり前のようになると、
それって頭数に入れたいだけじゃないのか?
頼れる人がいれば便利だと思っているのではないか?
なんて思ってしまう。
本当に誰かと行きたかったら、その人の分を負担してでも行くだろう。
それをしないのはやはり、ラクな方を選びたいから。に他ならないんじゃないかと思う。
生き方を選ぶってことは、それが自分が1番いいと思うもののことだから、誰かと違っていてもそれは当たり前なんだ。
どこか擦り減る気がする遊びは、もはや遊びではないなと知った10月だった。
前記事で書いた「病の起源」の番組の中でもうひとつ、印象に残っているものがある。
豊かで物が溢れる日本とは正反対の、未だ狩猟生活をして生活しているハッチ族(だったと思う)の暮らしだ。
番組内ではある病と生活習慣の関係を研究するため、彼らに100問近い数のアンケートをとっていた。
その中でも、
『あなたは今の暮らしに満足していますか?』
『あなたは自分が役に立つ人間だと思いますか?』
の問いに対し、彼らはこう答えるのだ。
『起きて目が覚めた時、朝を迎えられるだけで幸せだ。』
『私は家族にとって必要な人間です。(孫らしき子供を抱きながら)』と。
それもみな笑顔なのだ。
それでいて、なぜ当たり前なことを聞くのだ?と、どこか怪訝な表情をもしていた。
あれを見れば一人の幸せはみなの幸せだと、家族全員に確認しなくても分かる。
幸せは誰か一人のためのものではない。
誰かにしてもらうものでもない。
身近にいる誰かと分かち合って、初めてそれを感じられるのだろう。
そんなふうに思った。
−−人間の脳の奥には扁桃体と呼ばれる器官があって、感情が高ぶると活性化してストレスホルモンを分泌するらしい。
これは人間以外の小さな動物にさえもある、昔からの防衛プログラムなんだそうだ。生命を脅かされそうになった時に力を発揮するための。。
また人間の場合この器官は、記憶を司る海馬と繋がっているため、より感情を揺さぶる言葉や記憶(伝聞した事柄でも)はことさら強く脳に刻まれてしまうという。
昨日久しぶりに遊びに出たのだけど、いまひとつ楽しみきれなかった感じがして、なんとなくみてしまったテレビ。
女同士って重たいなあ。
分かってもらえる気がしてしまうから。