前から思っていたけれど、どうしてパンドラの箱は絶望と希望の二つが入っていたのだろう。
絶望した瞬間に過去の産物になって、今ではなくなるからだろうか。
それとも絶望も希望も同じ形、だからだろうか。
職場で昼休みにそんなことをぼんやり考えていた。
そんでもって。
葉月京さんの新刊。
クロスアンドクライムをひっそりと読む。
主人公の心境変化はどう表現していいのか分からない痛みが見え隠れして、せつない。
元恋人に誤解されたままは嫌だろう?
分かってもらうべきだ。
と言われて彼女は言うのだ。
もう過去のことだわ、と。
誤解ですれ違う関係は確かに寂しいのかもしれない。
それを解消すれば元に戻れると。
でも誰の心にも容量と期限があって、
いまさらそれをといたところで、満たされるものはないと。
彼女はもう分かっているのだ。
憎しみを何度ぶつけても、晴れるのは一瞬だけ。。
同時に、そんなふうに思う性の被害者が第三者に揶揄されるのは、「被害者しか計れない視点」だからなんだろう。
身内で犯人の死を願わない愛はないだろうし、憎悪の先には必ず死があるのが人間の心理だろう。
死は誰にとっても絶対なのだ。
けれど身体と心を壊されても、そう簡単には死なないし、死ねない。
だから誰にとっても絶対なはずの死が。
平等にいつか降り懸かる事象だととらえただけで。
死は絶対ではなくなるのだ。
そんな時、わたしは思う。
わたしは何故あの日生かされたのだろうと。
わたしが生きているのが罪でないなら、なんの罰なのだろうと。