[Springreport]
■独奏曲



 人は同じことを繰り返すことを怖がる。
 この世に二番煎じという言葉があるからだ。同じ言葉も言い続けたら飽きが来るようで、違うものを聞きたくなる時が、必ずやってくる。
 だから、それを避けようとあの手この手のアレンジを加える。
 好きなものを何度も見てはいけないのか?


「楽譜通りで心がない」
 そう言われた時を何度も思い返す。
 正確さこそ大切だと思っていた私は、下手にアレンジでごまかそうとするものこそ滑稽に思えた。作り手の記す楽譜の世界は、その形で表現してこそ真価が問われるのではないか。

 しかし音也か何度でも言う好きという言葉には、どうして、毎度こうもざわめくのだろう。
 あなたの好きには、何があるのですか?
 不思議でたまらない。そういうと、
「好きって思う瞬間はその一瞬しか出会えない。厳密に言うと、同じ好きってのはなくて、その時好きって思うのって、こう、いろいろ違うんだよ!空の色みたいな感じ?その時の何を好きに思って好きっていっちゃったのか。それはその時の俺にしか言えないし。今トキヤを好きって思ったのは、俺の好きを、受け止めてくれて、それでそれはどんな味って、すっごく考えてくれてるから。俺の事、すっごく考えてくれてる。それが嬉しくて、好きって思う。でも明日になったら、ううん、もう今この瞬間でも、俺の好きって気持ちを考えてくれたトキヤがいたって知ってる。そのトキヤがいたのは絶対心に残っている。そのトキヤを知っている俺が改めて考える、好きって気持ちが、どんどん繋がっていくんだよ。だからね。同じように言ってって言われたら一番難しい。できないよ。そんな感じ。なんだかおなか減ったな……」
「好きという言葉がゲシュタルト崩壊しそうですし、なぜそこにたどり着くのか、まったく理解不能です」

 ふと、クラシックのそれなのかと思い至る。
 サラサーテのヴァイオリン独奏も、果たして今まで何人の手でこの世に送り出されていたのか。
 クラシックこそ、解釈の世界だ。
 楽譜に書かれた図式は一つなれど、そこに見える景色は差万別十人十色。指揮者の解釈、奏者の技量のこすり合わせ、世界に一度だけのオリジナルの景色を生み出す。同じ音を作り出すことはできない。その瞬間にしか生まれないものだから。
 それに近い気がする。
 解釈を叩きつけるのだ。
 その言葉を表現するためのオリジナルの解釈。
 「すき」といういたくシンプルな二文字の間にある世界は、私の解釈でしか表現できない。
 本来、思考を伴うとはそういうことでは。

 頭の中を駆け巡るツィゴイネルワイゼン。
 音也といるとたびたび思い出させてくれる。