[utpr]夏の話11、again



あたたかい手のひら。
画材店特有の、紙の醸し出す香り。
父の書斎を思い出す。
紙の束にうもれたあの場所を。
今はまた感じたいと思う。
匂いが、記憶を呼び覚ます。

会いたいと願うより。
あなたがいて自分がいるということを、歌い続けるのだという。


ステージの上で燦燦と輝く光に、目頭が熱くなったの思い出す。
たもとが別れようが、私の可能性の事を真剣に考えてくれた母ものことも、離れることを選んだ父のことも、嫌いなはずない。好きなのだ。
小さい頃、熱を出したら二人が代わる代わる看病をしてくれたあの優しい思い出。あの頃に戻りたいとすら思うときは何度もあった。
愛情を感じた分、それがずれていくのを知って怖かった。
愛なんて感じなければ、苦しみは訪れない。
だけど、諦めなければいいんだ。自分が、相手を理解することをあきらめず、愛し続ければいい。
母が道を切り開いてくれたその先。
父が身を引いてくれたその先。
この太陽が居たのだから。



「トキヤ、俺一つわかったことがある」
「なんですか」
「俺の20%、結構すごいかも」
「どうせ嗅覚でしょう」
「そうそれ!なんでわかったの」
「……少しは否定してほしかったんですけどね」
目隠しをした音也が、なにか確信めいたことを言う。
散々犬のようだと言われているのに、本人はそれをいい意味で受け取っている。
実際、スンっと鼻を鳴らして、探っている。
父の書斎の香りを思い出していたのに、この姿に何故か暖かい思い出が遠のいていく。
果たしてその言葉がちゃんと機能するかは、分らないが、ならばやってみせてください。




「これですね、わかりました」
「ねぇ、トキヤさっきから、それしか言ってないじゃん。怖いよ」
「選んだものをあれそれ説明できるものですか。それに御自慢の20%はどうしたんですか?」
「トキヤの近くにいすぎてわかんなくなってきた。何で香水つけてんの」
「いい香りでしょう?」
「まー、そうだけど……こうさ、もうちょっとリアクションをくれたっていいのに」
「それではわかってしまうかもしれません。とりあえず、あなたの選んだのはこれですね。はい。ちょっとまっていてください。手を離しますよ」
引きずるような音が立つ。
「え?なにそれ、めちゃくちゃ重そうな音がしてない?」
「大丈夫です、ちゃんと画材です」
「ここに居たら全部そうじゃん!それ絶対何かわかんないやつでしょ!」
「私は好きですよ?」
「えー」
トキヤが好きなもの?と、そちらを考え始めている。
純粋にクエスチョンマークが浮かび上がっていて、きっとここはオンエアされるだろう。先ほどまでリアクションをくれとぶつくさ言っていたのに。
私の好きなものにばかり心を捕らわれている姿が、たまらなくいとおしい。
私のすきなもの。
知っているでしょう?
いつかの暗闇の中でも見つけ出したこの温もりを、ずっと、この手に感じている。



それでも。
私は、あなたのように考えられない。
きっとまた生きることができるのであれば、その手段を選ばずにはいられない。
オルフェウスと同じ道をたどる道筋しか見えない。
その希望にきっと、追いすがります。
でもきっと、やはり一緒に帰りつくことはできないでしょう。
『二人でなにをしようかなって、考えてたら抜けられるかもしれない』
二人きりのあの時間を、二人だけ思い出で埋める事が出来ればとても幸福なのかもしれない。
でも貪欲な私は、きっともっと欲しがる。
それはなんて幸せな時間。
あなたを想い泣くことを許してください。
そこに気付くまで、私は彷徨い続ける。


あなたを思い続けて生きていけることが幸福なのだと、気付くのはきっとずっと先だろうから。

思い返しても時間が足りないくらい、この想いをあなたに残させてください。




果たして二人の選んだもので何が出来上がったのかは、放送のときにでも。
同じ場所を言ったり来たりしている音也に、後々に、落ち着く匂いの場所なんじゃない?と視聴者からのコメントがつくことになる。
もはや技術よりどこまで使いきれるかが問題であったし。ことごとくぴよちゃんのシールを引き当てた時点で音也に軍配が上がったのはいうまでもない。






視聴者コメント。

俺の20%?
凄いのか凄くないのか分からん
よくわからないけど、力が解き放たれる時
優勝じゃん
唐突な香水情報を得た
イイカオリデショウ
いい香りなんだね
スーーーーーー


既に仕上がっているものを引き当てた。
トキヤの選んだの何??
うわっ、めちゃくちゃいい……
あーー!それ!いいな私もほしいやつ!
音也くん、おんなじところ行き来してる


トキヤくん、書くもの引けなさそう……
さっきと同じwwww
鉛筆の匂いってわかるもん?
わかるーその匂いわかるー
匂いって言ってたけど、落ち着く匂いなのかな



おお、トキヤマッキー。
最低保証を手に入れた
赤色のマッキーなのさ……トキヤさぁ……
赤……
あかいろ……


額縁かよ
もう、それ掲げて自分がアートですってやれが完璧じゃん
画材全部広げて絵を書く人とかでさ
それ最終兵器
こんなに仲良く手を繋ぐルレ
絵の具用パレットwwwww
でも肝心の絵の具がないwwwww
横にあるよ!横を指すんだ!
いくな!!そこ!!
ノートゾーン

いや、書くものができるからいいじゃん
なんでその中から、そのピンポイントのシール強くない?
あの隙間指すの、もはや強運だよ
いっそ奇跡じゃん









.
悲しみを乗り越えるのは今に喜びを感じるから。
死や別れを経て、その過去とどう向き合うか。悲嘆という感情の抜け出し方を二人をベースに、春と夏で考えてみましたレポート、とりあえず一区切り。
……しないとあと二時間でチャレンジ権を失うのでご了承あれ(プライドなんてない)

[utpr]夏の話10、アニミタス2



この世にいなくて、でも話したい人はいる。
この世にいるかもしれない、話したい人もいる。




会いたいって何度も願った。
なんで会いたいのかって、そんな……なんでだろう。
会いたいと思うことに理由は居るの?
どうして居なくならなければいけなかったのか。
どうして一緒にいられないのか。
この世にはあるんだって、それを理解するまで、
沢山の時間が必要だった。


いつもの公園で、ブランコに乗っている。
夕暮れに、くっきり形の浮かぶ鈍色の厚い雲。
夕焼け空は真っ赤でさ。
今日はよくない日なのかもしれない
母はいつの間にかそばに立っていた。
むかえにきてくれたの?
待ってたよ!
名前を呼ぶ優しい声、抱えあげる温かい腕。
けれども、今日はちがう。
見えない表情が、何かを言おうとして。
ねぇ、母さん。
手を伸ばしても、どんどん遠のく。
いっちゃいやだよ。
ひとりで行くのはダメだよ。
一緒に帰ろう。




ーーーえ……嘘……ホント……に?
ーーーああ、お前の命はもってあと一ヶ月
ーーーあと、一ヶ月……?
学園の健康診断の結果のことで園長先生から呼び出された。
言われたことが、理解できない。俺の命に、期限がついていた。どうして。何がいけなかったのだろう。苦しいところもない。痛いところもない。俺、昨日も翔とサッカーしてたし。
余命を宣告されたとき、頭が真っ白になったっけ。何を考えなければいけないかわからなくて、はっきりとは覚えていなけど。
文化祭すら、出れないじゃん。
今やっていることって、全部無意味なの?




「あの時の俺、すっごく情けなかったでしょう。トキヤも調子狂うって、心配してくれたんだよね。言い忘れてた。あの時はありがとう」
「自分の余命を宣言されて、冷静な方がひきますよ」
「ねぇ。どんなふうに調子狂ってた?やっぱり俺が元気ないと寂しかった?」
「雨雲が部屋にいるようなものですから。正直、全身でなにかありますよと言っているのに。肝心の口が機能していないので、苛立ちました」
「トキヤは雷落とすの得意だから、いいじゃん。雨雲とセットだよ。俺たち」
「はぁ」



思い出すよ。
夏の暑さが和らぐ9月の頃。
何をすればいいか。
どうして生きていけないのだろう。
あの当時は、うまく気持ちの整理ができなくて、
今の俺に何ができるか、ノートに書きだした。

春歌のために歌う
ギターを弾く
手紙を書く

新しいパートナーを探す

自分が残る人のために出来ることは何か。
そうやって今まで繋いでもらったものを。こんな形で終わらせるのか。だめだ。今は、何をしなければいけないか、ちゃんと考えないと。

『春歌、トキヤと組んでみない?』

折角母が残してくれた命なのに。何も残せない事になってしまう申し訳無さ。
それと同じくらい、自分の何がいけなかったのだろうという、怒り。
俺は、生き続けてはいけない事をしてしまったんだって。
思い当たるフシはあるよ。
心臓に絡みつくのは、別れの日の、大人たちの言葉。
もしも自分を育てていなければ、母はもっとずっと永く生きていくことが出来たのではないのか。
誰かの命を奪って、生きていのでは。
それはわるいことだったの?

途端に、夢を叶えようというみんなが眩しく見えた。
誰もみんな、夢を叶えるために命に磨きをかけようとしている。もがいて、挑んで、笑って。
そんな日常に、俺も居ると思っていた。
そこから先へはいけない。
俺が残せるものは何?生きていたって、誰が覚えていてくれる?
コレだけでも出来上がればって思ったけど、できたところで、何度歌えるだろう。
そんな僅かな、時間。
がむしゃらに声を張り上げて、痛みを感じる喉。
どうせもうすぐこの痛みもなくなる。
ーーー今日はもうだめです!一十木くん、明日、明日また一緒に頑張りましょうっ。
不安そうな顔で、俺を気にかけてくれる、大切なパートナー。
明日って言葉が、怖い。
明日は本当にあるの?、
この感覚。ああ、覚えがあるよ。明日はもう逢えないかもしれない。
君にそんな顔をさせてばかりで。



当時、パートナーとして卒業オーディションをかけてくれた春歌のことを、巻き込むわけには行かない。
歌いたいよ。歌いたかったよ。
春歌の歌。
これからやりたいこと沢山あった。本当の本当は、嫌だよ。

だから、俺が一番、この世で信頼している人。

『どうして。そんなこというの?』
あの時、君が傷ついてくれたことが、嬉しい。
嬉しくて、傷づけたことが悲しくて、傷つけなければいけないその事実に怒りすら湧いて、その直後に、冬の海に飛び込むように身体が冷え切る。
本当の事を話そうと思うのに、口にするのが、怖いんだ。冷静になれたつもりでも、やっぱりだめだった。


「何をどう残せばいいのかわからなくて。あの時、トキヤに言ったね。春歌とパートナーにならないかって。春歌の未来は残る」
もう俺にできるのは、これくらいだからって。
でも結局、悲しい顔をさせてばかりだった。
あの時、何が正解だったのかなんて、今ならわかるよ。本当の事を言わなければいけなかった。
君は俺に嫌われたんだって思ったんだよね。
トキヤも怒っていた。
悔しかったし、悲しかったし、憤りもあった。どうしてって。
皆と一緒にいきたい。



「あなたは、まず私に七海さんを任せました。どうしてですか」
でもね、生きている今だかゆっくり考えることもできる。
余命って言われた時、母さんはあんな気持だったのかなって。
明日を迎えられないかもしれない。
残す人たちの悲しい顔ばかり見るのは、悲しかった。
どこかで、母さんの気持ちを理解できたような気がして。
最後の瞬間、思い出せない事ばかりだったけど、もしかしたらって思えることが増えたんだよ。

「俺と一緒にいたら、課題曲完成しないし。卒業できないかもしれないって、思ったからだよ。それに、トキヤは春歌の曲好きだったでしょ?きっと春歌の歌を世界に羽ばたかせてくれるって、そう思ったから。未来を繋いでほしかった」
春歌の作る曲で、世界の人たちを、幸せにしてほしい。
「そういうことは、本当にいなくなったあとの人間で考えることです。あなたは、自分の生きる術や、やりたいことをまず一に考えなさい」
そうだな。
何で死にたくないのかって考えたら、一緒に歌いたい、今を感じ合いたいって思う人に会ったことだと思う。




俺のパートナーをやめないといった春歌と、春歌とのパートナーを是としなかった、トキヤ。
園長先生から誤診であったことが知らされてさ。
身体から力という力が抜けきって、魂までどこかに行ってしまいそうだった。
すごく安心したけど、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
春歌も泣きながら喜んでくれて、嬉しくて、明日があること、まだ生きることを許されていると、ロザリオをギュッと握る。
『学園の健康診断でそこまでわかるわけ無いでしょう。まず、原因がなにかどういう症状なのか、しっかりとした病院を受診してから問診票をもらい、処方で対処できるものかどうかを診てもらって。そのへんをきっちり聞いた上で答えを出しなさい』
『で、でも。余命を宣言されたら誰だってびっくりしてしまいますよね』
涙を浮かべながら、春歌が喜ぶ姿を見て、ぎゅって抱きしめたくなった。
生きていることを、こんなに喜んでくれる存在がいる事。それはとても幸福。
冷静に考えたら、そうなんだけど。
『短絡的なんですよ』
せつせつとお説教されたけど、トキヤの声も、いつもより優しくて、生き続ける俺のこと、世界を祝福してくれたように感じた。





それでね、俺。
前より母さんのことを思い出さなくなる時間が増えていた。
悲しいわけじゃない。
その思い出を悲しいだけだと思わなくていいんだ。
夏は、トキヤの生まれた季節。
初めて一人で歌う、バースデーソング。
贈る相手も、聴いているのも、トキヤだた一人。
誰かのために俺ができる事、あるんだね。

トキヤ。お前の事考える時間が、増えたんだよ。
初めはさ、同じ部屋になって、これから一緒に過ごす相手、ってくらいだった。
一人部屋じゃないことも安心したし。仲良くできたらいいなって思った。
施設で暮らしていたから、そういう生活は慣れてたんだ。
でも違う、これはカンちゃんたちに抱いていた感情とは違う。
何でだろうね。トキヤの事を考えると、
オルフェがエウリュディケにあったとき、歌があふれたんでしょう?
その気持ちはわかるんだ。
お前の一言一言で、体の中が焼かれるような感じ。
凄いなって思うのと、悔しいのと、負けたくないって震える気持ちとか、嬉しいって叫びたくなる。
どうしてなの?
俺の持っている言葉の中で、一番はまるのが「好き」って言葉。
好きだよ。
これって別に、恋愛だけで使う言葉じゃないから、トキヤに使ってもいいよね。
そう思っていたのに。
そんな言い訳する時点で、いつもと違ったんだ。
トキヤの字を見た時、まっすぐで、ああ、好きだな。
トキヤに書いてもらった俺の名前、今でも大切にしている。
大切なものを入れる箱の中にあるし、携帯のフォルダの、思い出の中にちゃんとある。
口では厳しいこと言ってくるのに、音を外したりしたら、そこはちがうよって教えてくれる。
俺の音を聞いてくれてるんだって。
俺の事、考えてくれているんだって、伝わってくる。
時折俺の事怖い目で見るし、そのくせ、トキヤの瞳が俺を追ってくる。

ある日気付いた。
トキヤの瞳の中に、自分でも知らない俺がいた。
それは勘違いだったかもしれない。
ううん、ちがう。それは真実。
トキヤといる時の俺は、こんなにも生きているんだね。
そう思うと、もっともっと大好きって思えてくるんだ。



「オルフェウスは不安になって振り向いた。でもさ、そんなの当たり前じゃん。不安になるよ」
だって、オルフェウスは一度エウリュディケの死知っている。
この世からいなくなった。愛する人がいなくなった時間を知っている。
一度知ってしまった死に、また怯えなくてはいけない。
死んだ人間を黄泉から連れ戻して、その人がその後幸せに生きていけるか。
その人はさ、『人』と呼んでいいのかな。

「生き返らせてあげる、って言われたら……その時にならないと、やっぱりわからない。どうして生き返らせたのって言われたら……怖いとは思う」

母さんは母さんの時間をきっと、精一杯生きてた願いたい。
そこに後悔があるなんて考えるの、俺の勝手だよ。
もっと話を聞いていればよかったな。
答えなんて、最後に言葉を交わさなかった俺にわかるはずはない。



「オルフェウス」

ーーーあしたもいっしょにすごせますように。
だけど、明日が来るのを願ってしまう。


「生き返ってほしくはないけど、また会いたいなって言ったじゃん」
「ええ。あれはどういう意味だったんですか」
「そうなった時じゃないとわからないけど、生き返った人間を人間と呼べるかわからない。そうなったとしても」
母さんはきっと天国に行けて、旦那さんに会えたんだと思う。
きっとまた生まれ変わって、今度こそ、愛する人と結ばれて幸せな家庭を築くことができれば、いいな。
旦那さんも、どんな人だろう。何も知らないけど、ただ、俺の名前はその旦那さんのものだから。俺に未来をくれた人の一人。
それは歌に乗せて届けるんだ。

「ほんの一瞬でも、また会えたらすごく嬉しいと思う」
だったらさ。
顔がみたいじゃん。
笑っていてほしい。


振り向くよきっと、俺。
ちゃんと気持ちを伝えたい。
どんなに短い時間でも。

また会いたいって、2つの考えがある。
生き返ってほしいと願うのと、その人と同じ場所へ向かうこと。


あの日から、本当に伝えたいことを、言えないことがコレほど苦しいのか。
だた一言、言いたい言葉があった。
あなたに届けたかった。
行き場を失った言葉が、体の中をさまよい続ける。
暗闇から抜け出せない。


届けたい相手に届けられないのは、きっとずっと苦しい。
開かない扉の鍵をずっと探し続ける途方もなさなんだ。
だから俺は、言う。
あなたに出会えたことは幸福に満ちていた。
あなたが居たから俺が今ここにいる
思いを伝えられる、その力が欲しい。
世界中、銀河、天国、どこにだって届くような思いを歌い続けるよ。
だから、どこかで聞いていて。


この世には居ないけど、話をしたい人がいる
この世のどこかにいるかも知れない、話たい人もいる。
もっと近くに、届けたい人がいる。
どの人にも届けたい。
だって死は絶対の掟。
納得の出来る死なんてほとんど無いと思う。
でもお前がエウリュディケを連れ帰れ無くて良かったと思う。
精一杯生き抜いた魂は、またどこかで太陽の光を浴びる。
きっと、どこかで、巡り会えることを祈っている。


だから、最後に見るのが悲しい顔なのは、嫌だよ。
最期は笑顔でお別れしたい。

「キミに出会えた全てが、俺の幸福だ」

待っていてほしい。そこに行くまで、沢山の思い出話と歌を携えてくるから。
其時は聞いてくれると嬉しいな。
君をびっくりさせるくらい沢山のメロディを用意するよ。覚悟していてね。
そうして振り向きたい。
そういったら、君は笑ってくれるかな?



伝えられなかった「ありがとう」が体の中から、太陽のもとに届くように。
だから、歌に込めるよ。きっとすごく遠いところまで行けるから。
ううん。届けるよ。
愛してくれてありがとう。
歌を教えてくれてありがとう。
未来をくれてありがとう。
これから思いを歌に乗せるから、どこかで聞いていてね。


これから思いを歌に乗せるから、そばで聞いていてね。

もちろん一緒であれば嬉しいけど、この思いを伝えたいと思う人がいるという事が、まず幸せだ。
俺が一人ではないこと、俺を一人ではないと思わせてくれる人がいる。



「好きになった人が好き。俺はトキヤが好き」


ありがとう。同じこの時に生れてきてくれて。
この気持ちが、俺に芽生えたのって、いつも見てくれてたからなんだよ。
ねぇ。
もしかしたら、お前を苦しめることになるかもしれない。
でもさ、一緒に生きていたら、上手く溶け合うかもしれないよ。
俺は想いをちゃんと伝えた。



でも、改めて今思う。
そうだね、オルフェウスとエウリュディケがいるたから気付けたんだ。
そうなる前に、伝えたいことはちゃんと伝えないと。
好きな人と一分でも一秒でも心が通ったなら、それは幸せな事じゃない?


もしもお前がエウリュディケだったら、俺、会いに行くよ。いっぱい思ってること伝えて、俺を好きでいてくれるなら、待っててねって言いたい。会えないのは凄く寂しいけど、君を思ってたくさんの歌を歌うから、会いに行ったときに聴いてね。離れ離れの時間が長いほど、苦しいくらい思いが募っちゃうかも。
もしお前がオルフェウスだったら、待ってるから急いでこないでっていうよ。


「今、それを言いますか」

今じゃないんだよ。ずっと前から、そう思ってる。
それにトキヤ。お前、違うならすぐに否定するじゃん。
しなかったね。
今じゃなかったらいいんじゃん。って思ったのは口にはしないけど。
「トキヤも俺の事すきでしょ」

「ええ」

扉の開く音。
抱きつきたいし、思いっきり叫んで走り回りたい気持ちもあったし、耳の奥で鐘がなる。
祝福があった。
「私の好きは『好き』ということですよ」
ああ、思いが返ってくることの幸福。
さっきまで戸惑っていたのに、その瞳には熱いものが燃え上がっている。
体が火に包まれたようなのに、苦しくないよ。

一緒であることが、また増えたね。

扉をあけた。
太陽の光を浴びたその先を、俺たちはまた、鍵を探し続けるんだ。

ああでも、凄く幸せ。


『好き』


同じ言葉なのに、こんなに噛みつかれるような思いが込められるなんて、やっぱりトキヤは凄いよ。








余命の話は、repeatメモリアル『本当に余命1ヶ月』
好きな人と一分でも一秒でも心が通ったなら、それは幸せな事じゃない?という考えは、『黄泉がえり』の中にあったと思います。
アニミタスはクリスチャン・ボルタンスキーの作品をもとに。
今回の課題であった『死について』の多くに、ボルタンスキーの作品のこととか、詳しくは後記にでも載せます。

[utpr]夏の話09、アニミタス1

涙が一筋つたう。
その姿を、あなたは知らない。





人は、己の言動と本心が、必ずしも意にそうとは限らない。
泣きたいときに笑って、笑いたいときに泣く。
アンチノミーをもっている。
自覚処世の術として、潜在的に行うものもいる。
思い込むことで力を出せることだってあるのだ。
それら全ての過程を否定はしない。
だが、乗り越えるために、本当の自分と向き合わなければいけい。

『おいていかないで』

布団に潜り込んで、寝ぼけているだろう相手の言葉が、聞こえた。


“寂しくないよ”
出生の話をする口が、そう答えた。
全て本心を語ることはないか。
いや。あの言葉を口にした瞬間は、もしかしたらそうだったかもしれない。
父を知らず、母と別れてしまったこの男は、家族というものを、心の底ではどう思っているのだろうか。
普遍的な、家族という像を、私とて理解できていない。
だからこそ、自分では知らないものがたりを知らなければならない。
物語の中には、さまざまな人生が存在する。
誰かしらの世界に没入しながら、その物語に入りこむ。



おいていかないで
いっちゃいやだよ


目尻に涙。幼子のような寝顔だ。
その言葉を聞いて、心の弱さと言えるほど、私の内側は強くはない。
同じ心の音を知っている。
幼い頃の私は、人を愛し、信じ続けることは、とてもむずかしいのだと。
知りながらもこの道から離れることはできなかった。それ以外の生き方を知らなくて。

どこまでも違うのに。
言いたかった言葉は、同じなんですよ。


「おいていきませんよ」

答えたのは無意識だった。
思わず息を呑む。
他意はない。
寝言に返事をすると魂が戻ってこなくなる。そんな迷信もある。
その実は、良い睡眠の妨げになるから生まれた迷信だった。
根拠はわかっていても、思わず寝息を確認してしまった。


それに、夢の中のその子は誰かを追いかけ続けている。
きっと苦しいだろう。

おいていかない、そう口にしたその瞬間、何故だろう、これは音也に言わせるところのビビッときた、という感覚。
未来、まだ隣に、この男がいるようなきがした。
シンパシーが、僅かばかり揺さぶりをかけてきたのかもしれない。
『おいていかないで』
本当はそう言いたかった。
口にすれば、少しは未来が違ったのだろうか。
浮いた雫が、一筋つたうのを眺める。

『おいていかないさ』
父の声が、ありもしない言葉が、木霊する。







テレビの向こうで父の存在をさがす。
『なにかあったら頼りなさい』
意見の食い違いで、両親は離婚をした。その原因は私への教育方針。父は物静かな人で、多くは干渉してこない分、母から見たら非協力的だと思ったのだろう。二人の道は食い違い、最後に渡された、父の電話番号。いまだかけることはできない。父から連絡がくることはない。それでも、カメラの向こうにその存在を思う。父は自分の姿を見守ってくれている。だからこそ、父に誇れるその日まで、私は父に会いに行くことはできない。

母の期待にも答えたかった。
父の言うように、もっと他の遊びもしてみたかった。それを素直に言えばよかったのか。答えが出せないまま、いつか前みたいに、仲良くなってくれる。
出来ることが増えるのも楽しいし、褒めてもらえることも嬉しかった。ただ、容量が悪く身につくまでに人より時間がかかって、それが母を加速させ、父を………させた。
自分がもっとしっかりしたら、きっと二人は元通りになる。そう願いながら。
先に答えを出したのが、両親だった。
父から渡された連絡先と、
『何かあったら頼りなさい』
その言葉をまだ、頼りきれずにいる。


姿の見えない父親を探す彼。
同じものがいくつもあって嬉しいと、言っていた。
名前の音、線の数。
そんなことなど気にしたこと無いところまで、同じを見出していた。
私の名字も、確かに僅かなつながり。
彼にはいっていないが、どこかに父の姿を探すことも。
一ノ瀬。
父と親子だった、確かな証。
父の美しい文字を思い出す。
万年筆で書かれた、最初の一本線。





仕事を始めて、誕生日を特別祝うこともなくなった。
母からは毎年贈り物が届く。
それくらいで、友人といえる人間は存在せず、事務所の人から、所属役者に対する、一定のとれた形式の誕生日祝いだけが、その時だった。
それに。
誕生日の朝には、黙祷がある。
生まれる前の出来事とは言え、今なおその思いは繋がっている。消えた命への祈り。

『トキヤの誕生日はいつ?』
その問も、随分前のことだった。
春先にそんなやりとりもしていたか。




自分の誕生日を聞いてもいないのに教えてきた男は、そう問うてきた。
どうせ覚えないだろう。
「8月なんだ。てっきり秋か冬かと思ってたのに。夏男じゃん」
どうも夏男が誉め言葉の様には感じない。
生まれと性格は関係でしょう。
現にあなたの方が暑っ苦しい夏がお似合いですよ。
嫌味を込めたのに、その男は嬉しそうにいう。
「俺、夏大好き!」
「でしょうね」
その言葉すら、驚くほど似合う。
先程の『夏男』は、むしろ彼のほうが似合う。
その人の持つ季節というものがあって、音也の場合は、くっきり分かれた青空と、白い雲。照りつける太陽が背景にある。出会いの季節に心躍るにはふさわしい性質だ。
「ワクワクするもんね!それに」

「夏はね、俺の好きな花が咲く季節だから」

花を愛でるようには思えなかった。
ただ、少し目を細めて、ここにない、遠いまどろみを知っている顔だ。夏の蜃気楼。それは自分が勝手に描いた景色だろうか。魂の景色なのだろうか。






あの時の言葉を思い返す。
而して、どうやら彼は覚えていたらしい。
その証拠に、

ーーーハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー

何故、今この瞬間があるのだろうか。
そう思わずにいられない。
弦を弾く指を見つめる。
今ここに、私と音也がいる。

自分の誕生日だというのに、体調を崩したのを知られたくなかったのだが。結局、バレてしまう。
押し問答も、結局気力体力負け。布団の中に押し込められ、子守唄……とは程遠いものを聞かされている。
彼の音楽は、体の内側から鳴り響いている。
音は、命は、誰しも持っている共通の楽器。
それを知っているかのようだ。

音は繋がり、誰かが生きていた証拠として、残る。
絶え間なく響いているはずなのに、時折音楽を忘れたのかもしれないとさえ、思えてしまう。
何故だろう。


バースデーソングが終わりに近づこうとしている。

ーーーハッピーバースデイ
ーーーディア

ーーートキヤ


彼が歌う、私だけのためだけに歌われる唄。

「ハッピーバースデートゥーユー」


おめでとう。
拍手の代わりに鳴らされる弦。
そしてこれが、プレゼント、と差し出されたのはスポーツドリンクだった。
「横で歌っといて何だけど、今日はもうやすみなよ」
「そうします」
受け取った冷たさが気持ちいい。
この年になって、人の手を煩わせるなどしたくはなかった。
でも、思い出してしまったから。
「音也」
「なぁに?」

「ありがとうございます」

「どういたしまして。まだいるようなら遠慮なく呼んでよね」
飲み物のことではないが、あえて言う必要もない。
言ってしまったら、きっともっと情けない姿を晒して、彼に心配をかけてしまう。


遠い昔、こんな風に体調を崩した私を、父と母は代わる代わる看病してくれたことを、思い出した。
日頃から忙しい両親だったから。珍しくて。
高熱で意識が朦朧としていたのに、その時は「この時間がずっと続けば良い」なんて思ってしまった。
それはいけないことだったのだろうか。
あの場所が崩れてしまった綻びは、己の足元から伸びている。
小さな裂け目が、どんどん大きくなって、二人の間を引き離す。
塞ぎ方なんて知らない。
そんな方法、無いのかもしれない。
嫌いになれたら、いっそ楽なのに。
温かい思い出ばかり湧き出てくるのは、あの歌を聞いたからか。

冷たいスポーツドリンクを目元に当てる。
表面の水滴が、目尻を濡らす。




.
なにもまとまらなーい!
もう時間的にとりあえず前に進むしか無い。

[utpr]夏の話08、天壌無窮


「よみがえるとしたら、会いたいと思いますか?」


生きることは、死にむかうこと。
それは万物の時の流れの約束事項。
この地球でさえ、その掟は変えられない。
星も死を迎える。それは人間に比べれば、膨大な時間はかかるかもしれない。でも。いつかかならず訪れる。
今見ている星の輝も、もう存在しない星の、最後の光かもしれない。
ならば、生まれる意味とは。生きる意味とは。
あるのだろうか。
あるよ。
星を見上げて、人は物語を作ることができた。
それはあの星が輝いていてくれたから。
船乗りが、旅人が、道に迷わなかったのも。
星が輝いていてくれたおかげ。
そんな風に。
もしも俺が歌って、誰かをハッピーな気持ちにできたら、それって、俺が生まれた意味で生きる意味。
だからこそ。
君に出会うために、生まれたいと神様に願ったんだ。

未来の彼は、そう歌うのだ。





「そもそもさ」
カフェオレを飲み干した口が、
「急に『死んだ人が生き返りましたー』って言われて、すぐに信じること出来るのかな?」
「どうしてそう思うのですか?」
眼の前は相変わらず、時を止めたゾンビたちが待ち構えている。
「いや、なんかさ。死んだ人って、もうこの世から居なくなったわけじゃん」
あまりにも正論だが、確信めいた言葉にも聞こえる。まるで何かを否定しているような無機質さが、日頃の彼からかけ離れているように思えた。
興味深いことを言う。
まっさきに喜びそうなイメージを持っていたが。音也は蘇りを拒んだ。
「驚くと思うし、疑うと思うし、嬉しいって思うのって、ちょっと時間かかると思うよ」そう言って、うーん、と何かを一人で探っている。頭を捻って、知っている言葉に辿り着こうとしていた。
視線が、使い込まれたギターへたどり着いた時、「あ」と、ひらめきの声が上がる。

「生き返るっていうより、また会いたいって感じかな!」

音也自身は、納得したようにうなずきながら、再びゲームを初めた。
相変わらずおどろおどろしいうめき声が響く中、言われた意味がわからず、更に迷宮に入り込んだ気分だ。
トキヤの言ってたの正解!そう聞こえた気がするが、何が正解なのか、よくわならない。
もっと迷宮入りしてしまった感情を、どこに向かわせれば良いのかわからない。
生き返ることと、また会うことは、同じではないのか?
この疑問の拭いきれないまま、望んだテストは、リアリティの表現では評価された。






ただ。
その質問をすべきではなかっと知ったのは、夏も終わるころ。太陽を燦々と浴びた、向日葵の花とわかれる頃だった。

この学園を卒業すれば、おおよそ散り々になるだろう相手。
だからこそ、多くの世界を知りたかった。
誰かを亡くしたその上で、会えるとするならば。
その時どう感情が動くかということを。



「あーぁ、やっちゃった」
うなだれながら部屋に戻ってきた姿。

書類不備で、返却されたらしい。
何かと思えば、振り仮名のカタカナ表記をひらがなで書いたらしい。訂正と訂正印を押してくるように言われたと、ぼつぼつ言いながら書類に向っていた。
学園からの斡旋の仕事だったみたいだが。
「これ、今日だめだと来週の手続きになるんだよ」
「それはちゃんと読まなかったあなたの問題でしょう」
現に、振り仮名欄にはカタカナで記入、と書いてあった。
「そうだけど……月曜締切で月曜につくのって、やる気ないって思われそう〜」
「締切にさえ間に合えば、あとは内容次第では」
「そっかなぁ。あ、トキヤ朱肉かして」

確かに持っているのだが。
さも当然そうに物を借りていく。そして時折、帰ってこないこともある。
音也は随分と共同生活に慣れているようで、自分のペースの作り方がうまかった。
こちらとしては、慣れない同居と、よりにもよって騒がしい相手ともあり、一年先までの疲弊を覚悟したものである。
仕事で帰りが遅くなるとき、既に寝静まっている姿に安堵した事も、数え切れないくらいだ。

『兄ちゃん姉ちゃん、弟や妹も沢山いたからさ』
その情報だと、大家族なのだろうと思うでしょう?

忙しいゴールデンウィークは短期のアルバイト。夏に近づき、連休があれば避暑地の泊まり込みのアルバイト。それ以外でも単発の、ライブハウス等のバイトで出かける姿も何度か見かけた。
欲しい物を得るために自ら資金を稼ぐ姿はいいのだが、時折資金不足に嘆く姿も見る。
現に今回も、週末にある大型のライブ会場のスタッフに申し込んでいたみたいだ。
気づく限りでは、どうも必要経費は自分で稼いでいるようにも思える。
継続的なものではなく、短期の、飛び込みのようなものが多い。そういった場所でも直ぐに打ち解けているも、才能の一つといえるが。
「前回の課題でギリギリの点数だったのでは?また月末に同じ課題が出るでしょうに」
成績もそこまで良いとは言えないのに、バイトに明け暮れていていいのかと問えば。
どうしても欲しい物があって〜と、思い描いている顔。大家族で苦労しているのかもしれないが、ふと気になる。
「ご家族に出世払いでも申し出てみては?」
そこまで言うが、彼が家族に連絡する姿を、見たことはなかった。



「俺、5歳から施設育ちなの」
言ってなかったっけ?とあっけらかんと言う。
それだけで、ある程度のことが語られる。
兄や姉、妹や弟が沢山いる。ちがう『沢山いた』と言っていたか。
確かに考えて見れば、兄弟が何人いるかなんて、一緒に暮らしていれば言えるはずだ。
施設にいれば月々の決められた小遣いを受け取ることはできたが。全寮制という早乙女学園を選んだ時点で、その生活費は自分の稼ぎによるものになった。
そもそもの、後ろ盾は彼にはない。
「母さんは小さころ亡くなったし、父さんはどちらも知らないし」
「どちらも?」
「母さんが……母さんじゃなくて、俺を育ててくれてたの、叔母さんだったんだけどね。俺が小さい頃病気で亡くなって。それから施設で育ったんだよ」

あ、ちがう。俺の本当の父さんはどこにいるか知らないけど生きてるかもしれない。叔母さんの旦那さんは、俺が来た時には亡くなっていたから。
顔も知らない。
本当の母親は生死不明、父親も消息はわからずじまい。育ての母親は実母の姉にあたり、5歳の頃に病死。姉の夫もどうやら随分前に他界している、とのことだ。
それぞれの名のつく指で関係を説明してくれたが。

「俺の名前って、半分は、会ったことのない旦那さんから貰ったものなんだよね」

そういって、不備で戻された書類にひらがなを二重線で消し、『イットキ オトヤ』と書き込む。
その側に押された、初めて見る、姓の印。




彼の言っていた『兄弟』は、何かしら家庭の事情があって、家族と暮らすことができないんだ子供たちだった。
それが、特変したものだとは思わないが、詳しく知っているわけではないので、なんと答えて良いのか戸惑う。
彼の隔てなく接する根幹が、その生活にあるのだと理解した。過剰な気遣いこそ失礼だと思うが、それでも、


『よみがえるとしたら……あなたは会いたいと思いますか?』

『蘇るのは、嫌なだ』
『生き返るって言うより、また会いたいって感じかな』


知らずとはいえ、その質問を呼び起こし、羞恥した。
彼のイメージを、勝手に押し付けていた。
彼が思い浮かべたかもしれない、亡き人たち。
彼にいなくなった事を蘇らせてしまったことが、申し訳なくなった。
「だから、一人部屋だったらどうしよう〜って思ってたからさ。トキヤが一緒で良かった!」

込み入った事情に触れてしまったとこに、謝りを入れると、
「よく言われけど、俺あそこの生活大好きだったから、むしろ離れるの嫌だな、って思うくらいだよ」
努めて明るく振る舞っているわけではなさそうだった。

「一人になりたいとは思わないんですか?」
「思わないわけじゃないけど、いままで誰かと一緒に暮らすのが当たり前だったから。想像できないや。トキヤのところは?」
「私はずっと一人暮らしだったので……こういう生活に慣れていないんです」
「トキヤのところも?」
「あ、いえ……両親は健在です……。ですが、ここ数年は、一緒には暮らしていません……」
「そうなの?お兄さんと一緒かと思ってた」
「兄……HAYATOとは、生活の時間帯も違いますし。彼は彼で忙しいでしょうから。私は別の仕事をしながら、一人暮らしをしているんですよ」
彼が真実を語ってくれたのに、この上、嘘をつくことが申し訳なくなる。この一年間だけの相手だから、そう言い聞かせても、罪悪感が拭えない。
これ以上深く入ってこないでほしい。
仕事のことはもちろん言えず、それでいて、両親のことを上手く説明できない。
思い出す。冷え切った食卓。
言葉のない、味のない食事。色のない光景。
その原因が自分にあったから。

「じゃあもしかして、俺がトキヤの相部屋第一号ってこと?一番乗りじゃん!トキヤの歴史にしっかり刻んでよね!」
俺が楽しいこといっぱい教えてあげる!
予想外の方向に舵を切られた。
何でも一番に飛び出す男だとは思っていたが、そこも一番乗りの基準になるのだ。
だが、話の方向が変わったのに、安堵した。
「何故あなた基準なんですか。静かに暮らしたい人がこの世にいることを知りなさい」
「えーみんなで居たから、寂しくなかったよ」

聞いてもいないのに、施設の、彼のいわゆる『家族』の紹介をされる。
いつか紹介するね!と途方も無い約束もされた。
彼の根本を気づいた場所。そこには私の知らない『家族』という形があった。私の求めた、笑いあい助け合いながら苦楽を共にする、あたたかい日だまりがあった。
ならば私が育ったあの場所は、かぞく、なのだろうか。
きっといつか、ちゃんと向き合って話をすることが出来るかもしれない。
なによりも、まだ自分の方が、『家族』を、語ることができないのだ。


ところでさ、とひらめいた瞳がこちらを見つめる。


「トキヤ、俺の名前書いてみてよ」

まるでお互い籍を入れるような流れになったのは、どうにも理解できませんが。
『いっとき』
生き返ることは望まない。それでもまた会いたいと願う中に、この音色をもつ二人がいるのだろうか。

わすかな時を表す音でもあるが、遠い未来にこの名前がつながる。天壌無窮の音にも聞こえた。



.
『一からはじまる』の直前。
きっと想像するより、色々な手続きを、音也はやっているんだろうな〜と思います。そのうえで、一十木という名字を書く時、どんな思いなのかなって考えていました。
その名前は、姿の知らない男性からの継承であるんだろうって思うと、一十木夫婦のこともっと知りたくなってしまいます。

[utpr]夏の話07,オルフェウス



オルフェウスは竪琴の名手。
彼が奏でる音色は、神々も妖精も野獣も魅了した。
そして。
彼は森の木の妖精、エウリュディケと深く愛し合い、結んだ。
出会ったその瞬間に、これは運命だと歌が溢れる。
私の唯一無二。

しかし、運命とは残酷で、最愛の妻は婚礼の音色が消え去らぬうちに、毒蛇に噛まれて死んでしまう。
悲しみのオルフェウスは、エウリュディケを探し続けた。
冥神ハデスの元へ赴き、琴を弾きながら妻を返してほしいと頼んだ。
その旋律があまりにも美しく、ハデスは美しい音色の持ち主の願いを叶えた。
「だがよいな、太陽の光を仰ぐその時までけっして汝の妻の方へ振り返ってはならない。これが掟だ」
掟。
それさえ乗り越えれば。
彼は再び太陽の下で、最愛と愛し合うことを喜んだ。
この湧き出る愛の気持ちをどうしようか。
オルフェウスの喜びはどれほどのものか。
彼は妻の手を引いて冥府の道を引き返した。

ああしかし。
エウリュディケの手はなんと冷たく頼りないものか。
こんなにやせ細っていただろうか。
きっとやせ衰えてしまったのだろう。
こんなに枯れ枝のような手で。
あんなに柔らかく、陽だまりのような彼女の手が。
ああいや。
これは本当にエウリュディケなのか。
ハデスが欺いたのではないか。
そんなはずは、きっとない。
声を聴けばわかる
お前の花咲く声で私の名を呼んでくれ。
最愛の妻よ。
「エウリュディケ」
呼んでみても答えはない。
「エウリュディケ」

暗い冥界の道はどこまでつづくのか。
暗闇はーーー心をむしばんでいく。

握り返すこの感触のどこにも、最愛の彼女の面影が見えない。
この名前に、ため息でいい、答えてほしい。
エウリュディケ。
君と語り合いたいんだ。
私の問に答えないのか。
それとも、答えることができないのか。
君は本当に、君なのか?
疑心は闇にいざなわれる。
あの男は冥界の王。
死者を手放すわけがない。
そんなことはないと言ってくれ。
エウリュディケ。
エウリュディケ。
エウリュディケ。
嗚呼、オルフェウスは振り返ってしまった。
疑心に抗えなかった。
たった一言、ほんの一瞥でも良い。
彼女は最愛の妻なのか。
君だとわかる。
私の知るなにか一つでもあれば。

エウリュディケはそこにいた。
確かにそこにいた。
一瞬の永遠のようなその刹那、彼女のこの上なく悲しげな表情を最後に、冥界の闇に引き戻されてしまった。



「これが、琴座のオルフェウス。彼の物語です」
プラネタリウムにいるようだった。
四ノ宮さんの心地よいリズムと、紅茶の香りに満たされて、ここが寮の談話室であることを、忘れ去っていた。
しかし、何故彼らの話になったか。
話の発端は、全く別のことだった。
谷崎潤一郎の『春琴抄』についてだったが。


四ノ宮さんの語り部は続く。
彼はその後も、妻のエウリュディケ以外を愛することはなかった。彼女の面影だけを求め続けて歌う。
美しい詩を奏でるオルフェをものにしようという存在は沢山いました。それでも彼はエウリュディケの為の唄しか奏でません。それを良しとしなかったトラキアの女性たちに、石を投げつけられ、彼は絶命する。
「そこで彼は、地の底でようやく、エウリュディケとめぐりあって、愛を歌い続けられたのかもしれません

「振り返らずにいたら、このお話の面白みがなくなるんでしょうね」
「そうですね。彼女だとわかったら、太陽の光へたどり着けたと思います」
冥界の王は、求めるからこそ、得られない気持ちをよく知っている。冥界は、生きていたかった、なぜここにいるのだと嘆くものばかりだろう。

「そうだ!トキヤくん。目をつむってください」




夏の大三角形、ベガが有する星。
夜空に強く輝くその光には、愛の苦しみが込められていた。
届く光の中には、もう存在しない星の輝きもある。『あの点と点をつないで、よくこの形を思い浮かべるよね、昔の人って』


「僕は今、トキヤくんの手を握っています。これはボクの手です」
どうですか?
私の手より大きく、包み込む、少しひんやりとした四ノ宮さんの手のひら。「ボクの手は翔ちゃんの手よりずっと大きいんですよ」と、嬉しそうにいう。手には、少しだけ力が籠もり、熱を持った気がする。
四ノ宮さんにとっての翔が、特別なことが手を通じてわかる。
お互いの触れ合う場所が、熱を共有するように境界線をなくす。
私の温度が、四ノ宮さんの温度に溶けていく。
「まだ目を開けちゃ駄目ですよぉ」
そういって、一度四ノ宮さん手を離した。
演技の場以外で、手をつなぐことなど殆どない。こうやって繋がることに、戸惑いと、幾ばくかの喜びが押し寄せたが。それが虚空に消え去る。

「駄目だと言われると、目を開けたくなりますね」
「人はやっては駄目だと言われると、やりたくなることがあるんです。カリギュラ効果って言われていますね」
「駄目だと言われると、何が駄目なのか知りたくなるのは仕方ないと思います」
「ですよね。だからこそ、日本でも、鶴の恩返しのお話がありますし。見てはいけないですよ、って言われるとなおのこと、その対象への興味が湧く」
確かに、秘密があると、それを知りたくなる。ある種の探求欲。相手を知り尽くしたい、支配欲。どこにつながるかわからないが、抑制が抑揚の原因となることを、どうして人は避けられないのか。
「隣人を愛せよ。自分を愛するように、隣人も愛することができれば、きっと、世界はもっと素敵です。でも、もし。隣人を愛するな、敵と思えと言われても、きっと、愛するのと同じように、隣人を思うでしょう」
その言葉に、同室の騒がしい赤色がちらつく。
「自分を愛するなと言われると、自分のどこを愛していたか気づく。これらすべてがいけないとはいいません。抑制が気づくきっかけになることもある、はずです」
「そう、でしょうか……」
「言葉ではわかっているつもりなんですけど。難しいですね……」

振り向いてはいけないと言われて、エウリュディケがどんな人だったか、もっとずっと考えてしまったのではないでしょうか。
「それでは、トキヤくん。手を失礼しますね」



先程より温かく、ぎこちない手の握り方。
保湿のされていない、少しカサついた手のひら。
なにより、柔らかい部分が違う。
弦を扱う人の、固くなった指先。
琴は弦楽器。指先で感じる楽器。
だからこそ、手先まで、その相手への思いが詰まっているのかもしれないです。
弦を、指で弾くとき、その音は、陽気なときも、時折苦しみもあって……。


「これは……。ちがう……」

ビクッと小さく手が震えた。
スッと息を吸い込む音。僅かな音。
その音を聞いた途端、どうしても一人だけ思い浮かぶ。
これは、脊髄からのシグナルどおりに言えば、嫌な予感に近いのだ。
その相手でなければ良いという人物が一人。
隣人、脳裏をよぎった赤が、頭の中を埋め尽くす。
彼の奏でる指先が表す心。どれをとっても真っ直ぐな音。

「音也?」


薄く目を開いた先に、驚く顔が見える。
それからすぐに、顔が綻ぶ。
「なんでわかったの!?」
ぎゅっとこちらの手を握り返す。まるで見つけてくれたことが嬉しいように。指先から感じる高揚。
「流れとして、違うものを掴まされる気はしていましたから。……そもそも何故あなたがここにいるんですか」
「二人で向かい合って手を握っているからさぁ、何事かと思って」
「ボクがトキヤくんの手をぎゅーってしてたところからですね」
談話室に顔を出したら、私達の姿を見て何事かと思ったらしい。
「そーそー。トキヤが顔伏せてたから、何か悩み事かと思ったけど。そうじゃなかったんだね!」
悩み事は今目の前に居ますよ。
当人は「よかったー!」と、安堵するもつかの間、「どしてどうして?」と、手を強く握りながら喜色満面。矢継ぎ早の行き来に、いつもの、慣れてしまいそうになる騒がしさが、降り注ぐ。
それこそ直感だとしか告げることができない。



「もしかしたら、エウリュディケが答えなかったのは、こういうことかもしれないって、思ったことがあるんです。ハデスなら、エウリュディケにも、何かを与えたかもしれません」
四ノ宮さんの言葉に、なんのこと?と疑問符を浮かべる音也。
「これはオルフェウスの物語であって、果たしてエウリュディケはどう思っていたのでしょうね。彼女も、オルフェウスと一緒に生きることを望んだのなら、彼女にも掟があったかもしれない」

それは、振り向かないオルフェウスの背だけを見続けることか。答えてはいけないということか。
それもきっと苦しかっただろう。
姿が見えないことは、良いことも悪いことも、想像できてしまうんです。そこに居ない、それだけで、どうとでも思い描ける。それが物語にもなるんです。
愛を思い描くだけで、物語は生まれる。

「少なくとも、この手が音也くんと思ったのは、トキヤくんが音也くんのことを思い浮かべたんですね」
「な……っ。いえ、この妙に乾いた手は、たしかに、ケアの足りていない手で思い当たるフシが一つしか無いのは、ええ、否定しませんが」
「そこで!?」
「四ノ宮さんの手を握ってみなさい」
「那月の手〜あったかーい!」
「音也くんの手は優しいですね」
「情報の80%は目から得るものだと言われています。もちろん生まれつき目が見えない人も居ます。でも、見える人にとっての、トキヤくんの20%に、音也くんはちゃんといるんですね」
「だよね!だってトキヤ俺のこといつも見てるもん」
「見ていません」
「えーだって、目で追ったら目が合うじゃん」
「見ていませんたまたまです」


「きっと、音也くんはトキヤくんの佐助になれますよ」
「いやですよ、この男に委ねるのは」
「なんのこと?」
2度目の疑問符が、赤毛の上に浮かんで見える。


本当に、オルフェウスの立場になったときに、エウリュディケの存在が、自分にはわかるのだろうか。
そう考えようにも、最愛の存在が、目の前の騒がしい男に書き換えられそうになるのを、思考から振り払う。
20%の感覚すら奪ってくるこの男との付き合いは、これからももっとずっと長く続くのだから。



.
オルフェウス神話については、阿刀田高著『ギリシャ神話を知っていますか』を参考にしています。
谷崎潤一郎『春琴抄』については、ちょっと力不足でこの場に盛り込めませんでした。
名残だけおいています。

[utpr]夏の話06、遠雷03

会えなくなることは悲しい。
施設の、多くの子どもが感じていた気持ちだと思う。
両親を交通事故で亡くした子が入ってきた時、どうすれば笑顔を取り戻せるか、考えた。
俺がカンちゃんたちにしてもらったように、その子に同じように出来ればいいなって思った。
離れたくて離れたわけじゃないよね。
会いたくても会えない両親。
両親にひどいことをされてここに来た子たち。
ただ、学校にいるときより、思っているものが近いとおもえる俺たちだった。
自分の親にネグレクトを受けて、それで施設に来た子もいる。
両親の事はきらいじゃないけど、一緒にいると苦しい思いばかりで、ここの方が楽しいっていってた。
会えない苦しみはわかってあげられないけど、寂しいって気持ちは、どっかわかるから。


だけど、あの場所が寂しい場所かといえば、違う。
兄弟がたくさんいた。おはようも、おやすみも、ただいまだって、たくさん言った。
一緒に御飯を食べて、勉強もして、クリスマスや夏祭りに一緒に行った。
早乙女学園では寮生活になるから、施設を出ていくって日は、みんなが送り出してくれた。
カンちゃんが、頭をぐしゃぐしゃ撫でてくれて、みんなで写真を撮った。
それに。18歳までしか居ることはできないから。ずっと帰る場所にはならないってことを、俺たちは知っていた。
夏に飾った七夕飾りの願い事に、おかあさんとおとうさんにあいたい、と書いた子の短冊が、俺の願いの横に飾ってあった。
あのときなんて書いたっけ?



『あなたは、好きな人が亡くなり、よみがえるとしたら……会いたいと思いますか?』


その質問をされたとき、ただ漠然と、俺が思い浮かべたのは今は亡き母の姿だった。
ならば、戻ってきてはいけない。
俺だけ会えるのは不公平だ。
両親に会いたいと泣いたあの子の元にも、この世界の、別れに悲しむ人たちにも、同じようにその祝福が訪れるなら喜ぶことできるけど。
でも、
『きっと神様はみていてくれるわ』
祈りのあと、母さんはそういった。
母さんは行きたい場所にいけたのかもしれない。
もしかしたら、その先で、会いたい人に会えたかもしれない。
ーーー女で一人で…しかも、あの子、あの人の子供じゃないんでしょう?
ーーーなんでも妹さんの子供らしいわよ。事故で死んだとか
ーーーまあ、ご主人も事故で亡くなられたのに


俺にとって、以前はいて、今はいない人はその人だ。
病気で亡くなった。
まだ小さかった俺は、だからその時のこと、あまり覚えていないんだよ。
そう。
点いては消える、不安定な蛍光灯のよう。
仄暗い光が、輪郭を掴ませてくれない。



いっちゃ嫌だよ
おいていかないで
まだ、ちゃんとーーーー


そんなこと、言った覚えはないのにね。
でも、蘇るってこと考えたことなかった。
また会いたいって思うことはあるのに、心が頷かない。
「会いたい相手に会えて、喜ぶと思っていましたが、違うんですね」
意外だ、という表情に、自分でもそう思う。
会いたい人に会えるって、思えば、超嬉しいはずなのに。
会いたいと思う気持ちが、まったくないわけじゃない。
会いたい相手が、好きな子とは限らない。
そうだよね。
会えるなら会いたいって気持ちは、本当だよ。
幸せで、楽しかったのに、別れは悲しくて、それ以外にもっとあったはずだけど。
上手く思い出せないところが、沢山ある。
ザリザリとする感覚が、これ以上深く潜り込むことを引き止めていた。
その感覚を深追いしたくなくて、俺は、よくわからない、と答えた。
その明かりを見ていたくなくて、扉を締めた。
だって本当にわからないんだよ。
しっくりくるフレーズが見つからないんだ。



.
甚だ捏造をしています。
正直、施設のお兄さんお姉さんと、音也の絡み凄く見たいと思ってます。
カンちゃんと大ちゃんって固有名詞が出てきているだけで色々考えてしまいますね。

[utpr]夏の話06、遠雷02

頭の中を流れる映画の主題歌が、画面から聞こえる、地を這うようなうめき声に書き換えられる。

眼の前では進まない時間が流れる。
実のところ、そのゲームは実際にプレイしたことがある。
HAYATOの方での、特別親しくもなかった共演者に、
進められて借りた。いや、押し付けられたというべきか。
『そういうのは苦手だと断ればよかっただろう』
『あのままだと、好きなものを言うまで次から次に持ってこられそうだったので。面倒ですから』
『で、ゲームの経験はあるのか?』
『いえ』
マネージャーの苦笑い。
お前も年頃だからな。色々やってみると良いかもしれない。
たまにいる。押し付けと好意を履き違える人間が。
さっさとクリアして返すために、攻略の方法を調べた。
『一日もあれば終わらせてみせます』


進み方は知っている。
だからこそ、アレコレと手探りに進む音也に、口出しをしそうになるのだが。
進めないなら、別の方法を考えなければいけない。
その場にあるものを、全て疑う。
それでも。
眼の前にある物語を、楽しみながら向き合う姿に、己の中の足りないものを知る。

翔にやってもらおうかな。
そう独り言を言っているのが聞こえた。
同じクラスの来栖翔の名前が上がる。
別のクラスとはいえ、音也と翔はいつの間にか親しい仲になっていた。
音也はそうだ。同じクラスの友人にこうやってゲームを借りたり。
いつも誰かと話している。
人懐っこい性格というのだろう。誰にも隔てなく接するから、どうにも人間に好かれやすいみたいだ。
彼の何がそうさせるのだろう。
HAYATOという偶像が目指そうとした形がそこにある。
現に、問い掛けてしまった。
何故彼に相談など持ちかけてしまったのか。
眼の前に広がるゲームが、知っている内容であったばかりに、口実が生まれてしまったからだ。


そうか。
蘇るというだけで、これほど価値観が違うとは驚かされてばかりだ。
「トキヤはどうなの?」
嬉しい?それとも哀しい?


夏の朝に聞く、サイレンの日を思い出す。
人は、生まれた瞬間に死に向かうというが。
その瞬間を明確には選べはしない。
それなら、生まれた意味はなんだろう。
死だけは、約束されたものなのに。
その間に、人は愛を知り、夢を持ち、苦しさと歩む。
だからこそ。
「手段があるならば、それを選ぶでしょうね」
答えをはぐらかしたことは、否めない。
また巡り合う機会があるのなら、あってみたいと思う。
それはどこか、形式上の答えに思えて仕方がない。
可能性があるならもちろん、それを掴もうと思うはずだと自分に言い聞かせているようだ。
「再び会えるのなら。私は手段を選ばないでしょう」
「こんなになっても、会いたいの?」
「……」
悔しくも少し想像してしまった。
眼の前に映し出されている、身体が腐敗し、ドロドロに溶けている。
指先を握れば、きっとズルリと剥がれ落ちるだろう。ぬめる感触を想像して、不快感に眉を寄せた。
手段を選ばないが、それだと、この形状であったとしても受け入れなければいけない。
ほんの一瞬、目の前の男の、グロテスクな姿が浮かんだ。
どうして?と考えるまもなく、消え去る景色に、違和感を感じるにはまだ、この時は足りなくて。
返答に詰まる質問をされたが、それに答えを渡すより先に、音也は、
「その気持を、どう表現するかってことだよね。うーん……うまくいえないけど」
カフェオレで口を濡らしている。
お互い、目の前の、止まった世界に目をやる。
瞳の中を覗くのが怖い。覗き込まれるのを避ける。


「蘇るのは嫌だな」


だってこれだよ。
「好きな子がいたら、わかったかもね」
机の上に置かれた小説を取り、裏表紙のあらすじを眺めている。
「トキヤにはいないの?気になる子」
「別にそれがいい人とは限りません」
そこまでして会いたいと思う相手が、もちろん恋人とは限らない。
なくなった同僚。
死別した両親。
親友。
会いたいと願う人が、どんな人なのか、それは分からない。
読み漁った物語の中でしか、それを体験したことはない。
それに。自分にとって会いたい人は、今はまだ、11桁の番号を打ち込めば、繋がる。
「そっか」
恋人とは限らない。
何よりももどかしいのは、そうか、思い描け無いのだ。
そうしてまで会いたいと思う姿が。



そうだよね、と、凪いだ音が、時折リフレインする。
彼がこの時誰を思い浮かべたのか、それを知るまで。



.
トキヤの読んでいる小説は『黄泉がえり』です。
映画にもなったので、ご覧になった方はいらっしゃると。昔見たことがあったので、それを思い出しましたが、明確な内容は忘れました。

[utpr]夏の話06、遠雷01

『あなたは、好きな人が亡くなり、よみがえるとしたら……会いたいと思いますか?』



梅雨特有の、体に空気が纏わり付く。
心地いいとは言えず、体にはった膜を取り払おうともがく。こんな時は動き回って、それらを振り払いたくなる。
雨の日は下を見ていることが多い。足元を気にしないと水溜まりで濡れちゃうから。


暑い夏が近づくたびに、言いようのない衝動に駆られる。寂しいような、駆り立てられるような、どこかにいきたくて、その場所がわからない。帰るべき場所が、わからなくなるような、心もとなさ。
知らない道に入り込んだまま進む困惑と希望。
それでいて、戻ることを許されず、走り抜けなければいけないような衝動。
遠くの雷雲がどんどん近づいてくるような焦り。
いいようのないものが体の中を駆け巡る。
こんな時は、止まっちゃだめだ。
抜け出さないといけない。
母さんが亡くなった季節が近づくからか。
抜け出せたと思ったのに。
やっぱり時々、やってくる。
これってなんだろう。
未来を選ぶ、もっと先、その先に生きる姿をイメージしないと。
わからないんだ。
まだ見えてこない。
きっと進むために藻掻いているんだ。



何度も同じところでゲームオーバーになる。
Aクラスの友達から借りたゲーム。
もうそろそろ、休憩しようかな。
翔もやったって。クリアしてるし、教えてもらおうかな。
一度、スタートボタンを押して画面を止める。
前も後ろも囲まれている。
それでもゲームの中では、こうやって一時停止する事ができる。だからゲームなんだよね。人生は一時停止なんてできない。
ゲームの中みたいに、何度も同じ場面を繰り返すことはできない。
いつも進んでいくだけ。
引き返すことなんて出来はしないんだ。


「左の方にある箱が不自然ではありませんか?」
「わ!」
すぐ後ろから声が聞こえる。
「ビックリした!……い、いつからそこに?」
「全く気づいていなかったみたいですね」
その集中力を別のことに発揮してみては?と、一言おまけが付く。
「うるさいなーもう」
心臓が出てきちゃうかと思った。すぐ真後ろにいたの、気付かなかったよ。
だって、さっきまでトキヤは机に向かってイヤフォンをしていたから、課題に集中していると思ってたけど。どこからか俺のやっているゲームを覗いていたみたい。
「やってみる?」
「遠慮します」
「もしかして、うるさかった?」
「それはいつものことなので」
トキヤが課題をやっているときに、俺に話しかけてくるのは珍しい。
「そっちも、なにか躓いたの?」
珍しいことがある時は、なにかがあった時。
でもやっぱりそうみたい。
あなたと一緒にしないでください、ってキッチンに消えた。
どうやら珈琲を淹れにいったみたい。
なんだろう。何か感じが違う。
試しに、俺にもカフェオレ作って、ってお願いしてみると、渋々了承の返事が帰ってきた。
これはいよいよ何か違う。
時折トキヤは優しくなる。
時折っていうと、言い方が悪いのかもしれないけど、トキヤは俺にとって天気。よく雷が落ちる。


本当にカフェオレにしてくれた。
砂糖もミルクも、丁寧に混ぜ合わせたこだわりのカフェオレ。
青天のヘキレキってやつ。
ちょっと感動しちゃって、どうしてか軽快で有名なギャロップが駆け抜けた。
おいしいんだもん。
トキヤってなんでも器用にこなすよね。すごいや。


ゲームの中では壮絶な生存戦闘が行われているというのに、その目の前で、ゆっくりとカフェオレに口をつける。
ちょっとだけ間をおいて、「仮に……」と、言葉が続いた。
「あなたは、好きな人が亡くなり、よみがえるとしたら……会いたいと思いますか?」

なんでも死んだと思っていた人が前に現れた、という場面で、どう表現するかが課題らしい。
喜ぶのか、戸惑うのか、悲しむのか。
その人との関係設定をオリジナルに作った上で、場面をどう表現するか。
「そうだなぁ……」
頭の中の電球が、チカチカと瞬く。
消えかけの電球のように、何度も点いては消える。
その明かりの下に、誰かがいる。
顔がよく見えなくて、それが誰なのか、輪郭がはっきりしとしない。

「ゾンビとかじゃなくて?」
「そうではなく」
先程から画面の中ではプレイキャラクターが銃を構えている。
その目の前には、変色した肌色の、ゾンビ。
いまやってるの。ゾンビやっつけるゲームなんだから、今聞かれたらそう思うじゃん。
あちらの世界は、生き残るのも死にものぐるいなのに。
そんな向こうの世界を眺めながら、こうやって二人して温かい飲み物をすすっているんだから、現実の人間って本当に残酷だよね。



トキヤは小説の表紙を掲げてきた。
映画にもなったことのあるそのタイトルは、そのまま内容をダイレクトに物語っている。
聞いたことあるよ。内容はよくはしらないけど。
熊本のある地方で、亡くなった人が、蘇る謎の現象が起こっている。
俺たちがまだ幼いころ、そういった映画が話題になったのは覚えている。ただ、朧気でその内容も、結末も、あまり覚えていない。
でもすぐに答える事が出来なかった。
「うまくいえないけど、蘇るのは嫌だな」
だって、これだよ。こんな姿になって会いたくないな。


それでいて、綺麗なまま黄泉がえる姿を、想像したくなかった。


.

[utpr]夏の話05、冥界の帰路1


息を吸い込むと、新緑の瑞々しさが胸に広がる。
いつの時期も観光客は絶えることない場所。
日本の観光名所で名高い、四角四面が特徴の、古風な佇まい。
ここは古都、京都。
己が住み慣れた東京よりも、幾分緑が鮮やかに目に飛び込む。
さて、と動き出す気合を入れると、聞き慣れた声がする。
「今日もいい天気!」


5月半ば。大型の連休が過ぎた頃合。
春のざわめきからひと段落したこの季節は、少し動き回れば汗ばむが、新年度の緊張感から抜け出したい、体が動きたい、と内から叫びだす。
例にもれず自分もだった。
日本というのは、4月に色々詰め込みすぎている。

京都を選んだのは、今度出演するドラマのロケ地ということもあった。
東京から新幹線で2時間と少し。 朝早く出発すれば、十分に堪能できる。


有名な清水寺から、すこし下った場所にある小さな路地。そこが目指す場所だった。
その付近で珈琲でも飲み、ゆっくりと散策して帰るか。
そうとだけ思いえたらいいのに。

呪いのように繰り返される。

『好きになった人が、好きな人。俺はトキヤが好き』
その言葉が、ずっと離れない。
一つため息をついて、スマートフォン文字を打ち込んだのを思い出す。



突然の申し出だから、と一応断りを入れて、音也に連絡を入れた。
彼がその日オフなことは、自己申告により把握している。
お互い出演番組などが増え、すれ違う時間も多くなったため、直接会う時間も少なくなった。
嬉しい悲鳴である反面、 仕事の相手として一緒に居るのはいいのだが、お互いのことをゆっくり考える時間が、削られているのもまた現実。
恋人として進もうとすると、なぜか気持ちがかみ合っていないように思える。「好き」の形がどこか食い違っていると感じたあの頃の焦燥が、今なお燻り続けている。
恋人、はたしてそうなのだろうか。
私が好きになったから、好きになったのだという。
ならば、そう思わなければ、音也から、そう思うことはなかったのか。そんな不毛な考えされちらつく。


隠し通せるかと懸念していたが、とりわけ、音也は表面上以前と変わりがない。
思わずその時の言葉は幻かと疑うぐらいだった。
普段から思ったことが口から出ているといって過言ではない男が、これほどフラットに過ごすのだ。
逆にこちらの方が不審な行動を起こしはしまいか、気を張る。
好きだと告げてきたが、公言しないと断言した。
それはもちろん同じ思いだった。
誰も傷つけたくない。それはお互いのファンの事も、仲間も、お前のことも。
あの時、好きの感情に、傷をつけられる相手のなかに、自分がいた。
この好意は、だれかを悲しませることになるかもしれない。そう理解していたつもりであったが。
こういうことなのか?
好意が刃物になるのを、先に感じ取られてしまって。少なからずショックを受けた。
好きだと告げられて、それは自分とて同じだと思っていたのに。結果売り言葉に買い言葉のような返答で、この関係を結んでしまった。

どこでこの男に感情を抱いたのだろう。
それは確かにここにあるのに。
音也の「好き」と、私の『好き』は同じだといった。
しかしそうなのだろうか。


いつかは生まれる感情だとは思っていた。
まだまだ未熟な自分には、経験が足りないだけで。当面、その方面で悩むことはないと思っていたのに。
16歳。あの日出会った、今もなお隣りにいる、この男に感情が向くなど、思っても見なかった。
男友達に向ける、少し特別なものでもあったかもしれない。
特別な思いが、一人に向けられるべきでは無い。
その点で、音也は常日頃から、何に対しても「好き」という表現をしつづけている。
私にもその言葉は、ごく普通に向けられる。
好きという言葉を聞かないわけではない。
変わったのは、自分の感情が、理解しがたい貪欲に乾きを感じている。


会いたい思いが募る。積もるといったほうがいいかもしれない。
ここまで誰かを求めるようになったのか。
いえ、居てほしいと。もとからあったはず。思いの形は少し違うが、そこにいてほしい人を知っていた。
形が変わって、11桁の数字だけが、その人とのつながり。
両親を見てきたからと言って、愛が分からないというのは間違っている。結果は過去にあるのではなく、未来に出すものなのだ。
数年前の自分からは考えられない変化に、時折自分がどこに走り出そうとしているのかわからなくなる。己の手綱を握れない、そんな自分が許せなくて。

幼い頃、両親に感じた、少なからずの失望。
それはきっと、己の幼さが、目上の人間に潔癖なまでの完全だと思ってしまっていたからだ。
その選択に間違いが起こることはない。
大人は、完璧な人だから。
自分の両親へもそうだ。



「いくいく!」
「やったトキヤと出かけられるの?」
「嬉しい!」
今家にいる?怒涛のように連なるLINEのメッセージ。きらきらと目を輝かせたスタンプ。それからすぐに電話がかかってきた。
打ち込む前まで懸念していたことは、果たして何だったのか。
緩やかな川を感じているのはこちらだけかもしれない。いつものように明解に向かってくる相手に、私はなにをためらっているのだろう。
壁にぶつかるたびに、その超え方がわからず、ただ途方にくれて見上げる瞬間がある。
トキヤは考えすぎだよ。そう言ってくるのもまた、音也なのだから。

「そっちの時間が大丈夫なら、前日の夜から前乗りして、朝から少し京都を満喫しようよ」
夜から、という誘いに、ドキリとしてしまって、頭を振る。
そんな関係をこの男に求めているのか。少なくとも、今はまだ、自分と音也がその関係に至る想像ができない。
「朝からゆっくりって、ちゃんと起きれますか?」
「トキヤがいるなら大丈夫だよ」
それはまごうことなく、私を目覚まし時計扱いしているということではないか。




「行ってみたい場所などは?」
「晴明神社とー、清水寺行ってみたい。いったこと無いんだよね。あそこ」
有名人がよく行く神社もあるみたいだけど、あそこはもっとビッグになってからかな。
あなた高所恐怖症でしょう?
間近に行かなければ大丈夫だよ。
晴明神社、路地、清水、どこも区域はちかく、思いの外、まとまった区画だ。
そこまで行き来が難しくないのもあって、その案を取り入れた。
晴明神社とは、渋いところではある。
聴けばゴガクのため、と本人の頭の中では変換されていないであろう漢字が出てくる。
ともすれ、行く場所が早々と決まったので、ホテルの予約や、食事のサーチをしておこう。
他にもいくつか行き先を見繕って、時間とその時の気分で立ち寄れそうなところを。
頭の中で、意気揚々と計画を立てていく自分を現金に思いながら、まるで踊らされているように感じる悔しさも感じた。
いたく他愛のない会話が久しぶりすぎて、電話を切った後に、自分の努めて冷静を装えたのかが心配になる。

「一十木から話は聞いたぞ。清水の舞台に立つ一ノ瀬を収めてくると意気込んでいた」
あの男は……。





「ここかな。マサが言ってたの」
興味を持ったのは、応天門から入り、清水の舞台に至るまでの途にある、そこ。
暗闇を通り抜けると、生まれ変われると言われている。
『胎内巡り』隋求堂。
「みたいですね」
先に入った組から、ざわざわとひめいのようなものがきこえる。
何も見えない!
改めて音也を見ると、珍しくじっくりと説明を読んでいた。



人数が区切られるとはいえ、前の組がまだ、中でざわめく。
連れとはぐれた女性の不安そうな声が聞こえる。
子供の手を離さないよう、声をかけ続ける父親の声。
暗闇を楽しむ学生たちの声。

早乙女キングダムのお化け屋敷も、こんな感じだった。
あの時は七海さんと、レンと一緒に訪れたのを思い出した。
姿は見えないが、声が聞こえる、おばけに、七海さんの心からの悲鳴が、可愛そうではあるが、少し愛しいとも感じた。
そうだ。あの時はアトラクションとして、驚くことを前提に踏み入れたのもある。
側でアレほど驚く存在がいると、なぜか冷静になれるというもので、その意味でも彼女に救われた。
そうだ。彼女のような、ひたむきで少し頑固な、けれど春の日差しのような人へ、感情は向くのだと思っていた。



「本当にわからなくなるみたい。でも、名前呼ぶのはまずいよね」
お前結構話題さらっていったから、名前、気付かれるかも。俺はまだまだかもしれないけど…などと悔しそうに言う。
朝のニュース番組を去るきっかけとなった、HAYATOを卒業する。受け入れてくれる人もいるが、非難の声が、未だないわけではない。
トキヤが選んだ道だろ。俺たちは応援するよ。

自分たちの職業柄、今でも目立たないように、極力正体を隠して過ごす。
外へ出かける時は、誰に見られているかわからない。この仕事を選んだ時点で、その事を意識することは日常だった。
そもそも人に見られて問題があることをするべきではないとは、常々思っていたが。
「あ、でも、真っ暗なら、手を繋げるかな。繋いじゃおっか」
「先程読んでいなかったのですか。数珠を辿って出口まで行くんですよ」
「なら、数珠はそっちが掴んでてよ。俺は」
足を踏み入れる。眼の前に広がる光を通さない色。
こっち、と小さく耳打ちされる声。闇に吸い込まれる瀬戸際に絡む熱。
また勝手な。敢えて力を込めて握り返せば、苦言が帰ってくる。それでも、お互いに離しはしなかった。


そうですね。ですが名前は呼べませんね。
この胎内で、数多の人間の香りを混じり合わせた。
満員電車に乗った時に近いかもしれない。
正直、この季節の水気を含んだ空気と、暑さに火照る人の気配に、心地よさは感じない。
音也に言われなければ、きっと立ち寄りはしなかっただろう。





数珠を伝い続ければ、出口には迎える。
それでも、見失う人もいる。
人は情報の80%を目に任せているから。それを芯から理解するのは、なかなか難しい。
目をつむっても、まぶたを通して入ってくる光が、その先に存在するの知っているが、ここはちがう。
昔の人は暗闇を避けるように、物怪や妖怪をそこに据え、暗闇には近づかないように。
近づかないための教訓として、暗闇の中に、その物語を生み出してきた。
暗闇は恐怖と、それでいて原初の居場所のような、僅かな魂の帰還も感じる。
だからこそ、危うい。ここから抜けなければ、帰ることができないと、生きる身体がそう訴える。そういう恐怖もある場所だ。
「うゎ、全く何も見えない。今なら変な顔し放題だよ」
つながった先から聞こえてくる声が、心なしか笑顔の音が失われているように思える。
20%の知覚がそう訴えるのか。それは私の願望なのか。



「ゆりー、どこにいるのっ?」
「ここにいるよー!」
「ここってわかんないよぉ……」
前方をいく組が、どうやらはぐれたらしい。
お互いの声に距離感がある。
ゆりはこの状況を楽しんでいるようだ。
探す少女の焦り声が、近づいていくると感じていたが、自分の前に、明らかに音也とは背丈の違う衝突があった。

「あ」

それは誰の声か。一言でもわかる。
その少女を支えるよに、咄嗟に手を出した。
まるで遠のいていくように、ぽつりとこぼれた声が、声の主との繋がりが、今消え去った。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ」
声からして、間違いなく先程のゆりさんの連れだ。
相手も、探す人物ではないことがわかったはずだ。顔も何も見えないが、進む方向が分からなくなったようだ。それに、ぶつかった相手が自分より大きな男だとわかったら、警戒するだろう。
肩であろうに場所に触れた手に、小さな震えが伝わる。
左手に数珠を感じれば、間違いなく進んでいるとわかるのだが。
「大丈夫ですよ」
不安の気配が、支えた手のひらから感じ取れる。
すみません、と声をかけて、そっと手を取り、数珠へ手を添わせる。
暗闇の中、間違いなく触れなければ、問題になりますからね。
「数珠に触れていたら、ここから抜けられますから」
そのまま進んでください。
安心させるように、なるべくゆっくり言葉にする。
「あ、ありがとうございます!」
「はるかー!大丈夫!?」
遠くから、連れの子が、今度こそ心配した声で名前を呼んでいる。

私達にとっても大切なその名前が、彼女の名前か。
同じ音を持つ彼女が、絞り出した悲鳴を思い出す。
暗闇にいるなら、あれくらいしっかり存在を示してほしいものだ。



さて。
数珠をなぞるのは私の役目で、音也は私の手が頼りだったはずだ。
なぜ何も言わないんですか。
意図的にそうしているとしか思えない。
このままお互い、無事に出口にたどり着けることを願って進むか。
『あ』
小さく零れた声が、妙に耳に残る。
汗ばんだ掌が冷めていくのを感じる。


暗闇の中で、この道がどれほどの広さかもわからない。
目が機能してない分、耳が敏感に気配を捉えようとする。ざわめく人の声。低い音から高い音まで、この場でざわめく。この音の中から音也の音を見つけるのか。
どこだと騒いでくれたら、いっそ楽なのに。
まるでここに居ないように、声が見つからない。
名前を呼べば、いいのだが。
先程の少女たちのように、ここにいると、答え合わせが出来ればいいのに。
出来はする。何を優先するかだ。


『この闇をぬけると、生まれ変わる』
まさか。
絶望的な結論にたどり着いた。
歩き出すことができない。
離れてしまった手の先が、どこにあるのかが分からない。
この先を抜けて、もしもーーーー


『パートナーいないよね?トキヤはどう?』
なぜ今それを思い出してしまったのか。

まだ卒業すら決まっていないあの頃。
少なくともお互い必死に、その場所を目指していると思っていたのに。
七海さんのパートナーにならないか。そう提案された。彼女とパートナーを結んでいたのは音也なのに。彼の口から出た、あまりにも無責任な言葉。
あの時、七海さんの言いようのない悲しみと絶望に、僅かな怒りすらめぐった顔が浮かぶ。
その話を振られた自分も、言いようのない苛立ちがこみ上げた。
思い詰めたような表情をしていたのは、気づいていた。何かを考える時は、内側の誰かと会話しているように、その表情の下で、いくつも問答が繰り返されている。
そうだ。答えは自ら出さなければならない。
だから、見守っていた。
ちがう。試していた。
ただ、たどり着いた結論は、まるでこの世界から居なくなる人間のように、諦めも感じていた。
15という齢で、あなたは何を考えているんですか。
ここから消えようとしているのではないか。
音也はそうなのだ。本当の事を告げる前に、自分で答えを出すことがある。
何かあったなら、それならそうと、言えばいいのに。
あの日感じた言いようもない喪失感は、今なお胸のうちに残る。
「大丈夫」
それが彼が自分に言い聞かせるための言葉だった。
『大丈夫ですよ』
先程、あの少女に言った言葉。
安心を促すための言葉なのに。どうして同じように使えないのか。
誤診による余命を宣言されて、その結果の言葉と知った時でさえ、心から安心など出来はしなかった。
何も告げずに、去る準備をするような男なのだ。
誰の為を思ってそうしたのか。
自分が同じ立場になった時、どうするのか。
彼の考えが、もちろん分からない訳ではない。


生まれ変わりを願うこの暗闇。
ここはまるで冥界の帰路。

冥界から愛する女性を連れ戻そうとする神話がある。
彼の美しい竪琴に、冥界の主が許しを述べた。
本当にそれは、許しだったのだろうか。
『太陽の陽がさすまで、決して、彼女の方を振り向いてはいけない』
しかし、彼は振り向いてしまった。
彼の呼びかけに、なにも答えない彼女が、彼女である確信が持てず。心の疑心に蝕まれてしまった。
オルフェ。
光まで耐え抜ければ、2人はまた一緒に生きることができたのに。

光か。


ここでは振り返ろうとも、エウリュディケの姿は決して見えない。
オルフェは、目が見えるからこそ、叶わなかったのだ。
振り返ってみた。
目の前にはどこをみても変わらぬ暗闇。
何も見えない現実に、何故か、本当に見たいものが、わかった気がした。
それがどうした。
思い描けば良いのだ、そう、そこにいるはずの、太陽のような存在を。


「音也!」


例え神話がそうであろうと、自分たちの道は選べる。
道がなければ、開けば良い。
暗闇の中、驚くほど、自分が何に不安をいだき、何を求めていたか、気づく。
離すものか。
ああ、今ここが光の射さない暗闇で良かったとさえ思う。
変な顔を仕放題といった彼は、本当はどんな表情だったのか知りたい。
笑顔の音ではなかったと、私の耳は、そう受け取った。
今の私も、彼に見せるには情けなさすぎると思う。
ただ。少なくとも、今この瞬間、この手のひらは熱の在り処を必死に探している。
己が思うよりもっと、ずっと深い部分は、彼を求めている。手放してもまだ掴むことは出来るはずだから。
『怖くて怖くてどうしようもなくなったら言ってね』
悲しむ私を思っての言葉でしたか?
この感情は、きっと怒りにも近い。


「呼ばないって、いったじゃん」


さきにいくのは、だめだからね。
あたりを見渡しても、そこには暗闇しかないのに。
あの日見た、幼子の寝顔が、よぎる。




.

京都ありがとうございます。
随求堂とあじき路地。
随求堂は通路の幅そんなになかった気がしますが、ご愛嬌。
あと途中に光のある場所があるので、その辺も続きをかけたら良いなーと思いながら、尻切れトンボしました。
あじき路地は、麻生みことさんの『路地恋花』の漫画で、舞台があじき路地に触れました。その漫画のドラマ化をした、というていで書いています。
夜乗り込み朝目覚ましの話などなど、回収できないもの沢山。

[utpr]夏の話04、一からはじまる

どんな人を好きになるか?
わかんないよ。好きになってみないと。だけど、その人を好きになった時、俺はその人の事、きっと大切で、幸せになって欲しいって思うんだろうな。それを俺が叶えられるようになりたい。その人が好きな人なんだから。


同室の相手は、あのHAYATOだった。
正確には、HAYATOの弟だって。そんなのいたんだ。
中学の時もHAYATOのファンの子はいたし、俺も好き。面白くて。よく朝のニュースみてるよ。でもHAYATOが持つ、雰囲気とか、そこから好きだったから、それってどこから来るのかなって。俺自身にもわからなかった。
人に対して、苦手な部分を探して見つけるより、いいなって思うところが見つかったほうが、きっと楽しくなる。
トキヤを初めてみたときもそう。
男の俺から見ても、綺麗な顔をしてるって思った。
でも、いつも楽しそうじゃない。どこか無理をしている。
きっと笑えば、すごく素敵なのに、そこから抜け出せずにいる。
そう感じたから、俺ができることはなんだろう。俺が知っていることは、トキヤはたいてい知ってるし。
ああそうだね。一人でいると、いつまで経ってもひとりなんだ。
俺はそばにいることしかできない。
でもそれが、俺ができることなんだよ。

「トキヤの字、真っ直ぐで」
好きだよ。
字が綺麗で、思わず言っちゃった。
記入欄に書かれた名前は、枠からはみ出ることもなく、それでいて、小さすぎない。綺麗なバランス。
トキヤは、零れそうなくらい目を見開いた。
さっきまでの仏頂面が、どこかに吹き飛んだ。
すっごく、無垢な表情。あ、この感じ、好きだな。
本当にそれくらいのはじまりだった。
そういう好きがいくつも咲いていく。


それにね、昔っからそうなんだけど。
好きってさ、口じゃなく、心のほうが先に感じてる。俺、うまく説明できないんだよ。
ドキドキしたり、ソワソワしたり、心が暖かくなる。見ると嬉しくなる。歌いたくなる。そんな気持ちがビビッと駆け巡るんだ。それを体の中に留めるなんて無理。
気持ちを伝えないと、苦しくて仕方ない。
伝えたくても伝えられないのは、苦しいよ。
この思いを届けたい。
聞いてほしい。
それが、同じ思いであればもっと嬉しい。
そう。本当は、届けたくても届けることができなかった、あの日の俺がね、そう言ってる。


「トキヤ、俺の名前書いてみてよ」
「何故ですか」
「なんとなく。トキヤの字綺麗だから、俺の名前書いてほしいなって思って」
「だから、何に使うんですか」
「使わないよ〜」

結局ゴリ押しで、手元にあった紙に書いてもらった。
吹っ飛んでいたた表情は、元の場所に帰ってきつつあるけど。なんかよかったかも。
意味がわからない、と言いながらも、慎重に一画ずつ形をなしていく、俺の名前。トキヤの中の俺。俺って、ちゃんと、誰から見ても『一十木音也』なのかな。そう考えるときもあるけど。
バランスがきれいに整えられて、綺麗に一直線。こんな風に見える俺もいるんだね。なんだかおかしいや。
「俺が書いたトキヤもあげるね」
「いりません」
トキヤの音也はそこにいる。
ドキドキしてきた。他の人に名前を書いてもらうことってほとんどないから。

「俺たち、『一』って同じ文字入っている。しかも最初に。『い』で始まって、『や』で終わるのも一緒だし、ひらがなで書いたら同じ17画!(※)一緒なことがもう3つもあるんだよ」
「はあ。言われてみればそうですが……。一ノ瀬なんて名前、別に珍しいわけではないでしょう?」
怪訝な顔をしながら、それでもじっと紙に書いた文字を見つめるトキヤ。そもそもそんな事考えたこともないですよと、感心混じりの呆れた声。
自分の命の音が、いくつの画数で構成されているか。俺も昔友だちに言われないと、考えたことなかった。
「あなたの姓は、馴染みがないですね」
「だよね。俺も俺以外まだ出会ったことがないんだ」

他にもいるのかな。
俺を産んだ母さんの姓は、愛島だった。
母さんの姉さんだから、育ててくれた母さんも、愛島のはず。

『一十木さん、お加減はいかがですか?』
『一十木さんのところの、音也くん』
あの名前は、母さんが、旦那さんから贈られた名前。
旦那さんの家族のことも、何も知らない。
二人の間には子供が生まれなかったのと、俺が来た頃には、旦那さんはなくなっていた。
この名前は、どこに繋がっているんだろうか。

「もしも『いっときときや』だったら18だし、『いちのせおとや』だったら16なんだよ?」
「だからなんで、……いえ、もういいです」
違う名字と名前を口にすると、やっぱり違和感があって、自分の名前が自分の『音楽』なんだって、気づく。
でも、この姓にならなければ、今こんなに一緒が揃うことはなかった。
一緒があったことが嬉しいけど。トキヤは嬉しくなかったかな?
難しい顔がどこかに行ったから、今回はこれでいっか。




どんな人を好きになるか?
好きになってみないとわからないよ。
あの日、渋々とでも俺の名前を書いてくれたその人に聞いてみないと。
運命論なんて、語ればたくさんあるけど、何よりも、始まりの音が一緒なのは、この名前のおかげ。



.
好きになった人が好き(タイプ)、という原理はシャニライの2018Grateful WhiteDayの音也のストーリーより。
※ひらがな画数表でみると、『ち』は3画、『お』は4画となります。芳文堂さんの画数表と、無料の姓名判断サイトにおいての画数参照です。どうしてそうなるのかはわからないのですが、ここでは手書きの画数でいきました。
ちなみに、ひらがなで姓名判断した場合、それぞれの外格が入れ替わっているような感じでした。


2 2
3 1
1 2
3 4

2 4
4 2
3 3

[utpr]夏の話03、鍵の在り処

忘れるのって、怖いよね。
それを知っていたって、思い出すことすらなければ、いいんだけど。
忘れているってことだけ、わかって。
その先が思い出せなくなるのが、時折とても怖くなる。
なんで人って、大好きなもののことでも忘れてしまうんだろう。
忘れたほうが楽なこともあるから?
あんなに大好きだったのに。
あの頃とはもう違うんだよ。



自分が生きるために、大切な人との思い出も、忘れようとしてしまったことに気づいた。
大切なのに。
もう会えない人だと知るのが怖くて、考えないようにしていた自覚もあるんだ。
たった一つ、その人が存在していた証拠として、手作りのロザリオだけが手元に残った。それを持っているのは、その人が生きていた証拠であり、不在の証明でもある。
温かった。
公園にいつも迎えに来てくれる。
俺を抱きしめてくれる、温かい腕。
決まった日に、一緒にお祈りに行った。
あの人は、何を祈っていたんだろう。


忘れることは罪ではない。
そうやって優しく先生は抱きしめてくれた。
生きる続けるために必要なのだから、と。






ーー記憶を呼び覚ます手がかりに、思い出の物や場所がありますーー

俺には、母さんがいた。
本当は血がつながっていない、叔母さんだったけど、最後までその事を本人から聞くことはなかった。
写真も手元に残っていないのは、見ることで、当時の悲嘆が蘇らないかと危惧した人たちが、手元に残すことをやめたらしい。
本当のところはよくわからないけど。
当時の事はよく覚えいない。ずっと泣いていた。
どうやって生きていたかすら思い出せない。
ただ、いつもいた存在に、もう永劫会えることがないっていうのが、よくわかっていなかったんだ。
帰るべき場所が、そうではなくなった。
別の場所が、新しく帰る場所。
言葉では理解しているつもりだった。


映画のオーディションに受かって、なんとそれは俺たちの先輩、寿嶺二……レイちゃんの弟役。
すごく嬉しかったし、緊張もした。
撮影が進むに連れ、夢を持って家を出ていった兄と、俺の役……兄の帰りを待ち、家を支える弟。俺以外にも弟がいて、なんだか施設の頃を思い出していた。
撮影現場でも、学校の話とか、そんなに歳が離れているわけじゃないけど、新鮮だった。
だけど、そのシーンの撮影が近づくにつれ、忘れていることがあることに気づく。
今では台本を読むのも苦しい。
病院、息を引き取った母親。
なんでなのか、思い出せているはずなのに、頭が思うように、思考しない。
思い出さなければいけないのに、眼の前の扉の開け方がよくわからない。
何の変哲もない、白地に、シルバーの取っ手のついた、無機質な扉。



そこに行けば思い出せるかもしれないと思った。
思い出さなくなる時間が増えていることに気づいて、大切に思っていた感覚だけが残っている。そんなものなのか。
大好きだと思っていた漫画の内容が思い出せなくなったり、中学校の頃の最初に声をかけたあいつの名前。
笑い方を忘れたり。
そんなものなの?
大好きなものを思い出せなくなること。
いつか音楽を忘れてしまうのではないかという、恐怖。


あの頃に戻りたいなんて、そんな事めったに思わない。
いつも前だけ見て走ってきた。
ちがう、戻りたいわけじゃない。
また繰り返すなんて、いやだ。
知りたいんだ。
閉じてしまった扉の向こう側の開け方が分からなくて。
この扉の開け方を、見つけなくちゃいけない。
そんな焦燥感。
なにかが見つかるかもしれない。
「開け」
それを開ける鍵が見つからなくて、鍵の在り処を、探さなくては。
「開かなきゃ駄目なんだよ」




記憶の中と随分変わった町並みに、あまり懐かしさは覚えない。
東京といえど、郊外にあったその家は、庭に花がいつも咲き誇っていた。
モッコウバラ、チューリップ。水仙に、ノウゼンカズラ、桔梗。
夏の庭は、ひまわり。


みちみちにわずかに残る、小さな面影にあの頃の記憶をたどる。
冒険した小道は、きれいに整えられ、白地の四角い建物が目立つ。
焦燥。
今となっては、何故一度もここに来ようと思わなかったのかが、不思議なくらいだ。
思い出の詰まった場所なんだから、会いたくなればここに来ればよかったのに。
額に嫌な汗がつたう。
夏の盛り。空からは遮ることのない日差しが焼き付ける。
蜃気楼の中に佇む、あいつ。
ドッペルゲンガーがいう。
『いなくなったことを確かめに?』
早く。あの庭を見たい。
もしかしたら、もう別の人が暮らしているのかもしれない、なんて今は考えられなかった。
あの日のまま、きっとそこにある。
ひまわりはきっと。
よくお世話になったスーパーがあった場所には、事務所になっていた。
はじめて一人で買い物に行った場所だった、はず。
何を買ったか思い出せないけど、そんな記憶がおぼろげに残る。


「ここ、なの?」
呆然と見上げた。
そこには、小さな病院が建っていた。
本当にこの場所か。
スマホに住所を入れると、たしかに今の位置を示す。
どこか祈っていたのだ。
ここに来れば、扉が開かれると。
どこかで信じていた。
母さんと暮らしていた場所は、欠片も、残っていない。
どこにも、ひまわりの花は咲いていなかった。
鍵は、なかった。



どうやって帰ってきたのか、定かではない。
気がつけば、マスターコースで生活している部屋の、扉の前にいた。
扉を開く時、いつも、どこか心の底で一抹の不安と、伽藍堂の乾いた音が蘇る。
開いたその先、それでも光の集うステージに飛び出る時は、ドキドキして、待っていられないくらいだったのに。その気持が思い出せない。
ずっとこんなんだ。思い出せなくなってばかり。
眼の前にずっと、扉があって、その扉に合う鍵を探し続けている。
こんなことばかり、思い出しても仕方ないのに。


「おかえりなさい」

あれ?
「だだい、ま」
あれ?なんでだろう。視界がクリアになる。
帰ってきても、『ただいま』っていうのは、ずっと続けている。
例え、それに答えがなくても。
声の主。同じ部屋で過ごしている一人。トキヤ。
入れたばかりのコーヒーの香りが、鼻孔をくすぐる。
ブラックは苦手だけど、淹れたてのこの香りは好きなんだ。
そうか、開いた扉の先に、誰かが『おかえり』といってくれる。
それは、魂が帰る音のようだ。
今日の一瞬で、この場所も忘れてしまっていたのか?
安心したのもつかの間、ゾッと指先まで凍る。
「レイちゃんは?」
「まだ仕事で、今日のうちには帰ってこられないんじゃないですか?」
「そっ、か」
ひっぱりだこだもんね。
一つ一つ、ここでの暮らしを思い出す。
なんて恐ろしい。戻ろうと願えば、今を忘れてしまう。

「どうしたんです?最近のあなたは、柄にもなく落ち込んでいるようですよ」
「柄にって……楽しく笑ってないと、やっぱり俺らしくない?」
トキヤの答えはない。
言葉が帰ってこないことが、肯定のように思えて、ひどく苛立つ。ノイズが頭の中に鳴り響いてうるさいんだ。
そんなの、人に答えを求めることでもないのに。
沈黙も言葉、なんて言うけど、今がまさにそう。
この間に頭の中を洪水のように後悔と苛立ちと悲しみが、形にならない、ぐにゃぐにゃな言葉であふれる。
嫌なことを聞いてごめんね、って言えばいい。
でもさ、知りたい。
笑っている俺が、一十木音也なら、笑ってない俺に、名前はあるの?

「人は、笑いたくなくても、笑うことがことができますよ」
かつて、自分がそうだったように。そうトキヤはいう。
トキヤはHAYATOの時代に、それは知っている。
でも、HAYATOの笑顔には、どこかトキヤの本質があったように思った。だって、トキヤは自然に笑う時、とても楽しそうだもんね。
俺と一緒にいて、笑ったことなんてほんの一握りだけ。
遠くで。画面越しで。ほんの時折、そばで。

「ねえ、トキヤ。笑ってみてよ」
どんなふうに、俺がどんなふうに笑っていたか、さ。
「……少し、待ってくださいね」
コーヒーを置くと、まっすぐこちらを向いた。
トキヤの瞳にはきっとひどい顔の男が写っているんだろう。
それがどこか悔しい。
そんな姿、トキヤに見られたくはないのにな。

笑った。
とてもきれいで、それが演技なら、やっぱりトキヤは凄いや。
でも、そんな表情、俺っぽくないよ。
それはトキヤの、笑顔じゃん。
俺っぽくないって、自分の笑い顔すら思い出せないのに、何いってんの。
ああそうか。俺、自分がどんなふうに笑ってるのか、あんまり気にしたことなかったか。

スッともとに戻る。
少し気まずそうにトキヤは、目をそらしたけど、今度はあえて作ってます、って笑顔をした。
でも、俺よりは全然、笑えている。
「口角を上げるだけでも、笑顔を作ることはできます。それに、エンドルフィンは、治癒効果があると医学的に立証されています。痛みを和らげてくれる。作り笑いだろうとなんだろうと、体には関係ありません。筋肉の動きが、その分泌を行い、効果を出すのですから」
ウイスキー。そうやって急にお酒の名前言って何かと思えば、そういうと、必然口角があがるらしい。
「少なくとも、その一瞬だけは、心のストレスを軽減させることができるはずです。身体の仕組みを覚えていけば、すくなくとも抜け出せる道はあるかもしれませんよ」
まるで自分にも言い聞かせているようだ。
今は理屈を聞きたいわけではないけど、それがトキヤなりの慰めだということだけは、わかった。

「あなたには、抜け出せる方法がありましたね。これは、私が教えられる、抜け出せる方法ですよ」

『抜け出せるよ』
いつかトキヤに言った言葉だ。
あの頃は知らなかったけど、一人でいたいと言いながら、一人で苦しむトキヤに、なにかをあげたくて。
ひとりはいつまでもひとりで。
眼の前のことに一生懸命になって、騒いでいるうちに忘れられる。
俺がわかるやり方が、トキヤにも当てはまるかわからなかったけど、それがなにかの糸口になれば、きっと苦しい顔が和らぐ。あのときはそう思っていた。

「やってみなさい。口角を上げて。笑顔は作れるんです」
「そう、だよね」
でもそんな哀しいこと言わないでよ。
あの一握りの、隣で見た笑顔はさ、きっと心が咲かせたものだと信じてる。
トキヤは乗り越えてきたんだ。
俺も、扉をいくつも開いてきた。
人はいつか抜け出せる。
きっと、鍵が見つかれば、扉は開くのだ。
やってみなさいって、言葉は強制的なのに、優しいから。どうして。
大丈夫だよ。
おれは、大丈夫。
だけど。
「うまくできないや」
これじゃ役者としても失格だな。
でも、トキヤは待ってくれている。
せっかく淹れたコーヒーに口をつけず。
俺が、笑うことを。
口角を持ち上げるだけのことが、どうしてできないんだろう。口の端が震える。今すごく情けない姿見られてる。
トキヤは、いつも俺を瞳に入れてくれている。
せめて、トキヤの目の中では、ライバルとして、誇れる自分でありたい。
ふと、思い出した。
口の端に指を当てる。
昔、何度かやったことがあるっけ。
カンちゃんが、俺のほっぺたを引っばって、やってくれたっけ?
そうだ、どんな笑顔も、その時できる精一杯なら、それは笑顔なんだって。
俺にできるのは、今はこれが精一杯。
きっと、ずっと、思うよりいびつな顔だろうけど。
「そうですか」
トキヤは一瞬目を見開いたけど、
「そうですね……100点満点でいうなら、7点くらいですが、ないよりマシです」
すっと手が伸びてきて、鼻をつままれた。
意図がわからなくて、俺は自分の指で口角を上げて、トキヤには鼻をつままれて。どんな状況なんだろう。

でも、まどろみの庭が、蜃気楼のように、思考からどんどん遠ざかる。
垣間見たトキヤが、小さく困ったように笑っている。
いつかの昔、ステンドグラスか映し出した陽だまりの絵に似ていた。
「今日はゆっくり休みなさい」
そういってトキヤはコーヒーを片手に、ベランダに出ていく。
つままれていた部分は、指先の感触だけが残っている。己に触れる誰がいる。そこにいる。
ひとりではないことが、肌を通して感じる。
ああ、久しぶりだね、この感覚。
胸元のロザリオを、服の上からギュッと握る。
銅の十字が、心臓の音を聞いている。




白く無機質な扉の、縦についたシルバーの取手。
リノリウムの床に差し込む光。
祈るようにその扉を、開く。
扉の向こうにはきっと、また別の扉があるのだろう。
けれど。その先を、知りたいと思う心が、また鍵を探し続ける。






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debutの時のことは未だに消化しきれていません。
どこまでが遺品として残っているのか。ゲームでは形見のロザリオ。アニメではひまわり畑の写真?
叔母さんの写真を見返すことができるのかどうか、遺品についてのことを考えていました。
「春の話」でも、上げましたが、記憶の遭った家がなくなっているエピソードがしんどいです。
病院のシーンは、PTSDとして扱われるものではないかと思いました。
また、口の端に指を当てて笑うのは映画『散り逝く花』がもとです。トキヤはその映画知っていると良いな。
「抜け出せる」のお話は、トキヤのRepeatメモリアル
『私の中のHAYATO』のくだりをこねこね。
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