息を吸い込むと、新緑の瑞々しさが胸に広がる。
いつの時期も観光客は絶えることない場所。
日本の観光名所で名高い、四角四面が特徴の、古風な佇まい。
ここは古都、京都。
己が住み慣れた東京よりも、幾分緑が鮮やかに目に飛び込む。
さて、と動き出す気合を入れると、聞き慣れた声がする。
「今日もいい天気!」


5月半ば。大型の連休が過ぎた頃合。
春のざわめきからひと段落したこの季節は、少し動き回れば汗ばむが、新年度の緊張感から抜け出したい、体が動きたい、と内から叫びだす。
例にもれず自分もだった。
日本というのは、4月に色々詰め込みすぎている。

京都を選んだのは、今度出演するドラマのロケ地ということもあった。
東京から新幹線で2時間と少し。 朝早く出発すれば、十分に堪能できる。


有名な清水寺から、すこし下った場所にある小さな路地。そこが目指す場所だった。
その付近で珈琲でも飲み、ゆっくりと散策して帰るか。
そうとだけ思いえたらいいのに。

呪いのように繰り返される。

『好きになった人が、好きな人。俺はトキヤが好き』
その言葉が、ずっと離れない。
一つため息をついて、スマートフォン文字を打ち込んだのを思い出す。



突然の申し出だから、と一応断りを入れて、音也に連絡を入れた。
彼がその日オフなことは、自己申告により把握している。
お互い出演番組などが増え、すれ違う時間も多くなったため、直接会う時間も少なくなった。
嬉しい悲鳴である反面、 仕事の相手として一緒に居るのはいいのだが、お互いのことをゆっくり考える時間が、削られているのもまた現実。
恋人として進もうとすると、なぜか気持ちがかみ合っていないように思える。「好き」の形がどこか食い違っていると感じたあの頃の焦燥が、今なお燻り続けている。
恋人、はたしてそうなのだろうか。
私が好きになったから、好きになったのだという。
ならば、そう思わなければ、音也から、そう思うことはなかったのか。そんな不毛な考えされちらつく。


隠し通せるかと懸念していたが、とりわけ、音也は表面上以前と変わりがない。
思わずその時の言葉は幻かと疑うぐらいだった。
普段から思ったことが口から出ているといって過言ではない男が、これほどフラットに過ごすのだ。
逆にこちらの方が不審な行動を起こしはしまいか、気を張る。
好きだと告げてきたが、公言しないと断言した。
それはもちろん同じ思いだった。
誰も傷つけたくない。それはお互いのファンの事も、仲間も、お前のことも。
あの時、好きの感情に、傷をつけられる相手のなかに、自分がいた。
この好意は、だれかを悲しませることになるかもしれない。そう理解していたつもりであったが。
こういうことなのか?
好意が刃物になるのを、先に感じ取られてしまって。少なからずショックを受けた。
好きだと告げられて、それは自分とて同じだと思っていたのに。結果売り言葉に買い言葉のような返答で、この関係を結んでしまった。

どこでこの男に感情を抱いたのだろう。
それは確かにここにあるのに。
音也の「好き」と、私の『好き』は同じだといった。
しかしそうなのだろうか。


いつかは生まれる感情だとは思っていた。
まだまだ未熟な自分には、経験が足りないだけで。当面、その方面で悩むことはないと思っていたのに。
16歳。あの日出会った、今もなお隣りにいる、この男に感情が向くなど、思っても見なかった。
男友達に向ける、少し特別なものでもあったかもしれない。
特別な思いが、一人に向けられるべきでは無い。
その点で、音也は常日頃から、何に対しても「好き」という表現をしつづけている。
私にもその言葉は、ごく普通に向けられる。
好きという言葉を聞かないわけではない。
変わったのは、自分の感情が、理解しがたい貪欲に乾きを感じている。


会いたい思いが募る。積もるといったほうがいいかもしれない。
ここまで誰かを求めるようになったのか。
いえ、居てほしいと。もとからあったはず。思いの形は少し違うが、そこにいてほしい人を知っていた。
形が変わって、11桁の数字だけが、その人とのつながり。
両親を見てきたからと言って、愛が分からないというのは間違っている。結果は過去にあるのではなく、未来に出すものなのだ。
数年前の自分からは考えられない変化に、時折自分がどこに走り出そうとしているのかわからなくなる。己の手綱を握れない、そんな自分が許せなくて。

幼い頃、両親に感じた、少なからずの失望。
それはきっと、己の幼さが、目上の人間に潔癖なまでの完全だと思ってしまっていたからだ。
その選択に間違いが起こることはない。
大人は、完璧な人だから。
自分の両親へもそうだ。



「いくいく!」
「やったトキヤと出かけられるの?」
「嬉しい!」
今家にいる?怒涛のように連なるLINEのメッセージ。きらきらと目を輝かせたスタンプ。それからすぐに電話がかかってきた。
打ち込む前まで懸念していたことは、果たして何だったのか。
緩やかな川を感じているのはこちらだけかもしれない。いつものように明解に向かってくる相手に、私はなにをためらっているのだろう。
壁にぶつかるたびに、その超え方がわからず、ただ途方にくれて見上げる瞬間がある。
トキヤは考えすぎだよ。そう言ってくるのもまた、音也なのだから。

「そっちの時間が大丈夫なら、前日の夜から前乗りして、朝から少し京都を満喫しようよ」
夜から、という誘いに、ドキリとしてしまって、頭を振る。
そんな関係をこの男に求めているのか。少なくとも、今はまだ、自分と音也がその関係に至る想像ができない。
「朝からゆっくりって、ちゃんと起きれますか?」
「トキヤがいるなら大丈夫だよ」
それはまごうことなく、私を目覚まし時計扱いしているということではないか。




「行ってみたい場所などは?」
「晴明神社とー、清水寺行ってみたい。いったこと無いんだよね。あそこ」
有名人がよく行く神社もあるみたいだけど、あそこはもっとビッグになってからかな。
あなた高所恐怖症でしょう?
間近に行かなければ大丈夫だよ。
晴明神社、路地、清水、どこも区域はちかく、思いの外、まとまった区画だ。
そこまで行き来が難しくないのもあって、その案を取り入れた。
晴明神社とは、渋いところではある。
聴けばゴガクのため、と本人の頭の中では変換されていないであろう漢字が出てくる。
ともすれ、行く場所が早々と決まったので、ホテルの予約や、食事のサーチをしておこう。
他にもいくつか行き先を見繕って、時間とその時の気分で立ち寄れそうなところを。
頭の中で、意気揚々と計画を立てていく自分を現金に思いながら、まるで踊らされているように感じる悔しさも感じた。
いたく他愛のない会話が久しぶりすぎて、電話を切った後に、自分の努めて冷静を装えたのかが心配になる。

「一十木から話は聞いたぞ。清水の舞台に立つ一ノ瀬を収めてくると意気込んでいた」
あの男は……。





「ここかな。マサが言ってたの」
興味を持ったのは、応天門から入り、清水の舞台に至るまでの途にある、そこ。
暗闇を通り抜けると、生まれ変われると言われている。
『胎内巡り』隋求堂。
「みたいですね」
先に入った組から、ざわざわとひめいのようなものがきこえる。
何も見えない!
改めて音也を見ると、珍しくじっくりと説明を読んでいた。



人数が区切られるとはいえ、前の組がまだ、中でざわめく。
連れとはぐれた女性の不安そうな声が聞こえる。
子供の手を離さないよう、声をかけ続ける父親の声。
暗闇を楽しむ学生たちの声。

早乙女キングダムのお化け屋敷も、こんな感じだった。
あの時は七海さんと、レンと一緒に訪れたのを思い出した。
姿は見えないが、声が聞こえる、おばけに、七海さんの心からの悲鳴が、可愛そうではあるが、少し愛しいとも感じた。
そうだ。あの時はアトラクションとして、驚くことを前提に踏み入れたのもある。
側でアレほど驚く存在がいると、なぜか冷静になれるというもので、その意味でも彼女に救われた。
そうだ。彼女のような、ひたむきで少し頑固な、けれど春の日差しのような人へ、感情は向くのだと思っていた。



「本当にわからなくなるみたい。でも、名前呼ぶのはまずいよね」
お前結構話題さらっていったから、名前、気付かれるかも。俺はまだまだかもしれないけど…などと悔しそうに言う。
朝のニュース番組を去るきっかけとなった、HAYATOを卒業する。受け入れてくれる人もいるが、非難の声が、未だないわけではない。
トキヤが選んだ道だろ。俺たちは応援するよ。

自分たちの職業柄、今でも目立たないように、極力正体を隠して過ごす。
外へ出かける時は、誰に見られているかわからない。この仕事を選んだ時点で、その事を意識することは日常だった。
そもそも人に見られて問題があることをするべきではないとは、常々思っていたが。
「あ、でも、真っ暗なら、手を繋げるかな。繋いじゃおっか」
「先程読んでいなかったのですか。数珠を辿って出口まで行くんですよ」
「なら、数珠はそっちが掴んでてよ。俺は」
足を踏み入れる。眼の前に広がる光を通さない色。
こっち、と小さく耳打ちされる声。闇に吸い込まれる瀬戸際に絡む熱。
また勝手な。敢えて力を込めて握り返せば、苦言が帰ってくる。それでも、お互いに離しはしなかった。


そうですね。ですが名前は呼べませんね。
この胎内で、数多の人間の香りを混じり合わせた。
満員電車に乗った時に近いかもしれない。
正直、この季節の水気を含んだ空気と、暑さに火照る人の気配に、心地よさは感じない。
音也に言われなければ、きっと立ち寄りはしなかっただろう。





数珠を伝い続ければ、出口には迎える。
それでも、見失う人もいる。
人は情報の80%を目に任せているから。それを芯から理解するのは、なかなか難しい。
目をつむっても、まぶたを通して入ってくる光が、その先に存在するの知っているが、ここはちがう。
昔の人は暗闇を避けるように、物怪や妖怪をそこに据え、暗闇には近づかないように。
近づかないための教訓として、暗闇の中に、その物語を生み出してきた。
暗闇は恐怖と、それでいて原初の居場所のような、僅かな魂の帰還も感じる。
だからこそ、危うい。ここから抜けなければ、帰ることができないと、生きる身体がそう訴える。そういう恐怖もある場所だ。
「うゎ、全く何も見えない。今なら変な顔し放題だよ」
つながった先から聞こえてくる声が、心なしか笑顔の音が失われているように思える。
20%の知覚がそう訴えるのか。それは私の願望なのか。



「ゆりー、どこにいるのっ?」
「ここにいるよー!」
「ここってわかんないよぉ……」
前方をいく組が、どうやらはぐれたらしい。
お互いの声に距離感がある。
ゆりはこの状況を楽しんでいるようだ。
探す少女の焦り声が、近づいていくると感じていたが、自分の前に、明らかに音也とは背丈の違う衝突があった。

「あ」

それは誰の声か。一言でもわかる。
その少女を支えるよに、咄嗟に手を出した。
まるで遠のいていくように、ぽつりとこぼれた声が、声の主との繋がりが、今消え去った。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ」
声からして、間違いなく先程のゆりさんの連れだ。
相手も、探す人物ではないことがわかったはずだ。顔も何も見えないが、進む方向が分からなくなったようだ。それに、ぶつかった相手が自分より大きな男だとわかったら、警戒するだろう。
肩であろうに場所に触れた手に、小さな震えが伝わる。
左手に数珠を感じれば、間違いなく進んでいるとわかるのだが。
「大丈夫ですよ」
不安の気配が、支えた手のひらから感じ取れる。
すみません、と声をかけて、そっと手を取り、数珠へ手を添わせる。
暗闇の中、間違いなく触れなければ、問題になりますからね。
「数珠に触れていたら、ここから抜けられますから」
そのまま進んでください。
安心させるように、なるべくゆっくり言葉にする。
「あ、ありがとうございます!」
「はるかー!大丈夫!?」
遠くから、連れの子が、今度こそ心配した声で名前を呼んでいる。

私達にとっても大切なその名前が、彼女の名前か。
同じ音を持つ彼女が、絞り出した悲鳴を思い出す。
暗闇にいるなら、あれくらいしっかり存在を示してほしいものだ。



さて。
数珠をなぞるのは私の役目で、音也は私の手が頼りだったはずだ。
なぜ何も言わないんですか。
意図的にそうしているとしか思えない。
このままお互い、無事に出口にたどり着けることを願って進むか。
『あ』
小さく零れた声が、妙に耳に残る。
汗ばんだ掌が冷めていくのを感じる。


暗闇の中で、この道がどれほどの広さかもわからない。
目が機能してない分、耳が敏感に気配を捉えようとする。ざわめく人の声。低い音から高い音まで、この場でざわめく。この音の中から音也の音を見つけるのか。
どこだと騒いでくれたら、いっそ楽なのに。
まるでここに居ないように、声が見つからない。
名前を呼べば、いいのだが。
先程の少女たちのように、ここにいると、答え合わせが出来ればいいのに。
出来はする。何を優先するかだ。


『この闇をぬけると、生まれ変わる』
まさか。
絶望的な結論にたどり着いた。
歩き出すことができない。
離れてしまった手の先が、どこにあるのかが分からない。
この先を抜けて、もしもーーーー


『パートナーいないよね?トキヤはどう?』
なぜ今それを思い出してしまったのか。

まだ卒業すら決まっていないあの頃。
少なくともお互い必死に、その場所を目指していると思っていたのに。
七海さんのパートナーにならないか。そう提案された。彼女とパートナーを結んでいたのは音也なのに。彼の口から出た、あまりにも無責任な言葉。
あの時、七海さんの言いようのない悲しみと絶望に、僅かな怒りすらめぐった顔が浮かぶ。
その話を振られた自分も、言いようのない苛立ちがこみ上げた。
思い詰めたような表情をしていたのは、気づいていた。何かを考える時は、内側の誰かと会話しているように、その表情の下で、いくつも問答が繰り返されている。
そうだ。答えは自ら出さなければならない。
だから、見守っていた。
ちがう。試していた。
ただ、たどり着いた結論は、まるでこの世界から居なくなる人間のように、諦めも感じていた。
15という齢で、あなたは何を考えているんですか。
ここから消えようとしているのではないか。
音也はそうなのだ。本当の事を告げる前に、自分で答えを出すことがある。
何かあったなら、それならそうと、言えばいいのに。
あの日感じた言いようもない喪失感は、今なお胸のうちに残る。
「大丈夫」
それが彼が自分に言い聞かせるための言葉だった。
『大丈夫ですよ』
先程、あの少女に言った言葉。
安心を促すための言葉なのに。どうして同じように使えないのか。
誤診による余命を宣言されて、その結果の言葉と知った時でさえ、心から安心など出来はしなかった。
何も告げずに、去る準備をするような男なのだ。
誰の為を思ってそうしたのか。
自分が同じ立場になった時、どうするのか。
彼の考えが、もちろん分からない訳ではない。


生まれ変わりを願うこの暗闇。
ここはまるで冥界の帰路。

冥界から愛する女性を連れ戻そうとする神話がある。
彼の美しい竪琴に、冥界の主が許しを述べた。
本当にそれは、許しだったのだろうか。
『太陽の陽がさすまで、決して、彼女の方を振り向いてはいけない』
しかし、彼は振り向いてしまった。
彼の呼びかけに、なにも答えない彼女が、彼女である確信が持てず。心の疑心に蝕まれてしまった。
オルフェ。
光まで耐え抜ければ、2人はまた一緒に生きることができたのに。

光か。


ここでは振り返ろうとも、エウリュディケの姿は決して見えない。
オルフェは、目が見えるからこそ、叶わなかったのだ。
振り返ってみた。
目の前にはどこをみても変わらぬ暗闇。
何も見えない現実に、何故か、本当に見たいものが、わかった気がした。
それがどうした。
思い描けば良いのだ、そう、そこにいるはずの、太陽のような存在を。


「音也!」


例え神話がそうであろうと、自分たちの道は選べる。
道がなければ、開けば良い。
暗闇の中、驚くほど、自分が何に不安をいだき、何を求めていたか、気づく。
離すものか。
ああ、今ここが光の射さない暗闇で良かったとさえ思う。
変な顔を仕放題といった彼は、本当はどんな表情だったのか知りたい。
笑顔の音ではなかったと、私の耳は、そう受け取った。
今の私も、彼に見せるには情けなさすぎると思う。
ただ。少なくとも、今この瞬間、この手のひらは熱の在り処を必死に探している。
己が思うよりもっと、ずっと深い部分は、彼を求めている。手放してもまだ掴むことは出来るはずだから。
『怖くて怖くてどうしようもなくなったら言ってね』
悲しむ私を思っての言葉でしたか?
この感情は、きっと怒りにも近い。


「呼ばないって、いったじゃん」


さきにいくのは、だめだからね。
あたりを見渡しても、そこには暗闇しかないのに。
あの日見た、幼子の寝顔が、よぎる。




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京都ありがとうございます。
随求堂とあじき路地。
随求堂は通路の幅そんなになかった気がしますが、ご愛嬌。
あと途中に光のある場所があるので、その辺も続きをかけたら良いなーと思いながら、尻切れトンボしました。
あじき路地は、麻生みことさんの『路地恋花』の漫画で、舞台があじき路地に触れました。その漫画のドラマ化をした、というていで書いています。
夜乗り込み朝目覚ましの話などなど、回収できないもの沢山。