[utpr]夏の話01、木漏れ日の道行き

夏日記
■木漏れ日の道行き

幸せに満たされても、怖さを感じることがある。明日も、目が醒めてこの世界は続いているのかな。君はこの世界にいるのかな。眠るのも怖いね。明日になんてならなければいいのに。ずっと今が続けばいいのに。そう思ったこと、何度もあるよ。
側にいるときはぬくもりを確かめる。いつも一緒にいることはできないけど、朝、目が醒めて、不安になったら他愛もない連絡を入れるんだ。おはようとか、今日も頑張ろうとか、天気のことだっていいんだ。こんな事思うのに、待つのは嫌いじゃないんだよ。何をしているのかなって、考えて、もしかして俺のこと考えてくれてるのかな?とか、連絡に気づいていくれたかな?って。その時どんな顔をしてる?笑っていてくれたら嬉しいな。
君の一日が、幸せで溢れますように。


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一十木音也
『木漏れ日ダイヤモンド』より

[utpr]春の話00、目次と余談。

目次
[Springreport]■リポート
[Springreport]■無題
[Springreport]■零れ桜
[Springreport]■アザミの太陽
[Springreport]■アンチノミー
[観察日記]■歪んでまっすぐ
[観察日記]■ひろくん
[Springreport]■独奏曲
[Springreport]■オールトの雲より
[観測日記]■夢を見るときは
[観察日記]■皐月の母。そして父
[Springreport]■リポート、そして
[観察日記]■ひろくん 2
[Spring report]■ヴァスパミナーニエ
[観察日記]■春の庭



(※)があるところは完全に捏造ですが、そもそもすべて適当捏造です。
一応音也、トキヤ15、16〜20、21歳までのあたり。
『木漏れ日』の「一緒になろう」についての研究レポート、春編です。
ゲームとアニメミックスシェイク。
かなりうろ覚えですが。
気持ちのサンクス。
・「悲嘆のプロセス」参考webサイト
・谷山浩子さん『催眠レインコート』
・映画『散り行く花』
・関J……8さんの番組シチュー回。
・あといろいろ知識とネタをくれる友人各位。

[utpr]春の話15、春の庭。

[観察日記]
■春の庭


「これをどうぞ」
「これ……」
 シンプルな銀の鍵が一つ。
「この家の鍵です」

 ただいま!、と扉を開けて駆け込むその先に、「おかえりなさい、音也」という母の笑顔。でも、いつも公園で迎えに来るのを待っていたはずだ。
 
 



『おつかい、ちゃんとできたよ!』

 ああちがう。あったよ。
 今はもうなくなったけど、家の近くのスーパー。
 渡されたお財布とメモと、首に下げた銀の鍵。行ったんだ。
 少し先の、赤く点滅する遮断機は渡っちゃいけない。そう教わったから。目の前を通り過ぎる大きな電車の風にあおられて、身体が揺れる。みんなが歩き出して、ようやく自分も線路の上をゆっくり渡った。走っちゃだめだからね。気を付けて。止まらず、終わるまで振り返らず。そうおかあさんに言われたのをちゃんと覚えている。
 渡り切ったその時、パッと後ろを振り返った。今まで通ってきた道何度も通ったことがあるけれど、一人で歩くと知らない世界だった。心細くなった。今すぐに帰りたい。おかあさん。進むことをあきらめようとした。
 ふわり、目の前を横切る、花びら。見上げれば、青空と薄紅の桜並木が、未来の道筋を作っていた。きっとずっとそこにあったんだけど、見上げて初めて気づいた。ドキドキとワクワクが体中を駆け巡る。
 だいじょうぶ。
 メモを取り出す。大好きなものにかわる名前が書かれている。ぐっと握りしめて歩き出す。
 売っている場所が分からなくて、教えてくれたおじさんも。一人でおつかいなの?えらいね、っていってくれたレジのおねえさん。時々見る、近所のおばあちゃん。そして、
『おかえりなさい、音也』
 あの日のカレーは、おつかいで買ってきた食材で作ったカレー。いつもと違う味。
 思えば、あの頃からかあさんは、これから生きていくための術をちゃんと教えてくれていた。
 その夏に他界したから、ずっと箱の中にしまい込んでいただけで。鍵を見つければ、こんなにもたくさんの思い出がよみがえる。

「……どう、しました?」
「ううん。またひとつ、大切な思い出が思い出せたんだ。ありがとう、トキヤ。この鍵、大切にするね」
「しまい込まずにちゃんと使ってくださいね。ここへ、私の元へ帰ってくることに」
 慣れてください、と言ったトキヤの顔は、すごく幸せそうで。俺がいることでこの笑顔が生まれるなんて、すごくすごくすごく、ああ、言葉にできない。好きって言葉以外でもっと表現したいのに、ダメだな、好きって言葉以外が見つからない。あの日見上げた桜のように。
 みんなに見せてあげたいけど、ダメ。これは俺だけの大切な思い出だから。


 帰るたびに思い出すのだろう。一つ一つ。
 トキヤは記憶をCDのようだといった。これから先、きっとこの日の事も、ミュージックになる。



春の話はこれでひとまず区切りです。
debutの時の音也の話を参考に。「はじめて一人で行ったスーパー」から、はじめてのおつかいと解釈しました。昔住んでいた家もですが、もうその場所が無くなってるの切ない。

[utpr]春の話14、ヴァスパミナーニエ。

[Spring report]
■ヴァスパミナーニエ


 人の記憶はCDのようだって誰かがいっていた。
 カセットテープのように巻き戻しと早送りで再生するのではない。
 CDのように選択し再生する、思い出す。思い出したいことも、勿論思い出したくないことも、記憶のトラックを開けば出てくるのだ。
 どんな人であれ、振り返れば過去というひとくくりの同一線上の上に綺麗に並び、ある程度振り分けたCDの見出しから、ああ、あの時の出来事はと選び出す。
「それってちょっと寂しいかも」
 俺はカセットテープの方が好き。生きてきた長さがわかるから。ああでも、昨日のことの次に10年前の事を思い出すこともできるのはいいよね。楽しいことの次にまた楽しいことを思い出せたら、幸せなんだよ。
「10年前、あなたはまだ小学生ですね。どんな小学生でしたか?」
「そうだな。急に歌いだすから、変な奴って思われてた、かな」
「正直、私も最初は、関わりたくないタイプの人間だと思ていましたよ」
「あー、うん、それは伝わってた」
「では私が初めてあなたの誕生日を祝ったときのことは?」
「あの時?あ、覚えててくれたんだって。こいつそういうこと興味なさそうだなーって思ってたから。だから、お前の誕生日しつこく聞き出したよね」
「あまり、声高に言える日でもないので」
「でも俺の大切な花が咲く季節だったから、うれしかった」
 肉体があるから存在するのではない。その人がそこにあると誰かが認識してくれなければ、存在しないのだ。人が一人で存在できないのは、そういうことでもあると、小さな星の王子さまの物語も、作者が語らなければこの世に存在しないままだった。
 悲嘆と孤独の海沿いを歩き続けながら、それでも生きることをあきらめなかったからこそ、誰かが知り、誰かが語る一十木音也は今日まで20年、生き続けている。生き抜いて季節外れの花を咲かせて。

「いまあなたのお母さんのこと、思い浮かべることはできますか」
「できるけど。こんな時に来てもらうのは、ちょっと恥ずかしいな」
 かあさんなら、笑って喜んでくれそうだけど。
 リズムの違う心臓の音ふたつ。シーツと腕で閉じ込めた躰を、ひとつひとつ味わうように確かめていく。彼の零す、一握りの生命の呻きを知る者は、今、この世界で、私しかいない。

「ねぇ、トキヤは、俺が初めて好きだよって言った時、どう思ったの?」
「あなたが初めて……ああ。私の文字を見て、『真っ直ならんでるけど、気持ちの込め方は熱くて、すごく好きだよ』と言ったときですか?」
「ちぇ、ひっかからなかった」
「初めてはそこでしょう。あなたの好きはそれこそ同じではないと言っていたではないですか。だから私の中にはきちんと分けてありますよ。好きだと言ってくれた時のこと。まあ、もちろん沢山ありすぎて全部は無理ですが」
「全部って言われたら、さすがに怖いかも」
「……そうですね。会って間もないのに、何を言っているのか、心底困りました。どう受け取ればいいのかと」
「うん、あの時の困ったトキヤの顔、すっげーかわいかったから、よく覚えてる」
 なにを、と息を奪い、熱をぶつけると、色気のないうめき声が上がった。それにすら興奮する自分もだいぶこの男の色に染まっているのだろう。口の中に閉じ込められた息が逃げようとする、くすぐったい振動が、たまらなく二人の身体が一つになっていることを思い知らせてくれる。




[utpr]春の話13、ひろくん、2。

[観察日記]
■ひろくん 2。


 監督さんいわく。
「いやあ、エキストラのマイクがちゃんと音声拾っておいてくれてよかったよ。あれ聞き間違いじゃなかったんだね。気になっちゃって。『おとうさん』って呼んでるのに、それに呼び慣れてないところとか。メインのカメラのマイクだと音声だと不確かでね。「ひろ」なのか「いきろ」なのか上手く拾えなくて。本気で心配して駆け寄ったところとか。あの民衆の中には、そうやって名もない家族がいたんだなってね。で?どういった設定だったんだい?え?音也くんみたいな息子がいたらって話になって?それで、待ちの時間に親子の真似を?ああわかるよ。あのぎこちなさ。そこが気になったんだ。ちゃんと録音は残っているよ。オンエアではさすがに他のエキストラの悲鳴の方をクローズアップしたけどね。怪獣を写すから、音也くんはほとんど入れられなかったし。そこをクローズアップしてしまうとせっかくの怪獣が目立たなくなってしまうからね。で?ヒロって名前はその話の時に決めたの?え?適当?その場のノリでよんだ?父さんって呼ばれて、ああ自分はこの子と二人で生き延びねばってっなったのか。亡くなった息子さんの名前…2人は親子って設定なんだね?ちがう?本当の親子ではない。名前が偶然一緒の、里親とその子供で…なるほどなるほど。いやあ。参考になったよ」

 準所属時代にエキストラで出演した怪獣映画の続編が決まって、サブキャストで出演が決定した。怪獣再来。なんでもその時襲ってきたのがお父さん怪獣で、実はお母さん怪獣と子供の怪獣がいるらしい。その怪獣と戦う主人公サイドと、怪獣を守ろうとする敵サイドに話は広がる。
 あのとき父と呼ばせてくれた俳優さんはメインキャストとして出演が決まっている。
「こんなことになるなんてね」
 彼は去年主演を務めた映画が大好評で、今やテレビでひっぱりだこだ。
「俺、あれから考えてたんですけど、もしかしてあの時こけたのって、わざとだったんですか?」
 あのパニックシーンの中、誰それ上手く逃げ切れるわけない。
 人は自分の命を優先して、そんな時誰かを見やることなど出来るのだろうか。そう考えた。あの中で倒れるなど、踏みつけられ蹴飛ばされるかもしれない。でも、その方がリアルだ。この人はあの瞬間に生き残ることができない役を選んだのではないかと。
「あれね……あのまんま。こけるつもりなかったんだけど。あの時の僕もあんなに中心に配置されると思ってなくて、もみくちゃに走るの怖かったんだよ。案の定こけちゃったし。みんな役者さんだから、よけてくれると思ってたけど、立ち上がるのが怖くて。膝小僧も思い切りぶつけていたかったし。だから、本当に嬉しかったよ。助けてくれて。あの時、息子が返ってきたのかと思った。全然姿はちがうけど。おとうさんって。だからぼくも、本当は、いいから逃げろ!っていうのが正解だと思ったけど。いやだよ。一緒に生きたいって。おいて行って欲しくないって、おとうさんなのにね。不甲斐ない」
 ああ。2人の気持ちは一緒だった。
「あの二人、まだちゃんと成長できたんですね」
「あの二人、じゃないよ。君とぼくだよ」
「そうだったね、お父さん」
 それからこの人は、俺のデビューライブにも来てくれたって。そっか。あの歌。聞いてくれたんだ。お父さんのように感じさせてくれた人たちが、あの姿を見守ってくれてたの。すごく嬉しい。

 まだ公に発表はされていないけど、その時の回想シーンには、当時の音源を使うってことになって。音源を聞き返してちょっとはずかしい。本当に、お父さんって、呼び慣れてないのわかりまくってさ。
 あの時から数えても、いろんな役を貰えるようになった。家族って存在も、俺の思う家族の気持ちも込めて演技と向き合えるようにもなっている。だから監督さんにちゃんとお父さんって呼べますよ?ってちょっと生意気に聞いたら、それでいいんだよって。だって、あの時の配役で行くから、成長しててもらわないと困るんだよってさ。あの時の親子は、まだこうやってドラマの世界で生きて暮らして成長しているんだって、そういうの感じてほしいんだよ。って。そういうの楽しいじゃん。あの時の人が!?ってそういう驚きも感じてほしいんだよ、って。
「追加キャストを組むにしても、当時の世界に生きていた人の方がいいって。そう思ったからさ」

「どこに巡り合わせがあるかわからないですよ。ですから、端役であれ、その世界の背景にはならず、登場人物にならなければならない。あなたの世界が、あの世界を動かしたのですよ」
 その役者さんと共演してみたいといっていたトキヤは最初、悔しそうにしていたのに、でも優しい顔になってそう言ってくれた。
 監督たちとふわっと話した設定は、しっかりとした土台を組まれて、役名と共に世界を生きている。
「あの時の音声と映像が、乗るのか〜」
 当時の別のカメラのなかには俺もちゃんといた。
 今の自分から見ても幼さと必死で、一緒に生き延びようと必死な一組の親子。自分で演じているとは別に、ああ、今もちゃんと二人で生き抜いているよ……ってその姿に語りかける。

 そうやって支え合って生き延びた2人は……のちに敵対していた。
 なんでぇ!?






[utpr]春の話12、リポート、そして。

[Springreport]
■リポート、そして。


 桜が散れば次の季節への準備。
 4月生まれの音也だが、彼の似合う季節として、夏をあげる人は多い。
 明るく元気に笑顔で爽やか。
 それに、彼にはもっと人となりを想像させる夏の花がある。
 ひまわり。その存在のように、照らすような太陽になりたくて。
 今年も彼は一足早く世間にその花を咲かせるのであろう。アイドルとしての名が知れ渡るにつれて、その花との結びつきがより広がる。彼の誕生日を祝うSNSでも、毎年様々な形でその花が添えられるようになってきた。


 毎年サプライズというわけにはいかず、特に今年は事務所のメンバーと祝うことになっていて、本人にも伝えてある。

 なにせ彼が成人する年。
 翔や七海さん、渋谷さんも今年が成人というだけあって、来年の初めには事務所からの成人式の写真も載るだろう。

 誕生日の「ちょー楽しみ!」は社交辞令でもなく、毎度目のなかに星をちりばめながら輝かせるいくつになってもかわらない。
 次の日は一日オフをもらって、音也と2人で出かける予定もある。
 もちろんプレゼントも用意してあるが、ここのところ二人きりでゆっくりと過ごす時間があまりなくて、ここぞとばかりに申し出た。それゆえここ最近のスケジュールは詰め気味ではあるが、11日を思うと没頭して過ぎ去ってくれるから助かる。

 タクシーは高架下を潜り抜ける。
 頭上を通り過ぎる夜の電車の光と音。
『線路を越えた場所がいい』
 高架工事が進み、遮断機にさえぎられることが少なくなった。
 一昔前のドラマではかねがね遮断機の情緒も組み込まれたりもするが、土地の構造の変化と、シチュエーションは年々上書きされるものだ。切符はICカードとなり、券売機の一番高い切符を意識する機会も少ない。

 あの俳優さんは故人に会えただろうか。その人に会いに、この線の上を辿りながら向かったのだろうか。
 夕方に見送った背中も、ずいぶん前のことのように思う。

 音也はこれを、外の世界につながる存在だといった。それは、たとえ遠くの場所でも、私と音也の住む場所の間でも。そうやって、外に世界があることを確かめている。
 ああ、それに。
 電車の振動は、母親の胎内から聞く音と似ていると言われている。もしかしたら、何処かに、まだ姿を探しているのかもしれない。


 ほら。また音也の事を考えている。
 いや。これは正しい表現ではない。
 ともすれば音也のことを考えることが当たり前で、考えているという感覚も薄れる時がある。
『たまには忘れたいでしょ?』
 呪いのような言葉だ。
 忘れるくらいもっと当たり前にならないと。
 中途半端な距離はかえって毒であると、まるで術中にはまったのではと思えてくるのだ。

 スマートフォンをみれば、おととい連絡を取り合ったきり、彼からの新しい通知はない。頻繁にどうでもいい連絡をよこすが、この時期だから多くを聞いては来ない。私自身の撮影スケジュールも知っているからだろう。以前のやり取りは、星の王子さまのヒツジをみて、私の絵を思い出したとのことだ。なかなかな褒め言葉だ。
 二人が付き合い始めて一年目にお祝いをしたら、盛大に戸惑われた。誕生日があるだけで十分だよ。お前記念日増やすとことごとく祝いそうだから。誕生日だけで充分。それにそれなら出会ってからの日を数えてほしい。一緒にいる時間を、一日でも長く。

 少し睨みつけ連絡がこないかなどと祈ったが、そう都合よくいかず。タクシーの運転手に行先変更を告げる。
 手はラインを開き
『今家にいますか?』
 と打ち込む。すぐに既読はついた。
『いるよ!』
『どうしたの?』
 とりわけ理由を考えずに送った自分にも驚きだが、理由を考えるよりそのままの気持ちを述べた。
『なんとなくです。今から行ってもいいですか?』
『いいよ!おいで!』
 スタンプもなにもない返事なのに、端末の向こうの表情は多分思い描いているとおりだろう。
 言葉に音がつく。
 ふふっと笑いが込み上げてきたのだが、さすがに恥ずかしくなった。
『もう駅にいます。すぐ着きますが、何かいるものはありますか?』
 そういえば、晩御飯は食べたのだろうか。この時間だからもう終わっているか。
『大丈夫。今日外寒いからね、はやくおいでよ』
 おいでおいでと、時折年下の子供のように扱われるが、今日はどうにもその言葉が心地よい。
『では遠慮なく』
 手土産がないのは、少しばかり申し訳ないが、何分急な思い付きであり、言葉に甘えたい気持ちだ。

 頬を暖かいてが包み込み、
「おかえり。わ、ほっぺたつめた」
「……ただいま」
 ほっとした。五臓六腑に声が染み渡る音也の声。
 数少ない二人の決め事の内、ひとつはいらっしゃいお邪魔しますではなく、ただいまとおかえりで、行ってきますといってらっしゃい。
 あいさつをしたいといことだ。どちらの家に出入りしようと。
 踏み込んだ室内は暖かい。
「今帰りなの?」
「ええ。先ほど撮影が終わったので」
「わー…かなり押したんだね。お疲れ様。トキヤは晩御飯食べた?」
「現場で急遽お弁当をいただいたので。そちらで」
「そっか。俺も今から晩御飯。今日はなんと、じゃがいもごろごろの……シチューだよ!」
「おや、浮気ですか?」
「え」
「……いえ、あなたにしては珍しい。その具材ならカレーにしそうなのに」
「シチューだって好きだよ!こ、この前番組でやっててさ」
 妙な間が出来てこれが失言だと理解した。
「ああいえ、あなたがシチューを作るは初めて聞いたので。すみません」
「寒い時ってさ、シチューってイメージあるよね」
 すぐに気を取り直して、話し始めたことにほっとした。
 カレーとほぼ同じ工程で、作られるものなのに専門店がないよねって、って番組で言っててさ。そういえば俺もどうしてなんだろ〜って思ったらつい。やっぱりカレー好きだからカレー!って思ってたけど、そういえば牛乳あったなって思いだしたらもうこれはいくしかないって。
「あ!お湯沸かすの忘れてたっごめん!コーヒーちょっと待ってね」
「ありがとうございます。自分で淹れるので、あなたはゆっくり晩御飯を食べてください。日付が変わってしまいます」
「そ?トキヤの好きなメーカーのドリップ、引き出しにあるよ」
「ありがとうございます」
「そして俺にカフェオレ入れてちょうだい、マスター」
 はいはい。
 音也の方も、何かあったのだろう。この時間に夕食とは。
 鼻歌交じりの食事が始まった。
 キッチンの暖かさにほっとする。
 生活のぬくもりを感じる。
 存外、音也は何でもかんでも包丁一本で料理をする。本人はあまり得意ではないといい、手の込んだことはしないが、特別料理が壊滅的なわけではない。何度も口にしたことはある。学園時代も備え付けのキッチンで料理をする姿を見かけた。それを口にしたことはないが。人の作った食事をおいしそうに横取りする姿を思いだす。何故そんな人間に、今この感情を抱くようになったのか。人生とは奇なるものだ。
 目の前で大口でシチューをほおばる音也に、当時から変わらない食べっぷりを重ねる。
 その姿を眺めながら、いつもよりゆっくりとコーヒーを口にする。
 さて。こういう時に何と言えばいいのだろう。


 明日は夕方までオフになりました、と奇をてらうことなく、伝えれば良いのだが。このまま泊っていくのもやぶさかではないが。何の考えもなくここに来て、そういう口実切り出しのレパートリーが私にはまだ少ないことを体感する。
 もちろん、撮影が前倒しになったのもあるのだが、彼らのことを口実にするのはすこし憚られた。
『近くだったら、それはそれでいいこと沢山あるけど、離れていることでもいいことってあるんだよ。あれ言えるじゃん。『今日は帰りたくない気分。泊・め・て』って』
 いつぞやのやり取りがよぎった。実際のところ、この構文は使われたことはない。音也の方は遠慮なく私の家に泊まっていくし、仕事の兼ね合いでお互いの家に泊まることは何度でもあった。もちろん、そういうこと前提で泊ることだって。なんにせよ、口実はそれなのだからまったくもって問題ないのだが。問題は自分のプライドだけで。ついにあの構文を使う時が来てしまったのか。これは役者にならねばならぬ。オフ状態でスイッチなど入れたくないが、すぅっと息を呑む。
「あ!」
「はい?」
「今何時?俺見たい番組あったんだ。トキヤも一緒に見ようよ〜前、俺が気になるって言ってたアーティストさんがでるやつなんだ。ってかもう今日は泊っていきなよこんな時間だし。……明日は、朝から?」
「……いえ、その撮影が今日のうちに終わったので明日は夕方までオフです」
 そう告げると目が燦々と輝いた。
「俺も!じゃあそうしよう!」
 それから〜、とこちらの意向を聞かずどんどん突き進む展開。内心、かなりほっとしている。いやいやこれはまた後攻だ。頭のなかで時折出てくるスコアボードに点数が加算された。いつぞやの歌番を一緒に見たいだとか、福岡のグルメ番組だとか、新しくできたテーマパークの特番がだとか、止まらないアレコレに、止まったスプーンの先を見やる。
「シチュー、ひとくち頂いても良いですか?」
「ん?いいよ!ならジャガイモとニンジンも、大きくないからいいだろ?はい、あーん」
「……」
 問答無用でのせられた具材の向こうに目尻を細めてほほ笑む顔が映る。口を開けばそっと傾け流し込まれる。こういうことすらやれる相手になったのだなと頭の片隅に冷静な自分が遠くから微笑んだ。
「どう?」
 野菜の甘味と、クリームのまろやかさ。それでいて、少し水が多かったのだろう薄目のシチュー。落ち着く味だ。


 風呂から上がると、リビングはもぬけの殻。寝室へ向かうと、ベッドの上に布団をかぶらず横たわる音也がいた。
 先程までのが動ならば急にスイッチが入ったように静になるのも特徴。
「風邪をひきますよ。今日は特に冷えますから」
「おかえり」
「ただいま」
 風呂から上がってもおかえりとただいまなのはよくわからないが、音也のいる場所がただいまの基準なのだろう。
「寄ってください。入れません」
「トキヤが壁の方にいきなよー」
 おいでおいで、と壁際の方へ誘う身体を、押し込む。
「私の方が目覚めも早いので。今日のお礼に朝食は私がしますよ。さあそっちこそ眠たいのでしょう?腕枕をして子守唄を歌って差し上げますから、ゆっくり眠りについてください」
「あっは、それもいいかも」
「やりませんよ」
「えー、やってよ」
 ふふふと笑いながら音也は体を転がす。寝転がっていた部分は暖かく、抜き取ると音也にかぶせ、自分も布団の隙間に身体を滑り込ませる。
「どうせすぐに寝るでしょう?」
 ころんと向き合うように体勢を変えてきた。
 目にかかる前髪を指で払い、額、目尻、唇へと口づけを落とすと、くすぐったそうにしながらもとろんとした目つきで受け取る。
「まだだいじょうぶだよ」
 何が大丈夫ですか。声にまどろみがにじむ。それでもぽつぽつと音を紡ぐ。
「きょう、来てくれてうれしかった。トキヤは俺の心の声、きこえた?」
「知りませんよ。ただ何となく、です。本当に」
「そっか」
 それはこちらのセリフだと思ったが、音也も同じだった。聞こえたのか?いやまさか。聞こえれば楽だと思うくらいだ。ごそごそと腕の中にまるまる体は暖かい。
「トキヤ来る前まで、キッチンが悲惨でさ、洗い物がたくさんたまってたんだよ」
「……疲れていたのですか?」
「なんとなく。最近コンビニ弁当ばっかりだったし。や。新商品続出でってのもあって気になっちゃって!」
 あぁ、分かってしまう。その言葉が100%真実ではないことが。私は耳がいいのですよ。あなたの声に関しては特に。これは直感だ。もちろん、この声を誰より意識して聞き続けた、私の経験による直感だ。
「洗って捨てるだけなんだけどね。このままじゃトキヤが来たときなんですかだらしない!って怒られそうだなって、思って。片付けたんだ」
「シチューもね、買えばいいかなっておもったけど、ルーの方かってさ。カレー作ろうと思った具材はあったし。またカレーですか、たまには他の物にもって声も聞こえてくる…………トキヤが来たときに、来たときにって考えながらすると、ちゃんとしようって思えるんだよ。……そしたら本当に連絡来て。……神様って、なっちゃった」
「まるで抜き打ち調査みたいな扱いですね」
「突撃となりの晩御飯って言ってよ」
「それでコンビニ弁当なら取れ高は工夫しないと」
「へへ。いいじゃん。……今のおすすめの弁当はって……さ」
「…………明日もいます。もう寝なさい」
「うん……」

「今日は、ただいまって聞けて……」
 いよいよ言葉の間隔が広がる。腕の中の暖かさに、こちらも緩く意識が遠のいてきた。
「ありがとう……」
 ただいまにありがとうなのか。それは帰ってきたことにだろうか。帰る場所にえばれたことにだろうか。そういって数拍ののちに聞こえた寝息。
 そうですね。私もそうだ。
 いつもは飲まない甘いカフェオレもストックしてある。音也が来た時でないと食べないカレー用の調味料もある。同じですね。
 いつきてもいいようにと願いながら過ごすくらいなら、いっそ。
 転がっても落ちない大きめのベッド。男二人が寝転がってことたりるが、壁際へ押し込み抱きしめる。



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シチューは友人に見せて頂いた関J…8さんの番組を拝見して参考にさせていただきました。
トキヤがマスターっていわれるのは2014年2月20日のプリツイより。

アリス

2022.05.14 大熱波記念日。
WEBオンリーも開催されて賑やかな良い歪みでした。あと10年でリアル大熱波になります。おわぁ。
この日になると色々な場所からバロッカーさんが出てくるのが面白いですし、自分もその一人です。

[utpr]春の話11、皐月の母、そして父。

[観察日記]
■皐月の母。そして父。


 母親の事を調べた時の話。
「屋根より高いこいのぼり」
 大きな真鯉はお父さん。小さな緋鯉は……こどもたち。あれ?お母さんは?

 おかあさんの味はにくじゃが?俺はカレーだよ!肉じゃがも好きだけど。そういえば肉じゃがとカレーっ食材ほとんどおなじじゃん。

 家って、父親と母親がいて、自分がいる。兄弟がいるかもしれない。おじいさんやおばあさんもいるかもしれない。それだけでは幸せだとは言えないことも知ってる。中学の時、その人たちに囲まれても、淋しそうな友達もいた。みんなが放課後遊び回るときに、帰らなきゃっていつもいなくなる子。

 母が養母であったと知って、気持ちも徐々に落ち着いてきたら、自分の実の両親は本当に存在するのか、それは知りたくなった。
 お前がいるからまだ生きてるか、生きてたかのどっちかなんだよ。カンちゃんたちにそんな風に言われて、コウノトリ運んできたんじゃあるまいし、ポコッと生まれたわけじゃないんだって、そこまでは分かったけど。実際に見たことないんだからわかんないよ。
 本当に知りたいの?施設の先生と、児童相談所の人から言われた。
 会いたい?そうかな。いるってわかったらそう思うかもしれない。大人の人たちは難しい顔をしたが、話してくれた。

 調査して分かっていることは、俺の母親は飛行機の墜落事故のあって、それはどこかの国の砂漠に落ちたってこと。あの空を飛んでるやつでしょ?空から落ちるから、それは助からないの、仕方ないよ。俺、木から落ちてもすごく痛かったんだから。
 父親は、母親がそもそも一人で出産したから、父親は自分が父親になったなんて、知らないんじゃないかなってこと。
 養母の葬儀の時に自分の周りにいた人たちも、俺を知らないし、俺もこの人たちの事何も知らない。
 なら、生きている可能性があるのは父親だけだ。突然俺が目の前で「おとうさん」って呼んだらびっくりするかな。
 その報告をしてくれた児童相談所の人が、ぎゅっと俺を抱きしめてくれた。
 別に悲しいわけじゃないよ。そうだと思う。会ってみたい、とは思うけど、よくあなたは父親母親どっちに似てる?って話あるじゃん?俺の顔を見て、それに気付いてくれるのかなって。それに、もしかしたら、その人は今も一人で、自分が父親になったってことも知らないままなのかもしれない。 そう思うと少し悲しかった。


 こいのぼりのうた、二番もあるんだね。
 緋鯉がお母さんで、真鯉がこどもたち。
 よかった!





[utpr]春の話10、夢を見るときは。

[観測日記]
■夢を見るときは。


この魔物が来ると分かっていた。
ひたひたとフローリングを踏む足音。
ズルズル床を這う布の音。
今日はまん丸月夜で、カーテンを閉めても部屋の中の景色が見える。
一人の部屋。
俺一人だけが息をしている部屋。
冷蔵庫に耳をくっつければ、モーター音。
玄関に耳をくっつければ、道を滑るタイヤの音。
バスルームの付けっ放しの換気扇。
ぴちょん。
びっくりした。
シンクに浸けっ放しの器に落ちた水の音。
びっくりするから、もう聞きたくなくて、蛇口を目一杯捻る。
カチリ。
今度は何。
見回した部屋に赤い目玉。
デッキが録画を始めた音。
テレビをつけようか。
煩いぞ、なんて言われないし。
眠らなきゃ。
俺があるくと一緒についてくる白い尻尾。
だからこんなに身体が重たいんだよ。
はなれてよ。
月夜だからいるの分かるんだから。
お前がいるって。
ズルズルうるさいなぁ。
静かだから聞こえてしまう。
静かだから煩い。
ならばいっそ雨の音がほしい。
土砂降りの雨。
それこそ月も流されちゃうくらいの。
雨が降れば外は真っ暗で、何にも見えなくて。
ここがどこかもわからなくて。
ずっと五月蝿くて。
一人だなんてわからなくなって。
あれ、俺誰と話してたっけ。
そこら中水浸しになってて。
お前も濡れちゃえ。
こんなに降って屋根まで崩れそう。
窓の外は海のようだし。
あれ、危ない。
窓に亀裂がはいっちゃった。
パリンって音がした。
あ、ダメダ。
真っ黒な大きな口が押し寄せてくる。
痛いかな。
家の中、どうなっちゃうんだろう?
玄関も無くなったの?
なんだろうこれ。
どこまでいくんだろう?
あれ?でもあそこなんだ光ってる?
なんだろうこれ。
星?
明日も仕事なのに。
やだなぁ。

 チカチカと光っていたのは、スマホの通知ランプだった。
 見渡せばソファの上に丸まって寝ていたらしい。
 少し肌寒さを感じて身体を丸めるが、たいして効果もなく。
 二度寝する気にはなれず、どうしようかと見渡せば、カーテンの裾から見える薄白い青が、朝の訪れを知らせていた。
 予定より早い時間に目が覚めて、体に良い睡眠ともいえなかったから気だるさが身体を覆う。
「うーん、でも二度寝はやめといたほうがいいよね」
 起きられる自信がない。ふぁ、と欠伸が出るが、動けばなんとかなるだろう。朝から自転車でどこか走ろうかな。
 カーテンを開けて窓を確かめれば、もちろん割れてなどいない。
「いや、二度寝っていうか……俺ベッドで寝たはずだけど。そっちのが夢だっけ?どっちだ?」
 夢遊病の類いじゃん、あの夢。
 まだまだなれない、本当の一人暮らし。
 事務所の寮は、部屋は一人だったけど、みんな居たから。

 そういえば、何か連絡が来ていたのだろうか。
 通知の元を辿り、四角い画面にが浮かんでいた光景に小さく悲鳴をあげた。
『おおよそ寝ぼけて送っているのだと思いますが、私がたまたま今から仕事で、起きているので寛大に処理しますが。これで、寝ているのを叩き起こされた時には、覚えていてください』
 トキヤのLINE画面には、翔との間でブームになっている、漫画のスタンプが唐突に送られていた。もちろんそんな記憶は、ない。
『身内だから良かったものの。携帯を持って寝ないよう、気をつけて下さい』
『ちゃんと寝てくださいね。おやすみなさい』
 1時間前の返事。

 身内、という言葉に、おやすみと、いわれて。いてもたってもいられなくて。とりあえず顔を洗いにいった。
 ああ今すぐトキヤに会いに行きたい。
 でもすぐには行けない。
 誰だよそんなことしたの。俺だね。
 身内って、俺とお前は付き合ってて、恋人同士なんだけど、身内、身内かぁ。よく言う言葉だけど、トキヤに言われると変な感じ。もしかしてここ、自分だから良かったって言おうとした?言っていいのに。言って欲しいのに。そんなわけないか。今から仕事だって言ってるから、今も起きてるだろうし、きっと心配もしてくれてた。最初のメッセージから、二つ目までの間が11分。きっと考えてくれてたんだ。


『そんなことだろうと思いましたが。以後気をつけなさい』
 まずはご心配おかけしました、と、恭しく謝りを入れたら、すぐに電話が掛かってきた。どうやら出勤の途中らしい。
「ごめん……今度から気をつけます。あ、それと!おはよう、トキヤ」
『おはようございます。今日はいい天気ですよ。桜も綺麗に咲いています。顔を洗って。早起きは三文の得と言いますからね』
「そうだね。お互い、今日も頑張ろう!」
 三文の得。そうだね!朝からおはようって言い合えて、今日はきっといい日になる。



「歩いてたと思ったら家が水にのまれて。でもすごく綺麗だったんだ。でもあれ夢なのか夢遊病なのかわかんなくて。ベッドで寝てたのが夢なのか。起きたらソファーで寝てたんだよ」
「今日は泊っていきなさい。そうしなさい」





[utpr]春の話09、オールトの雲より

[Springreport]
■オールトの雲より


「住むのなら、線路越しに会いに行ける場所がいいな」
 芸能の世界へ本格的に足を踏み入れる第一歩として、とにもかくにもまずは住居の確保だ。学生寮、事務所の寮、マスターコースの寮、年々目まぐるしく引っ越し作業が伴ってはいたが、これからの仕事と生活を考える流れになり、彼はそういった。一緒に住むとまではまだ行かなくとも、付き合っているのだからてっきり住む場所も近くを選ぶと思っていたら、電車で15分。どういったわけだ?驚きと、少しばかりのショックを受けていた。


「会いに行きたいから」
 決まった住処に荷物の運び入れも終え、近くのカフェで一息つく。
 離れていると、会いに行きたくなる気持ちがぐっと強くなるんだ。学生の頃のこの男からはきっと出なかったであろう言葉。
「美味しいアイスを買ってもさ、すぐに届けにいけないし、だから二人で買いに行こうと思うだろ。あ、でも作りすぎたからちょっとお裾分け!ってのが出来ないのはな〜。ってトキヤ作りすぎることないか。俺の作ったもの食べてくれる?ありがとう。でもそんな距離がある訳じゃないから、自転車でビュンって届けに来るよ!タッパーに詰めて。え?食べに行くから呼べ?へへへ。トキヤも自転車乗れば?バイク?あ、車か〜うん。いつ来るのかな?って待ってくれてると思うと、早く会いたいなー!って思うわけ。それにね。会いに行くのも好きだし、待つのも好きだよ。いつか来てくれるってわかる人を待つのは」
 それとて都心区の中にあるのだから、遠距離なんてものではないが、気安く訪れるにはなにか足がないといけない。音也は一人暮らしと共に持ち始めた自転車が乗りたくて仕方がないようだ。
 会いに行くから、会いに来て。
「近くだったら、それはそれでいいこと沢山あるけど、離れていることでもいいことってあるんだよ。あれ言えるじゃん。言ってみたいんだ。『今日は帰りたくない気分。泊・め・て』って」
 上目遣いに何かを参考に模したのかは知らないが、文章に起こすと主張するであろう中点のノリは、自分たちを鍛え上げてくれた先輩の存在がちらつく。
「それを言われた日には真夜中だろうと、大雨の中だろうと、帰れという自信しかないですね」
「トキヤが言ってくれてもいいんだよ」
「そんな風に言わせてみてから言ってください」
「うん!……ん?」
「それはそうと。線路のこだわりは何なんですか。純粋な興味として」

「線路ってさ、俺の中の旅の代名詞なんだよ」
 施設にいたころ切符をかってカンちゃんたちと……施設で一緒に育った兄弟みたいな存在なんだけどね。カンちゃんたちとサッカーの試合を見に行った時、初めて電車に乗った。違う場所に連れていかれるんだって。俺は東京で生まれて、ここしかしらない。はじめて切符をかって電車に乗っていったのは埼玉だったけど、ワクワクすると同時に、怖かったんだ。もう戻れないかもしれない。でもここに置いていかれたら、俺はどこに戻ればいいの?って、カンちゃんの手をずっと握ってたんだ。だから、今も線路は、目に見えるのにね、電車は、どこかとここをつなぐ場所だと思ってる。乗る人の中にはさ、そのままどこかに行って、ここに帰ってくることのない人も、いるかもしれないじゃん。

 ヒマラヤの雪山にビッグフットと戦いにいった男のセリフとは思えない。県外どころか国外すら出ているのに、外の世界をつなぐのはこの連なる箱なのだ。
「トキヤはさ、福岡からこっちに来たときどう思った?生まれた場所を離れる時、心細くないの?」
「線路は魔物でしたね」
 東京へ越してきて、何より一番困ったのは駅の広さと、路線の多さだ。せんろはつづくよどこまでも。旅情とは裏腹、東京の路面図を見た途端選択肢の多さに、タコのようなモンスターだと思った。
「今は飼いならしていますけど、あの頃の私にも魔物と戦うのだと、思っていました」
「魔物って。なんだかそのトキヤ想像するとすっごくかわいい。いや、必死なんだよね?ごめんごめん。そういえば福岡の、どこだっけ?実家」
「博多駅には近くはありました(※)。空港からも距離はあまり遠くないですし。ただ、子供のころどこかへ遊びに出回ることもなく。小学校を卒業してからこの業界に入って、駅と空港と家。正直それくらいですよ。産まれの地について私が知っていることなんて」
「そっか」
 心細くはなかった、とは言えない。どんな家だったにせよ、離れてみて自分が違う場所に『帰る』という事への違和感を中々ぬぐうことができなかった。
「ああ。でも最近は地元の駅の装いも随分変わったみたいです。テレビで見ましたが、知らない場所になっていました」
「へぇ。いつか行ってみたいな。トキヤの故郷」
「……ええ、いつか」
 あなたと共に色々な景色を見たいですね。
「…あ!複雑って言うと俺の中学ん時の修学旅行大阪だったから、それも県外になるか!あれだよ。梅田ダンジョン!」
 ……雰囲気づくりという言葉はこの男にはないのか。

「そういう考えなら、一緒に暮らすのはそれに満足した後でしょうね」
「もう考えてくれてるの?」
「例えばの話です」
 果たして満足するのだろうか。先々のことを考えても前途多難だ。度々、なぜ自分はこの男のことが好きなのだろうかと哲学してしまう。好きに理由など要らないとも知らしめるのも、結局この男なのだ。
「自分の時間大切にしたいだろうから、一緒にいると俺、お前の時間、全部自分の物にたくなりそう。たまには一人になりたいでしょう?あ、でも完全に忘れちゃやだよ?寮生活の時は期限があって、今からはそれがない。それに今からどんどん忙しくなるんだからさ!お互いすれ違うことか、家に帰らないことが多いかもしれないけど……」
 一緒に暮らすのに、一人の家。
「ならばお互いどちらかが音をあげるまでそうしてみましょうか」
「頑張ってみるよ!」
「……頑張るという事は、一日でも長く私と離れていたいと?なるほど」
「え!ちがっ!トキヤはそうやってちょいちょい揚げ足とるなぁ」
「私は勝つ自信しかありませんね。早く根負けしてください」
「そういわれると、意地でもトキヤから言わせたくなるじゃん」
 変なところで意地を張り合う。くすくすと肩を揺らして笑っていたのに。
「ただいまとお帰りが、一つのところに集まったらいいな」
 夢のように語ることに、彼の中では夢のままという。眉間にピクリとしわが寄ってしまったが、何とか受け流す。無垢な残酷さを感じた。いや、この男の踏み込めない場所と、それに踏むこむための自分の勇気が足りないのだ。いつもどこか目の前の私ではなく、遠くにいる存在に祈っているようで。軽々と飛び越えてきたこの男の、本当の気持ちの形が、実はまだ見えてはいないのだ。まるで何かが流れてくるのを待っている、ゆるい川が二人の間に流れているようだ。





(※)どこもかしこも捏造ですが、博多周辺設定にしてます。音也の修学旅行先も本編にはそんな話ありません。駅も、阪急などが入る前の駅など、時系列も捏造捏造。
音也と電車のイメージは、ゲームの初登場が電車の中だったので、そのイメージと、趣味です。

[utpr]春の話08、独奏曲

[Springreport]
■独奏曲



 人は同じことを繰り返すことを怖がる。
 この世に二番煎じという言葉があるからだ。同じ言葉も言い続けたら飽きが来るようで、違うものを聞きたくなる時が、必ずやってくる。
 だから、それを避けようとあの手この手のアレンジを加える。
 好きなものを何度も見てはいけないのか?


「楽譜通りで心がない」
 そう言われた時を何度も思い返す。
 正確さこそ大切だと思っていた私は、下手にアレンジでごまかそうとするものこそ滑稽に思えた。作り手の記す楽譜の世界は、その形で表現してこそ真価が問われるのではないか。

 しかし音也か何度でも言う好きという言葉には、どうして、毎度こうもざわめくのだろう。
 あなたの好きには、何があるのですか?
 不思議でたまらない。そういうと、
「好きって思う瞬間はその一瞬しか出会えない。厳密に言うと、同じ好きってのはなくて、その時好きって思うのって、こう、いろいろ違うんだよ!空の色みたいな感じ?その時の何を好きに思って好きっていっちゃったのか。それはその時の俺にしか言えないし。今トキヤを好きって思ったのは、俺の好きを、受け止めてくれて、それでそれはどんな味って、すっごく考えてくれてるから。俺の事、すっごく考えてくれてる。それが嬉しくて、好きって思う。でも明日になったら、ううん、もう今この瞬間でも、俺の好きって気持ちを考えてくれたトキヤがいたって知ってる。そのトキヤがいたのは絶対心に残っている。そのトキヤを知っている俺が改めて考える、好きって気持ちが、どんどん繋がっていくんだよ。だからね。同じように言ってって言われたら一番難しい。できないよ。そんな感じ。なんだかおなか減ったな……」
「好きという言葉がゲシュタルト崩壊しそうですし、なぜそこにたどり着くのか、まったく理解不能です」

 ふと、クラシックのそれなのかと思い至る。
 サラサーテのヴァイオリン独奏も、果たして今まで何人の手でこの世に送り出されていたのか。
 クラシックこそ、解釈の世界だ。
 楽譜に書かれた図式は一つなれど、そこに見える景色は差万別十人十色。指揮者の解釈、奏者の技量のこすり合わせ、世界に一度だけのオリジナルの景色を生み出す。同じ音を作り出すことはできない。その瞬間にしか生まれないものだから。
 それに近い気がする。
 解釈を叩きつけるのだ。
 その言葉を表現するためのオリジナルの解釈。
 「すき」といういたくシンプルな二文字の間にある世界は、私の解釈でしか表現できない。
 本来、思考を伴うとはそういうことでは。

 頭の中を駆け巡るツィゴイネルワイゼン。
 音也といるとたびたび思い出させてくれる。






[utpr]春の話07、ひろくん。

[観察日記]
■ひろくん。


もちろん施設にはたくさん家族がいた。
かあさんだけじゃないんだ。ご飯を一緒に食べる人は。
でもそれ、家族っていうより、学校だろ。
そういわれて、そうかもしれないって思っていた。小学校や中学校で暮らしているのとどこか似ていて、今にして思えば、一番近いのは寮生活なのかもしれない。
それって、でも、寮が寮だってわかるのって、寮じゃないところで暮らしていたからなんだ。
俺も、本当は知っていた。でもこれは俺の家族。家。みんなもそう思っている。そう思うようにしている。
毎年誰かがいなくなって、新しい子が入ってくる家族。おとうさん おかあさん おじいいちゃんおばあちゃんは いないけど。兄弟が沢山いる、家族。おかあさん おとうさんってそう誰かを呼ぶことって、長らくなかったな。

アイドルになってビッグになる!って言ったとき。ドラマの役者さんもやるの?ってチビたちに聞かれて、その時はよく考えていなかった。アイドルって歌うだけじゃないのは知ってるけど。ドラマは皆と一緒によく見てたし。そこに描かれている家族を知っていれば充分だって。ちゃぶ台をかこんで、同じテレビをみて、一緒に晩御飯を食べて、おかえり、ただいま、いってらっしゃい、いってきます。そんなの俺たちだって言ってる。

初めて「おとうさん」と呼んだのはドラマではなく、役名もない、怪獣映画で逃げ惑う民衆のエキストラ。
準所属として言い渡されたのは『ファンを1万人にして、ライブ会場を満員にする事』だった。だからまずは知ってもらわなきゃ!貰える仕事はひたすら受けた。

崩れる予定の駅から逃げ惑う民衆。
一緒になった俳優さんは親子といっていいほど年が違って、お父さんがいたらこれくらいの年齢なのだろうかと、息子は君くらいになってただろうね、って話になって。あまり多くを聞いてこないその距離感が心地よかったし、そういわれたのがくすぐったくて。一度だけ試しにおとうさんって、呼ばせてもらった。口をそう動かすことに慣れてなくて、変な感じだねって笑い合って、その後ちゃんと「今度ライブやるので、よければ見に来てください」って宣伝した。

撮影本番。逃げ惑いひしめく数百人の中、それでも誰もがカメラを意識して何かを演じ合う。俺は怪獣がいる、だろう場所を何度か振り返りながらもうまく言葉が出てこなくて、あの俳優さんの姿を無意識に追う。周りの必死さに焦るばかりだった。
視界からあの人が消えた。足がもつれこけてしまった。こんな混乱のシーンだ。ひとりふたりこけた人がいる方が臨場感があるかもしれない。今にして思えばそうだけど、ただ単純にその人はそのままだと逃げ切れない人だと、思ってしまった。巻き込まれて、死んでしまう人。ついさっき、ほんの一瞬だけ生まれた親子。せっかく俺を息子と呼んでくれた優しい人。

「おとうさんっ!」
引き上げるように手を伸ばした。その人も目を丸くして、それでいて手を伸ばしてくれた。
「ヒロッ」
そういって手を取って足をかばう父を支えながら逃げるほんの一瞬の。ストーリーはない。2人だけのドラマ。もちろんオンエアではかろうじてこけた姿こそ使われたものの、画面の端で、俺は一、二秒くらい。駆け寄った足元と、その役者さんを支えようとする腕を回すその一瞬だけ。悲鳴にかき消され、その言葉が残ることはなかった。だけど、そのときそこに、一組の親子がいたんだ。




[utpr]春の話06、歪んで真っすぐ

[観察日記]
■歪んでまっすぐ


 忘れられる瞬間があると知った。
 カンちゃんたちとサッカーをしていた時だ。
 ボールを追いかけるのに夢中で、その時はそれの事しか考えられなかった。なにかに夢中になれば、母さんがいなくなった。忘れられるんだ。
 心が変に軽くなった。俺が悪いわけじゃない。
 これがどれほどの悲しみだとか、そういうのは分からなかった。泣くと湖の水かさがましちゃう。
 濡れて身体は重いのに、そのうち溺れそうなのに、それも怖くてどうしようもなく涙は止まらない。まわりにも同じように家族を亡くした子どもや、家庭の環境で親と一緒に暮らせない子どもたちもたくさんいたのに、笑ってる子もいるのに。
 だから、この悲しみは、もしかしたら持っていなくてもいいのかもしれない。
 その場所にいきたくて、でもその湖から這い上がる手段を、知らなかった。
 カンちゃんや、お兄さんお姉さんたちが笑っている理由がわからなかった。だいじょうぶだよ。
 いつかきっと。
 その言葉は魔法だった。
 母さんがよく言っていた言葉も。だいじょうぶ。
 大丈夫って何だろう。でも大丈夫って言うと、なんだか湖の水が減る。でもまた泣いちゃうと増える。だいじょうぶ。
 あ、また減った。笑いかたもね、真似するようにニコリと口の端に添えた、二本の指を押し上げる。
 なるほど。水の減りがはやい。体が軽くなって、湖からようやく這い上がれた先に、小さな子が、体を震わせて泣いていた。
 ああ、君もまだ上がりかたがわからないんだね。この子を守ったら、と思った。カンちゃんたちが、母さんがしてくれたように、ひとりぼっちからまもってあげれば、いい子にしていれば、きっといつか、湖がなくなる。もう落ちる場所なんてなくなる。ゆるされる。笑えない子どもがわらったら、ひまわりがさいたら。ねぇ、それまで、おにいちゃんがきっと、きみをまもるから。ひとりじゃないよ。おれは、ひとりじゃない。ねえ、笑って。
 口の端に添えた、二本の指を押し上げる。




[utpr]春の話05、アンチノミー

[Springreport]
■アンチノミー


 笑えない、といった彼に向けて自分が言ったのは、それでも「笑うことはできる」という事だった。
 この業界で生きている上で、いいえ、生きていく上で笑いたくなくても笑わないといけないときがある。感情をそのままに生きていくことなど、あまりにも難しい。
 HAYATOであったころに。痛く感じたことだ。心で一ミリたりとも笑わなくとも、口角をあげれば笑える。ウィスキーと唱えれば、口角はその形になる。それを繰り返せば、きっと慣れる。思えば、自分にも余裕がなかったのもあった。嘘をつくことが必要なときもある。そう伝えたかったのには、言葉がたりなさすぎて、それでいて口にする言葉はすべて己に突き刺さるものだった。
「そう、だよね」
 彼は、口の端に二本の指を添え、押し上げた。笑う方法を知っていた。それが、あまりにも歪に滑稽で悲しく、愛おしいと思った。


『大丈夫だよ』
 大丈夫じゃないときに出る、大丈夫。
 渋谷さんはそんなことを言う音也にきっぱりと「うざい」といえたそうだ。彼女の強さを羨ましいと思う時がある。そうだ。見るからに大丈夫じゃない人間の大丈夫など、気にしてくれと言っているようなものだ。そこまでは解る。その先の扉を開いていいものかどうか。それを聞いて、その先を担うことができるのか。それが恐ろしいのだ。引き出しを開いたとして、その責任を取ることができるかの覚悟が、取れるかどうかが怖いのだ。
 事あるごとに「大丈夫」という言葉に何度も苛立った。根拠のない言葉なら言わないでほしいと。

 それが、生きるための呪文だったと理解したのは、程なくして。

 悲しみとは何からわき出でるものか。喜びと悲しみの源泉はいつの時もひとつ。心がどう汲み取るか。どうしてそうもアンチノミーなモノを生み出せるのか。それは人間だからだ。人間が思考を持つ生き物だから。それを失えば、今の己の目指すものすら生まれなかったかもしれない。
 音也が抱えていた悲嘆を目にして、そう思われる。
 失ったものを埋めるように。失った母親がでてこないよう。その空いた穴を必死に埋めていた。
「太陽のようであれ」
 その言葉だけが彼の車輪だった。
 日常見上げる空にある存在として、目にするそれが、言葉を忘れず思いださせてくれたのだろう。
 繰り返していた言葉。

『生きてるならなんとかなるかもしれない』
 相手が生きているからこそ苦しいこともある。希望が捨てきれず歩み寄れず、元の形に収まらないもどかしさを、伝え解くことはできない。それでも、ええ、あのドラマを見た時に其れだとわかりました。伝えたい相手に言葉を聞いてもらえないとは、どういうことかと。

 音也がつかみ取った役は寿さんの弟役。ミュージシャンを目指し家を出た兄と、残る家族を支える弟。そんな殊勝な役柄ができるのだろうか。
「施設ではチビの兄ちゃんしてたし、お兄さんもお姉さんも沢山いた」
 と、台本を目に固まる姿。
 家族という形のあり方に不安を抱く音也に、語った自分も、本当にそれを理解しいているとは思えなかった。
 実際に観た映画は杞憂を通り越し、今までの知りえなかった時間を垣間見るようでもあった。ああ。無鉄砲に無邪気に無遠慮にふるまう彼だけが彼をなしえるものではないと。
 病院でのシーンが、話題となったシーン。
 見る人は演技力を褒め称えた。
 知るものが見れば、それはパンドラの箱が開かれた瞬間だった。とても危うく、リアルがあった。それこそ彼の中の追憶、箱から飛び出したのは悲しみ、怒り、後悔。それに気づけなかった自分の未熟さも。それを受け止めることを許された兄役の男に覚えた怒りも。

 ああ、あれは嫉妬だ。兄の腕の中で震えながら泣く姿に、それを本当の兄のように抱き締める寿さんへの言い知れない嫉妬を感じたのだ。
「いたっ」
「どうしたんですか?」
「台本で手切っちゃった。でもこれくらいなら大丈夫だよ」
 ちろりと覗く舌先の赤が、小さく膨れ上がる赤い血を舐めとる。
 口癖のようにいう言葉は、日常の中にあふれる。
 理解したとてその言葉が聞きたいわけではない。
 大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないといってほしい。
 それを理解できる人間に、私はなりたい。人は一朝一夕には変われないことは自分でもよく知っている。でも理解しあいたい。明日へと結んでいくためにも。
 そう願うばかりです。ダメですね。私も、結局まだ願うだけで、それを持つ覚悟ができない臆病さを捨てきれない。
「行儀が悪いですよ。ほら、手を貸してください」
「ありがとう、って、トキヤ!?」
 強く握れば新たに膨れ上がる赤を、同じように舐めとる。どうせ止血を施されるのであろうと思っていたのだろう。しますよ、ちゃんと。自分でしたときはおざなりの癖に、人がすると途端あわてふためく。まあ、無理もない。他人にそんなことされて快いわけない。どうしてこのシチュエーションはテンプレートとしてあるのか。そう思いながら、彼が生きている証拠でありながら、到底美味とはいえぬ感覚が口に拡がる。
「だいじょうぶ?不味くない?」
「大丈夫です。ちゃんと不味いですよ。血の味が美味しいと感じたら、ドラキュラなのかもしれませんね。ほら、手を洗いに行きますよ」
「不味いんじゃん。どうしたのさ、今日は」
「シチュエーションに対しての見解を広めようと思いまして。いざやると、これが絵になるのか疑問が浮かびましたが」
「いや、こっちとしては、かなり心臓に悪い……」
 居心地悪そうに目をそらすが、かまうものか。
 彼からよく綺麗好きだの潔癖だの、言われている。確かに、他人の血など舐めても不衛生極まりないのに。あなたはそもそも、私がそれを許す相手になっていることに気付かないのか。私がこうする意味を、もっと深く考えてください。






[utpr]春の話04、アザミの太陽

[Springreport]
■アザミの太陽


 知らないものに飛び込む時って、スッゴいドキドキして楽しいけど、楽しさ半分不安半分なんだ、実は。ほら、食べたことない料理を食べるときとか、どんな味がするかわからないじゃん?不味いのか美味しいのか。そんな時に怖がってた子を安心させたくて、俺が食べてみよう!って思ったのが最初だったかもしれない。それが超おいしくてさ。こんなにおいしいものを一番最初に知ることができるなんて、ラッキーって。美味しいかまずいかなんて、結局はその人の好みなんだし。でも怖いんだよ。それを食べて死なないのか。食べたら死ぬものがあることを知ってるから。知れば知るほど、怖いものが増えてくる。それが大人になることかもしれない。フグに毒があるってわかったのに最初に食べた人はすごいよね。

「俺を好きになって、怖いことたくさんあるんでしょ?俺も全くないわけじゃない」
「ならばあなたは私を安心させたくて、先んじて告げたと?」
「あー、違うような。違わないような。男同士で付き合うことが怖いなら、やってみれば案外怖くないかもしれないかもよって、思ったのは本当。でも頭で考えすぎるより、確かめてみればいいんだよ実際に、って思って」
 でもさ、説明できないんだよ。この気持ちは俺にも。好きになったのがトキヤな事しかわからないから。それでも私には猶予が用意されていた。受けるも断るも。この男はこういうところが狡い。
「それが臆することなくできるのは、あなたの美点ですよ。だからこそ今がある。ですが、今後はもう少し順を追って、かつ慎重に口にしてくださいね。もしも公で言われたときには堂々と否定しますよ」
「言わないよ。この気持ちで誰も傷つけたくない。それはお互いのファンの事もさ、仲間も、お前の事も」
 以前のあなたなら、自分の気持ちに嘘をつきたくないと、気持ちを押し通していたかもしれません。時折、あなたの好きと私の好きは、もしかしたら厳密には少し形が違うのかもしないと思えてくることがある。音也の口にする好きは、どこまでも綺麗で大きく広い。なのに私の好きはどんどん相手を小さな箱に閉じ込めるような、そんな好きのように思える。音也が私の事を好きといっても、周りから見れば友好としてとらえられるような気もするが。それくらい、分かりづらい境界線なのは、言われたこちらも思うほどだ。私はそれを押さえながら口にすることは出来ないだろう。だから公然でその言葉を避けてしまう。
 俺は好きになったらどんどん好きになっちゃうから。きっとこれからもどんどん好きになる。こうもまあ相手に向かって好きを臆することなく、何度も伝えることができるのは、一種の才能ではないだろうか。
「ああでも」
 笑顔のままで努めて凪ぐ水面のような声音。そらした目線が、三度の瞬きののち再び合わさる。
「傷つけたくないから。もしもこれから先、トキヤが俺の好きを重たく思うときがくるかもしれない。その時はちゃんと言ってね。怖くて怖くてどうしようもなくなったら、そう言ってね」
「それは楽しみですね」
 言ってどうなるのですか?
 熱され冷却され、刀を打つときのようじゃないですか。私の方が先に愛想をつかすと決めつけられたことに笑いが出そうになった。傷つけたくないといったその口が、今、小さく棘を埋め込んでいく。
 楽しいと言って薦めていた漫画も、今は音沙汰もないじゃないでしょう?あれはどうしました?すぐに気持ちを切り替えられるあなたは、本当にその想いを明日に運び続けられますか。私が閉じ込める小さな箱で生きていけますか。好きだと言われて心躍ると同時に、冷水をあびせられる。本当に度し難い。どうしてこんな難しい男を好きになったのか。愛を伝える合う瞬間はもっと心踊る瞬間だと思ったそれは、聞けばうれしいと同時に、言い様のないもどかしさを感じ続けるばかりだ。







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