2020年、あけましておめでとうございます!
生きてます。ハンドルネームは忘れました

時々ここを思い出してなかなか表では言えないようなことを言語化して、自分の内実を明らかにしていこうという魂胆です。今も昔も行動がそんなに変わってねーな!

次の2月頭で、母が亡くなってから4年になります。
やっぱりこの出来事がわたしの中ではめちゃくちゃ大きくて、未だにその全てを受け入れられてないというか、整理がついていないというか、しこりが残っているというか、ストンと落ちていないというか、そういう部分があります。

理解するも何も、もう亡くなっている人のことだよ。
と思いながらも、わたしの中できっと折り合いってものがついてないんでしょうね。
どうにもこうにも、そういう単純なことがひどく難しい。

そもそも、わたしと母はそんなに仲良くなかったし、人間的に合わない性格をしていたように思う。
母は体裁を何より気にする人で、わたしは自分だけよければいいって人だった。
そんな価値観の相違から喧嘩を死ぬほどしたし、進学就職って節目節目で死ぬほどぶつかった。浪人したのもその辺の価値観の不一致が原因だった。

でも社会に出て母のつらさとか有り難さとかをやっと感じて、ようやくいろんなことを認められるようになってきて、悪かったなぁ歩み寄れるかなぁって時に、母は癌になって、余命宣告を受けた。
なかなか、しんどかった。
前年、前々年に愛犬を二匹、立て続けに亡くしていた。二匹共病気で、よく緊急外来とかに連れて行って、なかなか辛い闘病生活を送った、最後には安楽死させてしまったっていう負い目があった。
それがやっと受け入れられてきて、さぁ!と前を向いた瞬間に、今度は母が病気になった。
なんでだろうなーって何回も思ったよ。

最初はなんでもなかったけれど、どんどん病状が悪化して行って、家で倒れて救急車で運ばれて、肝臓が一部破裂して、ドレーンつけて。
ドレーンつけるまで、無理はだめだよって言ってるのに、仕事に行ったり、早朝のブルーベリー摘みに出かけてしまったり。その時はもう仕方のない人だなぁ!と思ったけど、きっとさぁ、これが最後って思ってたのかもなって思った。それか、気を紛らわすためにも、いつも通り振る舞ってたのかもしれない。
去年掃除して、やっとその母が摘んで冷凍してあったブルーベリーを捨てられた。ちょっと泣きそうだった。

家に帰りたいって病院で泣いて、精神的に不安定になって、毎日父とわたしで病院に寝泊りした。人がいると安心するのか、よくいろんなことを話してくれて、病室でずーっとテレビを見て話した。車椅子で近くのコンビニまで買い物しに行ったこともあった。
家に帰りたいって思い、叶えてあげたくて、介護休暇をもらって、家に帰って。
でもその時に、何かあっても絶対救急車は呼ばないでねって言われたの、なかなかプレッシャーだったなぁ。
それで、わたしと母のほぼ2人の生活が始まって。できなかった料理を教えてもらって、一緒にお風呂に入ったり、またたくさんお話ししたり。でも薬のせいか、寝てることが多くて、声をかけても反応がなくて、生きてる!?って思ったこと、何回もあった。

床ずれ、痛そうだった。ドレーン、痛そうだった。ずっとずっと、辛そうだった。
でも、いつもわたしのことを気遣ってくれてたな。仕事休んでくれてありがとうって、だから家に帰ってこれたって。あなたがここまでしてくれると思わなかった、って言われた時は笑ったけど。
でも結局、わたし最期のクリスマス、インフルエンザに罹っちゃって、一緒に過ごせなかったな。それだけな心残りだった。ごめんね。ほんとにごめんね。

結局年明けて、それからガクッと調子が悪くなって、イヤイヤ言ってるところ、無理やり救急車に乗せて、病院に戻って。
胃瘻しなきゃ、ってお医者さんに言われた時、すごく嫌がって、最後までそれはしなかった。どんなに朦朧としてても、つらくても、家に帰りたいって言い続けて。ICUに入って、モルヒネの投与が多くなって、幻覚が見えて、時々暴れたり、そんなことがあっても、時々正気に戻る時があって。
死にたいって言われた時、やめてって言った。でも、すごく辛かったんだよね。悲しかったんだろうね。医療関係の仕事についていたから、きっと自分の状態がどんなものか、わかってたよね。こわかったよね。
でもそんな状態の母と喧嘩したりしたな。だってダメって言われてた飴舐めてるんだもん笑 あれ絶対幻覚見たな!と思った、わたしの方が間違ってたの笑った。
めちゃくちゃ謝ったし、家族からよくあの状態の母と喧嘩できるなって言われた我仰る通りです。でも必死だったんです‥。

お医者さんに、家に帰る時になくなることだってあるよ、それでも家に帰りたい?って家族への確認が入って、それでもって承諾して家に帰って。
最初、あぁ家に帰ってきた、嬉しい、ありがとうって言ってくれて。もう呂律も回らないのに、訪問看護の先生によろしくお願いします、って言ってて笑った。しっかりした人だった。
そのあと、わたしに欲しいものを頼んだあと、調子が悪くなって。モルヒネ投与して、気が動転したようになって、それが一晩たってやっと落ち着いて、わたしが母の横でうたた寝をしているときに、眠るように亡くなった。


辛いことばっかりだったように思うけど、でも一番つらくて悲しくてこわかったのは、きっと母だった。
訪問看護師さんが、しきにりわたしの精神状態を気にしてくれてたけど、でも、一番大変だったのはきっと母。

母がいない家は大変だった。
こんなに大変かと思った。母すごいと思ったと同時に、わたし、なんで手伝ってあげなかったのかなぁって、くんであげなかったのかなぁって思った。
母がいない家は、本当に大変だったけど、前々、死んじゃったって実感できなくて。
結局、一番、母の死を実感したのは、火葬場でバシン!!!って扉が閉まるときだったなぁ。この世界に生きている人に、死んじゃったよってわからせる為のような、強くて重い音だった。遮断!って感じの音。

あのね、めちゃくちゃ長いよね文章。すまんの。
でもね、こうやって事実を羅列するだけでも4年かかったんだよ。わたし、そんなにダメージ受けてないつもりだったんだけど、それでも思うところや、感じるところ、言葉にできない気持ちはあったみたい。

色々、大変だったよ。
亡くなったときに、苦しんだんでしょう!?って親戚から責められたり、遺品整理しながらないたり。いろいろ、色々あった。
あの時から生活が一変して、精神的なところに変化もあったらしく、なかなか娯楽を楽しむことができなくなった。別にこの辺は辛くはない。そういう気持ちは、なんとなく自分の中でふに落ちてる。

別にわたし偉いでしょ!とかわたし大変だったでしょ!ってことではなくて、ただ、ただ言語化したかったのね。言語化もできなかったから。
ここで一区切り!っていうのとも違う。なんていうんだろうなぁ。もうほんとに言語化したかった、言語化ができるようになった、としか言いようがない。

わたしは母と折り合い悪かったし、家族クソと思ってるところあるから、だからみんな家族を大切に!なんていうことは逆立ちしても言わないけど。でも家族大好きな人とか、大好きな人がいる人はその人を大切にしてあげてね。
大変な時、その人を見ることができなくなる人もいるよ。それもわかる。それと必ず向き合えとも言わないけど、向き合ってる人には優しくしてあげてね。
お願いだよー結構辛かったよ、責められるの笑

あとこれ一番言われて嫌だったことなんですけど、復職して元気なくしてるわたしに「いい経験したとおもって」って言った人いたけど、ほんと神経を疑うからやめてほしかったなー!!!!!なんだったのかなー!!!!!ぶっとばされてぇのか!!!

まぁそんな文字の羅列でした。
みんな幸せに健康に暮らしてくれ。
あとわたしのこの思考は万人に当てはまらないと思うから、話半分に聞いててな。よろしく頼むぞ!