39度と、祖父逝く。B


間が空いてしまいましたが25日の続き。


※私の気持ちは暗くないのですが、タイトル通り、暗い内容ですので苦手な方は気をつけて。



車で祖父が家の前を通ると聞いて総出で準備をしてたんですが10分だけ家の中で寝かせられると言われて慌ててスペース作りと布団準備。

従兄弟達にすら見せるのが恥ずかしい在りし日の面影なしの汚い部屋…(主に姉の本とグッズと本と本)
もう時間がない!と本の上に椅子を乗せたりずらしたりしてなんとか。


そして庭から運ばれた祖父を10分間、家族で囲みました。
母が泣き、叔父が泣き、姉が泣き……。
この記事を書くにあたって一番書きたかったことはここなんですけど。
私は涙は出てはいるけど泣けなくて、一人だけ扁桃炎カバーするためにマスクをしていたけど実は心の底から泣いてないのが周りにばれてしまうんじゃないかとそればかりヒヤヒヤしていた。

いや、私だってかなしい。
98歳という大往生に対して肉親の情なりにかなしかった。

でも声をかけるのは母姉叔父ばかり。
母と叔父の悲しみは語る迄もなく。
元々他人だった叔母も、離れて暮らしててあまり会話した事もなかったであろう従兄弟達の感じもどこか偉大な祖父が遠くへ行ったという実感のないさびしさもおかしくはない。

だが、姉だ。
姉は孫の中でおそらく一番泣いていた。初孫として、同じ家に暮らし同じごはんを囲んだ者として本当に普通に悲しそうに泣いていた。
え〜じゃあ私が間違っていたのか、と。
私が物心ついた頃からの祖父のイメージとしてはとにかく苦手、であった。
何か国に仕える立派な仕事をし、厳しく、こわい、いやなイメージ。
毎日毎日母か祖母と大声で怒鳴りあい、晩年は介護で大変迷惑を被った。
母は、あんなに世話になったのにと言って私を詰るけど孫娘にそういうイメージを植え付けたのはどうかんがえても幼き頃からの母からのすりこみである。
一度小学生の頃、あまりに母が祖父に怒鳴るからこれは祖父の方が可哀想ではないかと、祖父の部屋に忍び込んでまあじいさんはわるくないよと態度で示そうとした時がある。
その時は子供はでてけ!と怒鳴られた。その時から私は祖父に同情はしなくなった。
晩年だって私が祖父に怒ったのは、母に下衆な勘繰りをした時と、姉を憐れんだ時と、介護で後生だからやめてくれと頼みを聞き入れてくれなかった時だけである。(一番最後は私が悪いのは理性ではわかってます)
自発的にキレた時はなかった。いまになって何度も母に悪者扱いされるなら耐えればよかったとも思う。
話が逸れた。
とにかく、私にとって祖父はいいイメージではなかった。
晩年は私を父がいなくて、進学コースからはずれて、可哀想という憐れみの目で見てきた。もちろん気付いた頃からいない父の不在は私になんの影響も与えていないし、学歴コンプは幸せな大学生活によって消滅した。それなのに「かわいそうになぁ」「がんばれよぅ」という祖父に私は言葉に出来ない複雑な感情を抱いていたのだ。
ぼんやりと姉と祖父と先代の犬の散歩に行ったのが楽しかったという記憶はある。だから、言い換えるならいいイメージもあるけれど九割位はいいイメージではなかった。
姉も一緒だと思った。
姉も、祖父を忌み嫌うものなのだと思ってたから心底驚いた(いや、昨今の祖父母に対する態度から薄々わかってはいたが)
三歳の差が生んだ記憶の差だろうか、姉には幸せだった祖父と孫の記憶があるのだろうか。なぜ優しい言葉をかけられるのだろうか。

衝撃と焦燥とずるいという感情で黙って泣いているうちに、祖父が家に帰ってきた10分間は過ぎた。
葬儀社の方が運んでくれ車庫まで見送った。
また慌ただしく片付けるとごはんを食べてない事を思い出し、ドッと疲れが吹き出してきた。
扁桃炎の薬ものまなきゃ、と思った。

疲れが出てきたのは皆も同じなようで従兄弟達は帰っていった。

私はお腹が空いた気がして21日に作ったカレーやらなんやらを食べて実に4日ぶりにちゃんとした食事をしたけれど、胃にはもちろん優しくなく、気持ち悪くなって朝まで眠れなかった。


とにかく25日、98歳の大往生の日だった。